挿入話⑥ 今は遠い、初恋の
「い~い? お母さん達が帰ってくるまで大人しくしておかないといけないんだからね」
指を立ててそのやんちゃそうな顔を見つめる。
彼は子犬のような…しかし私の言葉が形だけである事を知っているような笑みだった。
…なんて可愛いんだろう。小さいながらも私に期待している男の子は、心のワクワク感が目に見えるほどに尻尾を振っている。
…私は、この笑みが「あの」辛い家庭ではできない事を知っていた。こんな小さな身なりなのに、背負う物は重過ぎるから…私が唯一のより所であるかのように振舞ってもらえるのはすごくうれしい。甘えてくればくるほど、私もお姉さんぶりを発揮してしまう。
現在十四歳の私とこの子が出会ったきっかけは今から四年前…まだ六歳だった男の子を一日任された事だ。どうやら親父さんがまた怪我をしたらしい…病院に行く時に大人しくできないだろうからという事で、私の家に男の子を残して急いで行ってしまった。
私の両親と彼の両親は案外仲がよかったので極々簡単にその約束は効力をなしたのだけど…これがまた元気な男の子なんだから私としてはてんてこ舞いだった。
両親は店の仕事で忙しくて、付きっきりで面倒を見る事が出来るのは私だけだった。私は一人っ子だったから…年下の誰かを世話するという経験がほとんどなかった。だから、私の方がお姉さんなんだという事を意識せずにいられなくて…それに結構楽しかっただけに、その日の事はとても印象に残る事になった。
「あぁっ、ちょっと、お姉ちゃん宿題があるから…」
「ねぇねぇ、遊ぼ…?」
…無意識なんだろうか。小さな少年がそんな媚を売るような目で見つめてくるなんて。
「あぁ~はいはい…、遊んであげるから」
――卑怯だ。断れないのを知ってて言ってるに決まってる。こうやって私の口から言わせる事でそれを絶対的にしようとしているんだ。なんて計算高い…そう思わせるほどに私の心をくすぐってくる。…期待に応えないと、私の方がどうかなってしまいそうだ。
初めての出会いからそれからも、暇さえあればうちの家に遊びに来るようになって、私もその子の相手をする事が楽しかったから、中学の友達もクラブ活動なんかもほとんどスルーした。…実際ほぼ毎日一緒にいるような気がしないわけでもない。…お互いの性格の波長が合っていたのかもしれない、とも思ってしまうほどに…本当の家族よりも仲がよかったんじゃないか――そう勘違いしてしまいそうになるくらい、私達は仲がよかった。
子供の成長は早くて、あの頃は片腕にすっぽりと収まっていた男の子も両手を使わないと抱けないようになった。…初めて会った時に比べて何と立派になった事だろう…実の親でもないのに感慨深い。私がここまで育てたんだな――なんていう実感が意味もなく湧きあがってくる。
「僕ね、おままごとがしたい」
昔からそうだ。私の家に来ると何かとままごとをしたがる。…将来の笑い話にはもってこいだろう。でも、最近になってその理由がわかってきた気がする。
こうやって私の所に遊びに来るのは…欠けている何かがここにあるからだと。愛情がわかり始めてきた頃になって母親を失った。肉親であり、最も自分に愛情を注いでくれた人だ。そんな人が死んだ―――しかも母親が死んだと同時に父親が退職して家に居座っている。酒臭くて、乱暴を振るう。母親というより所を失ったこの子には、あの家には居場所がない…でも、私にはどうする事もできない。前に両親に訴えた事があったが「…私たちはあの人に何も言うことはできない」と大人の事情を盾にはぐらかされた。
――今思えば、それがこの子のそばにいてあげようと思い始めた理由なのかもしれない。長年感じてきた冬見隆史という男の子への愛情…守ってあげなければならないという母性が、中学生特有の社会への反発や親への反抗心などのものに後押しされて、私を突き動かした。そうに違いない。
この子は私が守る。誰にも手は出させはしない。この子は私に愛情を求めて愛情を向けてくれているのだから…お姉さんである私がそれを裏切るわけにはいかない。
この子は私に家族の暖かさを求めている。失ってしまった過去の愛情を私に見出そうとしているから…こうやって優しく抱いてあげるのが、私の役目だと思うのだ。
「うりゃうりゃうりゃうりゃ…」
「あっ、な、なぁに…? こしょばいよ…茜姉ちゃん」
髪をくしゃくしゃと掻いてあげる。うれしそうに頭をフルフルと動かして私の愛情に応えてくれている。こんな子が将来大人になって、社会の中で生きていくというんだから心配だ。きっと純粋で無垢で、傷つきやすくて…人にすぐ負い目を感じてしまいがちな人間になっているだろう。どう社会に裏切られて自分の居場所を失う事になるか、想像しただけで涙が出てきそうだった。もっと色んな人から愛されていい、ただ愛されたいだけの優しい子なのに、この子の周りは全てが厳し過ぎるから…。
「じゃあ僕がお父さんで、茜姉ちゃんがお母さんね?」
「わかったわよ」
手から離れていく小さな体。仕事から帰ってきた夫役を演じるつもりらしく、ドアの向こう側へとことこと歩いていく。
…いつか、この子も忘れてしまうだろう。こうやって私が愛してあげた事…でもそれは仕方がない。小さな子供の記憶なんてそんなものだから、私が何度抱いてあげても、いずれ忘れてしまう。抱かれる暖かさを、いつのまにか忘れてしまうに違いないから。
――そして私はお姉さんからお母さんになる。
冬見隆史の奥さんに…なる。