三月九日 5
山本刑事がリンドウに来たのは、バイトが始まって一時間ほどした頃だった。
「へぁ~こりゃまた見事なお仕事っぷりですなぁ」
接客スマイルを強引に投げつけてすたすたと奥に入る。たしかヒレ酒頼んだのって疋田さんだったよな。で、あそこのサラリーマングループは生ビール三つと漬物盛り合わせ三つ、イカの刺身は一番端のカウンター…じゃなかった、疋田さんの隣に座ってる爺さんだ。
運が良いのか悪いのか、またもや満員のリンドウ。近所で奥山刑事の死体が見つかったんだし連続殺人事件のせいでお客が少なくなるかな…なんて考えていた自分がおかしいんだろうか。殺人事件を恐れるどころか酒のつまみにしてそれぞれ飲み交わしている。
「あやや、山本さんじゃないですか…お久しぶりです。お元気にしてましたか?」
そう言ったのは茜さんだった。
「山本さんが来るって事は相当なんですね…」
…なんて意味深に呟く。相当って何だよ。
「…あぁそうか、見違えたなぁ茜ちゃん…大きくなって」
うれしそうに頬を緩ませる山元刑事。俺の知らない所で交流があるようだ。気になるが、あいにくそんな暇はない。茜さんも山本刑事と懐かしんでいる暇があったら漬物を二三切り分けたらどうだ。こっちは火の車も甚だしいってのに…あぁもうピンチヒッターを召喚するしかないな。…そんな風にお客の処理方法を模索していると、
「タカっち、もういいわよ。今日は上がりなさい」
「えっ、まだ始めたばかりだし、こっちは生活費がかかってるって―――」
「いいから。山本刑事も年なんだし、あんまり遅くまで連れまわしたら体に悪いでしょう」
「すみませんねぇ茜ちゃん、今日はご飯もここで食べるつもりだったんですが…」
気にしないで、と苦笑しながら手を横に振る。どういう事なんだと俺が近づいていくと、茜さんはズカズカと俺以上の速さで、恥ずかしくなるくらい近く胸元に進入してきて、
「いい? …危ない感じがしたらすぐに逃げる事。私じゃ守ってあげられないから…」
「子ども扱いしないでってば。…大丈夫な事くらいわかってるくせに」
「確証がないでしょ? ちゃんと帰ってきて。明日私寝てると思うから、起こしに来てね」
そしてぎゅっと腰に腕が回される。…ちょうど陰になって皆には見えない。
「わかりましたよ」
―――しっかりと誰かと抱擁しあったのは、母さん以来だった。
夜の街を白いセダンが走る。早い早い…スピード無視しているにもかかわらず得意そうな山本刑事。夜は交通が詰まるというのに強制力で車をどけさせながら…車の天井に乗っている取付型のサイレンの効力をあらためて思い知らされた。凄まじいの一言に尽きる。
あっという間に例の横道に到着する。路上駐車も何のその、この渋滞の中で路上駐車なんて懲役ものだ。近くに交通整理の警官がいたので俺はそわそわしていたが、気づいた警官は怒鳴りつけてくるどころか、部活の後輩が先輩にするような顔で山本刑事に挨拶をしに来た。
「これ、頼むねぇ」
「わかりましたっ、コーンで囲っておきますんで」
その光景に唖然としていたのもつかの間、山本刑事に引っ張られて横道に入っていく。
あの夜来た時と同じ雰囲気。呼び込みの人もうろうろしていて、決して広くない道はより狭く感じた。やや早足で突き当たりに到着した俺達はVAINの前で顔を見合わせ、
「用意はいいですか? 奴も撃ってくる事はないと思いますので」
「撃ってくるんですか!? 危ないじゃないですか…」
「そこらへんのヤクザに会うのとはわけが違いますから…僕としても彼らの方がいいですよ。まだ精神的に優位に立てます。でも、伊勢光彦は別格です。命、握られてますしね」
疋田さんからも話は聞いていたが、いざそのバーを目の前にすると足がすくむ。あの時にはなかった弱者その他を寄せ付けない妖気のような力が密集しているような感じだ。
「行きますよ?」
唾を飲み込む。山本刑事も表情が硬くなっている所を見ると、よほどの相手なんだろう。
ドアを恐々と開ける。でも背筋はしっかり伸ばして。…からんからんと鐘が鳴る。それだけで失禁しそうなくらいに緊張した。
「…いらっしゃい。あら、また来たのね、ボク」
待っていたように丁寧にお辞儀する伊勢。目の覚めるような血色のドレス、大き過ぎるマスカラは変わらない…伊勢は、狂気を内に秘めた妖悦な視線で俺と山本刑事を見比べて、
「隣のおじ様はお友達かしら? …渋いオトコも好きよ?」
「あははは、どうも」
困ったように笑みを作る山本刑事。…でも、いつ拳銃が飛び出してもいいようにしっかりと身構えている気配だ。座って? と促され、スツールに二人腰掛ける。腕時計を見るふりをして山本刑事を見ると彼もこちらを見てくる。緊張感を崩したのは「メニューをどうぞ」と言う伊瀬の声だった。
「じゃあ二人ともウイスキーで。…俺の分はまた割ってください」
「うふふ…わかったわ、ちょっとお待ちになって」
しっかり磨き上げられえたウイスキー用グラスと普通のグラスをテーブルに置くと、粘性のなくなった蜂蜜のような色の液体が注がれる。…今だからこそ思うが毒でも入ってるんじゃないかと不安になった。俺の方の中身は山本刑事より薄いが、その分、量がある。
「…そうそう、ボク…ずいぶんと派手にやってるじゃない?」
新聞で見たのだろう。俺が拳銃を買った次の日から銃殺事件が毎日起きれば勘違いされてもおかしくない。俺を探るような目で言う。
「俺じゃないんです。違うんですよ、俺、買った日に自殺できなくて…マンションの屋上から捨ててしまいましたから」
「そうなの? まぁいいわ…私も誰が死のうが知った事じゃないから」
「それで、何の用事かしら?」
「今ちまたを騒がせている連続殺人事件の事でですね…。伊勢さん、貴方はこの青年に銃を売りましたね。…彼以外に同じ銘柄の銃を売った覚えは?」
「ないわね…それと名前で呼ぶのは止めて。ママって呼んでね」
きっぱりと返してくる。…でも、そばに刑事がいるのによくそんな事を堂々と…録音されてたりしたらどうするんだろうか。
「よく、刑事にそんな事が話せますね。…いつでも殺せるからですか?」
「うふふふふ…だから、そんなに怖がらなくていいわ。今の情報社会と確固とした証拠がないと腰を上げれない機動性に欠いた物だし…それに、録音されてるわけないもの。内の店に足を踏み入れると、入り口付近に張ってる弱い電磁波や磁気でデータをこなごなにしちゃうから…」
…見た目以上に最新設備らしい。電子機器を破壊するなんて。という事は、山本刑事のケータイも壊れてしまっている…?
「…本当ですね。画面がしっちゃかめっちゃかになってますなぁ」
山本刑事も同じ事を思ったらしく携帯電話の画面を睨んでいた。待ち受け画面がアルファベットや数字で埋め尽くされている。どのボタンを押しても変わらず、電源も切れない。
「…私は凶器をこのコに売った以外は全く関与していません。現場の弾がこのコのだったとしたら、もう屋上から捨てた銃しかないでしょう。私は理由もなく人は殺しませんわ」
…二人の間にいつの間にかぴりぴりとした殺気が入り乱れるようになってきた。でも伊勢の方は全く動じない…客観的に見ても山本刑事一人では勝ち目がない。…山本刑事もそれを悟ったのか、ぐぃっとグラスの中身を飲み干すと席を立った。
「そうですか。ではご協力感謝します。冬見君、もう用は終わりましたからさっさと、その水割り飲んじゃってください。…にしても飲酒運転になりますねぇ。冬見君もいる事ですし…あそこの警官を一人借りていくとしますか」
何かの劇のセリフのように淡々と言うと、目で「早くしろ」と送ってくる。慌ててグラスを空にする俺。やや急ぎ足でドアから出て行く山本を追って俺もドアに手をかけると、
「…がんばってね。銃を捨てたボクは、事件を最後まで見届ける義務があるわ。貴方を殺すはずだった弾が誰を撃ち抜いていくか、楽しみ半分に見物するといいかも。また入用なら、いつでもまた来なさいな…今度はもっといい銃を売ってあげるから…自殺用に」
俺は無視して出ようとした。…でも足が動かない。口が、意志の力でそれを止めていた。
「…俺はもう、死にたくないんですよ」
そう言って俺は、恐れで目を逸らさないように真っ直ぐに店主を見据えた。
この街に逃げ場がない事はわかっている。…そして、この店主には俺がどうあがこうとどうしようもできないほど危険だという事も。だけど、逸らさないだけの十分な物を俺は背負っていた。…背中にある守らなければならない物の重さを感じながら、最後に言った。
「俺は、絶対に死んでなんかやらない」
夜道は危ないからというので、家まで山本刑事に送ってもらった。
「ありがとうございます。じゃあ、山本刑事も気をつけてください」
「大丈夫ですよ。実は私、伊勢に会いに行くために防弾チョッキ着て来ていたんですから」
ほら…とコートの中を広げてみせる。藍色のチョッキ…俺にはくれなかったのはなぜだろう。どうでもいい事だけど、山本刑事がコートをはだけると、傍目から見るとあれな人だと思われてもおかしくない。
「おやすみなさい…」
山本刑事の言葉に会釈しながら家の中に入った。
暗い…電気をつけてないな。またマージャンか。…仕方ない。今日はリンドウで夕飯をもらってきてないから何か作るか…。
居間に入り電気をつけた途端、飛び込んできた、光、景。
あれ、アリエナイ。だって―――
「…え、えぇえ…? ちょっと、ま、さか……!」
いてもたってもいられなくて居間から跳ねるように後ずさる。靴も履かずに玄関を飛び出すと、のろのろ帰り途中の山本刑事を捕まえた。
「…どうしたんです?」
「親父が…っ、親父が死んでる!」
「え、え? ……あ、明が!?」
「そうですよ! 冬見昭雄…俺の父親がです!」
辺りに声が木霊した。山本刑事が、
「何てこった!!」
舌打ちしたくてたまらないといった焦り具合で携帯電話を出すが、使えなくなったばかりだった…しかも家の近所の平均年齢は高く、九時を過ぎた時間帯で起きている人なんて、いやしない。しかなたく山本刑事と俺は通りに出て行った。
…そんな二人が行ったのを確認すると、物陰に潜んでいた影はゆらりと道へ出てきた。
その不気味さはさながら幽霊のよう。後ろで手を交叉させて、それはまるで散歩中の姿。
ひた、ひたと歩み、瞳で二人の後ろ姿を見つめて。
静かな夜には似合わないくらい口元を――――――怪しく歪ませた。
―――― 弾は残り二発 ΦΦ ――――