三月九日 4
適当に街をぶらぶらして過ごした。試食コーナーをはしごしたり、慣れないゲームコーナーで千円分ほど遊んだりした。しかし格闘ゲームのキャラクターって試合中に息を切らしたりしないんだな。あれだけ激しい動きをしているのに。温存してる暇があったら超秘の一つや二つ使えと言いたい。使ってくれていたならもうちょっとは持ったと思うんだ。
よくわからないが何度も時計を見た。別に時間が差し迫ってるわけじゃない。でも、まるで何かの到来を待っているような心境で長針と短針を見つめた。見つめていても急に四倍加速したりしない事を、心のどこかで苛立ってすらいた。
…一時間ほど時間を浪費して急に立ち上がった俺はどこへ行くともなく歩き始めた。…俺には自分の両足がどこに向かっているのかわからなかった。しかし、目的地がある事は確かだ。曲がるべき角は曲がり、信号を渡ったり渡らなかったり。何の法則性もないと思える選道に、共通点にふと気が付いた。…俺、向かってる。間違いなく。この道は…行きも帰りも通った。行きは車だけどさ。…久上さんの家に。
…でも気になるのは、何で俺がそこに向かっているのかという事だ。…時計を何度も眺めたり、わけもなく苛立ったり、理由もなく久上さんの家に向かう事に原因がないわけがない。…自分でもわかってたはずだろ。でも、気づかないふりをしていただけだった。そう、たったそれだけ。俺って奴は…素直じゃないな。
相変わらずな大きい門に少し唖然として、まだ住人も帰ってないだろうという結論に達した俺は、郵便受けのある壁に背中を預けた。…この辺の家はどの家も大きいな。高級住宅地という奴だろうか。縁遠いな、俺には。
「寒いな…」
なんて事を表向き考えながら、俺は空を見上げた。何て事はない冷たい空。肌を掠めていく刃の痛みにも、ここに車での道のりで慣れた。でも寒い事に変わりはない。
「はぁ…」
スニーカーの爪先でアスファルトを擦る。削れてしまった白いカスが薄っすらと見えた。ジーンズのポケットに手を突っ込み、十秒もしないうちに出す。また入れる…きょろきょろしながら。端から見れば変質者と思われても仕方ないだろう。
待っていた。誰を? 久上さんさ。なぜかと聞かれれば答えにくいが。無性に会いたかった。時計を見ていたのは、そろそろ火葬場から帰ってくる頃かと考えていたからで、苛立っていたのは、会いたいという欲求がなかなかに満たされなかったからだと思う。事件の事をファミレスで話した時から、彼女の事が気になり始めた。生きているか、殺されていないかとかそういう事じゃない。たぶん不安になったんだ。殺されるとか殺されないとか物騒な話が周りにあって、彼女が危険に晒されていると意識した時から。
「どうしちゃったんだろうな…俺。こんなにセンチメンタルだったか?」
急に誰かに会いたいと思った事はあまりない。それとも母性めいた物のせいだろうか。道路の先からタクシーが来ないかどうか見つめる。寒い昼時にぶらぶらと住宅街を散歩する変わり者もいない。車も通るがすぐにいなくなる。何者にも干渉されない事がわかって、少し心細いと感じたかもしれない。彼女の帰宅を待ちわびていたという事に気づいたのは…四十分後に到着したタクシーから久上さんが、自分の家の前に俺がいる事に驚きながらも、それまでの沈んだ表情を晴れにしながら近づいてきた…その足音で。
運転手に支払いをしていたお父さんをおいて、俺と松葉杖の久上さんは一足先に屋内に入った。暖房はまだ入っていなかったがこうも違うとは。…風から遮断されただけでかなり暖かく感じた。腰を下ろして靴を脱ぎながら、
「…寒かったでしょう? どれくらいの時間待ってたんですか」
「いや、来たばかりだったからさ」
実はずっと待ってたんだ…なんて言ったら絶対に申し訳なく思ってしまう久上さんだから、あえて嘘をついた。俺の言葉に少しばかり考えるように沈黙した後、彼女は「暖かいコーヒーでも入れてもらおうよ」と部屋に入っていく。彼女は電気をつけながらエアコンのリモコンで電源を入れた…途端に部屋は明るくなり、エアコン独特の空調音が響き渡る事で、いかにも人が住んでいそうな雰囲気がかもし出されていった。
「お父さん、コーヒー入れてくれる?」
室内でも背広のネクタイをきっちり閉め直しながら部屋に入ってくるお父さんは、
「こんにちは冬見君。ブラックがいいかい? それてもミルクで?」
「ミルクをお願いします。砂糖は入れないでいいんで。手数かけてすみません」
「おいしそうにコーヒーを飲んでくれる人だったら大歓迎だよ。紗枝、荷物を出しっぱなしにしないで部屋に直してきなさい。すぐに忘れるだろう?」
「…手伝いましょうか?」
「いや大丈夫だよ。部屋から入院用の着替えを持ってくるだけだから…それに着替えもするだろうし。覗きたいなら別だがね」
「もう…お父さん! 冬見君に変な事言わないで!」
俺にはすぐ冗談を言っているとわかった。同じ家族であるはずなのに、真に受けて慌てている久上さんは…もしかして根っからのいじられ屋なんだろうか。
久上さんの部屋を出て行く背中を見送ってテーブルに目を戻した時、
「今日はちょっと早く帰ってきたんだよ」
台所のお父さんは電気ポットを傾けてドリップしながら言う。
「紗枝が早く家に帰りたいと言ってね。本当ならレストランで遅い昼食をとった後にそのまま病院に行く予定だった。疲れていたのかもと思っていたが…いざ家に帰ってみると門の前に冬見君がいるじゃないか。これは果たして偶然だと思うかい?」
俺に聞かれても困る。…そういう俺の内心が最初からわかっていたように朗らかに笑い、
「タクシーの中でも紗枝は落ち込んでいたよ。私も励ます余裕がなくてね、声がかけづらかった。…君がいてくれて助かったよ。おそらく君がいなかったら部屋に閉じこもっていただろうから…」
「…という事は久上さんは俺がいるから無理をして明るくしている…という事ですか?」
「違う違う、悪い意味じゃないんだ。確かに無理はしてるかもしれないが、君のおかげで表情は明るくなっただろう? ずっと悲しいままでいるより無理にでも笑った方が立ち直りが早いと思うよ。…君がいてくれて、感謝してる」
三つのコーヒーカップをテーブルの上に置きながら、久上さんのお父さんは静かに腰掛けた。湯気を立ち上らせながら濃琥珀色の香りが鼻腔をくすぐって、取っ手に手をかけると親指と人差し指の甲に暖かさが伝わってくる。喉に通すと焼けるような熱さ…でもお腹を芯から暖められたような感じがして気持ちがよくなった。それだけ冷えていたんだと、実感する。
「円からも聞いていたが…冬見君は、紗枝の事を気に入ってるらしいね」
吐いた。すんでの所で下を向いたので正面に座っているお父さんの背広を汚す事はなかったが。慌てていた俺をよそに、苦笑しながらテーブルの端に置いてあった布巾で飛び散ったコーヒーを拭う。
「あのですね、そういうわけじゃ」
…俺は久上さんを助けたいと思っているが、恋愛感情を抱くには至ってない。…正直な所、よくわからないんだ。でも唯一わかっているのは、彼女のそばにいれば彼女を守れるかもしれないという…ある種の可能性のせいだ。…償う対象でもある久上さんを守ろうとするのは当然だろう。
「違うのかい? なら、すまなかった。…最近あの子は楽しそうだから」
びっくりさせないでほしい。…心臓に悪い。この頃は何かと負担をかける事が多いから油断すると心臓の過労で死んでしまうかもしれない。本末転倒だぞ。
「…本当の罰は、受けてずっと後になって気づく、か」
ため息のように言葉を吐き出した後…憂いを見せ始めるお父さんの瞳。
「それ、久上さんから聞きました」
恥ずかしい限りだ…と困ったように苦笑する。ひっそりとしている家の中では、二階でなにやらタンスの開け閉めをしているらしい久上さんの物音しか聞こえない。少し視線を俺から外すと、壁を通して久上さんを見ているかのように天井を見ていた…どことなく、俺には泣いているようにも見えた。空気の重さを感じて、俺は急に溢れてきた喉の渇きを覚えた。だが、コーヒーに手を伸ばす事さえ、できない。今はもう、思い出すだけしか。
「私は小さい頃から演奏者になりたかった。きっかけは些細なものだがね、いつしか世界を舞台に旅をする根無し草、孤独な生き様に憧れたんだ。収入や名声は興味がなかった。…私は音楽が好きで、音楽に一生を捧げる事に何の迷いはなかった。他人の評価よりも、自分に自分を誇れるような終わりのない孤高、生き様を求めていたんだよ」
「生き様…」
「私が思うに、人ができる最高の自己満足の世界だ。物のように、手触りのある確証はないが、その代わりに果てもない。目先に広がる永遠に続く道、その中にぽつんと一人いる。他には誰もいない。『そこ』に到達しているのは、到達したと思っている自分しかいないからね。誰にも侵されない領域…ある意味自惚れとも言える。生産性は何もないが、それでも人一人を生かすには十分なんだよ。絶対にゴールしないマラソンをやっていて、ゴールを目指す過程にいるだけで満足しているっていう事だからね」
コーヒーカップを口へ傾けながら、もう片方の手で悩ましげに顔を覆う。
「なら貴方の夢は叶っているんですね」
「そうでもない」
湯気を追う視線は、不思議と老いを思わせた。
「以前なら、そうだと答えていると思うがね。もしも、もしもだよ? 私が普通の会社員をしていて、家族を養うためだけ生きていたなら、私は自分の生活に鬱屈した何かを感じていただろうが、それでも今ほど自分に失望を感じなかっただろう。音楽は私の生き様でありわがままだったから、二人が殺された時に私は自分の好きな事をしていた事になる。家族のために何かをしていたのではなく、自分の欲求を解消するために離れていた事になる。家族がひどい目に遭っていた時に、私はのうのうと楽しんでいたんだ。…大切な人が苦しんでいた時にそれを分かち合えなかった無力さと悲しさは、堪えがたい苦痛そのものだ。戻れるなら、その時の自分の顔を殴り飛ばしてやりたいさ…お前はこんな所で何をしているんだ、とね」
俺は黙って聞いていた。今は俺が何を言っても無駄なように思えたからだ。
「家族を失って気づいたよ。…だめなんだ。私はいつの間にか、生き様よりも家族の方を大切に思っていたらしい。どうしようもないな。そんな事に今頃気づくなんて」
話を聞くに、久上さんのお父さんを苦しめているのは自責の念に他ならない。…何で家族を持った時に、せめてもう少し家族のために何かしてやれなかったのか、と悔やんでいるんだ。そんな事、今頃思っても、もう遅い。そうわかっているからこそ許し切れない。
つまり、生き様を捨て切れなかった自分を恥じているんだ。自分は家族の方が大切だと無意識にわかっていながら、自分を形作る理由を手放せなかった。家族ともう少し一緒の時間を過ごせたはずという可能性が考えられるからこそ、どうしてその可能性を模索しなかったのかという自分自身の行動力のなさを非難している。とにかく、不甲斐ない自分を全て否定してしまいたい衝動に駆られているんだろう。
…でも、それは仕方のない事じゃないか。それこそきりがない…生き様を求めるのと一緒だ。果てがないからこそ、自分を最後まで許し切れない。永遠に苦しまなければならないなんて、不憫過ぎる。
「…貴方は、嘘つきだ」
だから、無性に腹が立った。
「貴方は確かにひどい結果を迎えてしまったかもしれない。それを自分のせいにするのも構わないですよ………でも、自分を痛め続けた所で何も変わらない事もわかっていたはずでしょう? それもずっと前から」
「円ちゃんから教えてもらいましたが、『泣いて解決する事なんて何もない。悲しい時こそ泣くな』…もしかしたらですけど、この言葉は本当は『いつまでも立ち止まらないで、悲しい事をわかった上で、前に進め』っていう意味なんじゃないんですか? …いつかこういう風に自分が苦しむ事をわかっていたから、同じ演奏者を目指していた彼女にその言葉を教えたんだ。…彼女が家庭を持った時、同じ挫折を味わうかもしれないから」
…真意が彼女に伝わったかどうかはわからないけれど、すでにこの人はこの人なりに気遣っていた。それが大きい事だろうが小さな事だろうが関係ない。何度も電話をかけるようにしていたのも、それも彼なりの思いやりからだろう。たまにしか会えない。…いつも会う度に、娘の成長振りに内心驚き、そして焦っていたはずだ。自分の知らない間に、こんなに大きくなっていたのか、と。自分と娘との時間の空白が口惜しかったはずだ。
「今の貴方は、とにかく自分が許せない、と思っているはずです。でも、そう思い過ぎているからこそ、自身が今まで家族を思い続けてきた愛情を無意識に否定している。自分は何もしてやれなかったから冷たい人間なんだと、自分を悪者にする事で解決しようとしているだけです…それでは、あまりにも貴方が可哀想だ」
久上さんのお父さんは、呆然と俺を見ていた。俺は目を逸らさず、毅然として見返す。この言い合いは負けるわけにはいかないと思った。なぜなら、俺が銃さえ捨てなければ苦しまなくてよかった人達だ。…俺のせいで不幸に陥ったという事実を俺は知ってる。本当はこの人達に引け目を感じなければならない俺も、引けない。俺は俺自身の罪滅ぼしを終えるためには、この人達がいつまでも不幸でいる事はあってはならなかった。
「…すまない。私とした事が…困らせてしまったな」
「いえ。…誰でもそう思いたくなる状況ですから」
誰でも、大切な物を失うと不安になる。しなければよかった…そういう後悔は付き物だ。そして後悔する事はこの世に溢れてるから…早く立ち直らないといけない。俺が思うに、人間って生き物は打たれ弱いモノだと思うから。
「私とした事が…弱気になっていたな。まぁ二度も妻を失えばそうなる、か」
「えっ…それ、どういう事ですか? もしかして、再婚したとか?」
「ああそうだよ…言ってなかったかな?」
初耳だった。なるほど…ただ怪しいだけじゃなくて、突けば色々情報が出てくるものだ。
「前妻は事故死…でね。雨の日にトラックに轢かれたんだ」
「へぇ…あの、これはついでなんですけど、神崎先生はもしかして病院以外に関係があったりとか…しませんか?」
疋田さんが、正しいのなら。
「あぁ…彼は後妻の弟だよ」
やっぱり。被害者の狙いは全て偶然や無差別じゃない。計画的過ぎるくらいにそれぞれの繋がりが深い。あの神崎先生も死者候補である事は間違いないな。だから疋田さんは彼に注目したのか。俺はなぜかはわからないけれどもさ。
「始めて会ったきっかけは、彼が自分からやってる…老人の家に出向いての定期検診の時でね…道でたまたま妻と会ったらしいんだ。丁度私も家にいてね。彼と話をした…彼は素晴らしく名医だよ。私の話す仕草や立ち上がったり座ったり…動く動作を見ただけで、私の体の不調に気づいたんだからね。…ええと、たしか緊急救命士の資格も持っていたようだよ。この町で火災があったりすると彼がよく呼ばれるんだ。…行動的で精力的、知識も医師としての才能もある。私は彼以上の医者を知らないよ。…本当の事を言うと、彼以外の医者とは話した事がないだけなんだが」
「へぇ…それはすごいですね」
「冬見君も会った事があるだろう?」
「はい。でもそんな風には見えなかったもので」
「まぁ、ね。そう見えがちだけど…人は見た目で判断しちゃいけない。彼がいい例だよ」
「はぁ」
トイレに行くと言って席を立った俺は、今から出てドアを閉めた後そのまま無言で立ち尽くしていた。罪悪感からだろう。久上さんのお父さんを慰め励ましながら、自分の罪の重さに改めて気づかされていた。その後は話は変わったが俺の心にはたまったままだった。
いつまでも許してやれない…それを肯定してしまえば、俺自身をも縛りかねない。俺は罪を償うためにここにいて、償えると信じて、犯人を捕まえるために情報を集めている。
自身を否定し続ける事を間違いだと言わなければ、それは俺の中の罪が消えない事を肯定している事になるからだ。…言いながら内心、辛かった。
落ち着け…そう念じながら息を吸い、吐く。居間に比べて廊下は冷たい。靴下をも通り越してくる冷たさが脳髄に響いてくるようだ。死んだら、この感覚もわからなくなるな。
―――「死にたいなら、ちゃんとした死に場所をあげる」―――
幽が昨日現れなかった理由は何だ。なぜなんだ。事件のあった日から毎夜現れていたあいつが昨日現れなかった理由は? 急に流れを変えるなんて、何かあったのだろうか。
それにそもそも、なぜ俺なんだ。自殺しようと考えている奴は、たとえこの街の中でも俺の他にたくさんいるはずだ…だけど、その中の全員にあいつが謎の言葉を残したとは思えないし、そんな数の人間に会う暇もあるとは思えない。つまり最初から目標は俺だったかもしれない。
ならピンポイントに俺を選んだ理由は何だ? 偶然あったからか? あれを偶然と呼べるのかどうか疑問だけど、一応今日調べたが、あの屋上の重いドアを気配なく開ける事はほぼ不可能だ。他に手があるとすれば、最初からいた、くらいか…? 俺が来る事を知っていたかのようにか? ありえないし、じゃあ出て行く時はどうしたんだ?
「バカな…」
冷静に考えてみろ、何でリンドウで俺がバイトしてる事を知っていたんだ? ストーカーかあいつ…でも今の俺には刑事二人の尾行がついている。いくらその刑事がトンチキでも気づいてくれるはずだ。
幽…お前は何を思って、何を考えて俺の前に現れた? …どうして俺なんだ。自殺ぬ事がいくら悪い事だとしても、俺よりも死ぬにふさわしい極悪党はごまんといる。伊勢光彦のように、俺みたいな自殺志願者や人殺しを企む奴を食い物にする悪党が。もう死に場所はいらない。自殺ぬ事がどれだけバカな事だったか、もうわかったつもりだから…だから死にたくない。未練に気づいたよ。どれだけ周りに大切な物があるかわかったから…! くそっ、何で昨日に限っていないんだ。昨日いれば断っていた。死に場所なんかいらないって叫んでいた!
何で昨日来なかったのか。もしかしたら…そこに、彼女の、悪意が隠れているとすれば。
「――――そうか。…そういう事なのか」
―――戦慄。
血管に沿って全身に鳥肌が走っていくようだった。
そして、体中の血液が足を目指して落ち込んでいく。
その流れを引き金に、ごくりと喉を鳴らした。
そうだよ、よく考えてみろ、何で気づかない…なぜそんな甘い考えだったんだ。俺はバカだ俺はバカだ俺はバカだ俺はバカだ…! 何で最初に気づかなかったんだ、反省すれば俺を殺さないでくれる保証はどこにもない。見た目に騙されていた。大人しそうな見た目から、奴をそんな日和った考えの持ち主だと勝手に楽観視していた。俺の事を知っている奴だからと、無意識にその不自然さを無視していた。あいつは俺に対して何もしなかったからといって良い奴とは言えない。幽は事件に関係する何かを教えてくれている協力者だと俺は決め付けていた!
もしも、「死に場所はいらない」と俺が言う気になった時に限っていないという事は…いらないという俺の発言を聞いてはいけなかったからだとしたら。もしも、俺の言葉を聞いてしまえば、「貴方から、『死に場所はいらない』という言葉を聞いていない」という言い訳ができない…そういう理由で現れなかったとしたら。―――そこにあるのは立派な悪意だ。俺を救う気なんか欠片もない、無表情の裏に俺を嘲笑する奴の本音があるとすれば。
「俺を殺したいのか。―――幽」
全てがそこに帰結する。
神がかっているとしか言いようがない。なぜならあいつは俺しか知らないはずの事実を、または俺も知らなかった事実を知っていた。…あいつの言動を考えてみれば、事件の全貌を知っていると考えるのが普通だろう。
俺を殺す事に全ての標準が定まっているとすれば、この連続殺人で…本当に狙われているのは、おそらく俺だ。だってそうだろう。最初の死体は俺が発見したし、奥山刑事とも殺される前日に会った。円ちゃんも同様、俺と会った次の日に殺されている。そう考えれば、俺の周辺の人物が狙われているというのも可能性としてはなくはない。つまり、久上さん達は、俺と幽の問題に巻き込まれたんだとしたら。…俺と会ってしまったがために。
「…弾は最初は六発あった。すでに三発使われて残り三発、か。幽は、ちゃんとした死に場所をあげる…他にも『場所は関係ない』と言っていたから、そういう舞台が整ってからしか、俺は死なないのかもしれない」
俺の銃を凶器にしての連続殺人の終結にふさわしい、俺の死に場所。
「―――残り三発」
奴が劇的な終わりを望んでいるんだとしたら、最後の一発で、だろう。毎日一発ずつ俺の周辺の人物を殺していって…一度は逃げた死が、足音を立たせて近づいてくる。殺されるごとに、殺される人間の共通点に気づかされる。そして逃れられない不安で恐怖の頂点に達し、自殺をしようと思った時の自分を心から呪う瞬間を、あいつは待っているに違いない。冷たい銃口を俺に向け、殺す瞬間にだけあの無表情をドス黒く狂気に歪めて―――。
「そこで何をしてるんですか?」
心臓が跳ね上がったようにビクつく。ようやく身支度を終えたらしい久上さんは、階段の手すりに手を這わせながら降りてきた。脇に松葉杖二本、手すりとは逆面の手にはリュックサックが握られている。体にぴっちりと沿うブラウスは女性的な流線型に膨らみを持ち、控えめなオレンジのロングスカートは清楚な彼女によく似合っている。
「あ、持つよ」
「ありがとうございます。実はちょっと辛かったんですよね…」
今度は素直に松葉杖とリュックサックを渡してくる。俺は受け取ると、久上さんと一緒に居間へ入った。お父さんは次のコーヒーを作り始めていて、さっきのコーヒーの残香なのかそれとも今入れている途中のものなのか、芳しい豆の香り…挽き特有のほんのりと焦げたような苦味が鼻の奥を撫でていく。
「おや、そこであったのかい?」
きょとんとした目で言ってくる。さっきの真面目でどこか気弱な父親の姿はない。娘の前では気丈に誠実に振舞う…それが彼のあり方らしい。…らしいと思って笑みが零れた。
「私は書斎で楽団の皆と連絡を取る事にするよ。冬見君、ゆっくりしていってくれ」
「お父さん、どうかしたの?」
「何でもない。きちんとお客さんをおもてなしするんだぞ、お前はそそっかしいから…」
俺にだけわかる娘への愛情の念を感じさせながら、柔らかい表情で出て行く。
「変なお父さん」
見送りながら呟く彼女。
「いい、お父さんだな。幸せだよ久上さんは…」
「もう、冬見君もどうしたのよ…さては私が二階で着替えてる時に、何か…」
何でもないよ。口で言うのは辛かったから…そう伝わるように、儚く笑っておいた。