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三月八日 4

 夜、俺は複雑な気持ちを抱えたままリンドウに入った。お客の入りはいつも通り。しかし俺が入ってくるなり無言で近づいてきた茜さんは他の人に聞こえないようにコソコソと話しかけてきた。


「タカっち…今朝の事だけど」


「何でもないよ」


 茜さんはなぜか、いつもと違って休んだ理由を追求してこなかった。それよりも悲痛そうに唇を噛んでいる顔は、それ以上言わない彼女の代わりに何かを訴えているように見えた。


「…そう、わかった。ごめんね」


「茜さんが謝る事ないですって…俺が勝手に休んだのが悪いんですから」


 俺の言葉を聞きたくないのか顔を背ける。たまたま目に入った、彼女の潤み始めている瞳に罪悪感を感じた。…何で泣くんだ? 茜さんが悲しむ事は何も起こっていないのに。


「ちょっと、大丈夫ですか茜さん?」


「…何でもないわよ」


 業務以外の会話は全くなく、とうとう最後の客は疋田さんだけになった。味気ない…居心地の悪いリンドウというのを始めて経験した。お客は茜さんの心の内に気づかずに、楽しんで帰っていったろう。俺は、茜さんが悲しんでいるという事だけはわかっていた。仕事をこなしながら考えていたが、その理由探しは雲を掴むみたいに手触りのない物だった。幾度か横目で顔を窺ったが…おそらくあの表情変化に気づくのはせいぜい俺か疋田さんだけだろう。


「ふぅ~い…」


 ずずずと熱いお茶をすする疋田さん。いつもなら他の爺さん達と帰っていたのに、なぜか彼女だけリンドウに残っていた。そして何をするのかと思えば、ただ無言にお茶をすするだけ。そして茜さんは椅子に座ってぼぉっとしていた。まだ何かを思案しているようで、長年一緒にいた俺の目からは、苦虫を噛み潰したような悔しさが無表情から滲み出ているように見えた。


「あの…茜さん、そろそろ俺、帰りますんで…」


 俺はエプロンを外して、ハンガーにかけるためにしわを伸ばす。自分でも、気落ちしているな、とわかった。手先が帰るのを残念がっていて、何度も何度も同じしわをなぞっていた。


「ちょっと待ちなさい隆史君。…私の隣に座って」


 会話のない午前二時の空間に、意志ある声が響いた。俺は疋田さんの方を向くと、カウンター席に座る彼女は小さな子を叱り付ける前兆のような目で「ここへ」と俺を呼んでいる。


「何か…あるんですか」


 俺はいそいそと隣に座り、自分の分のお茶を注いだ。何となく話は長くなると思ったからだ。


「さて…何から話そうかねぇ」


 斜め四十五度に天井を見上げて、その天井に書いてある文字を読み取ろうとしている風に目がじっと一点を見つめる。つられて俺も見てみるとそこには棚に飾られたハニワがあった。俺はお茶を口に含みながら疋田さんの言葉を待って―――、


「じゃあ、私から話そうか…私はね、実は探偵なのよ。貴方を調査していたわ」


 調理台に向かって盛大に吐いた。お茶がスプリンクラーの水滴よりも細かくなって店内に散布していく。台拭きで拭いたばかりなのに…俺は綺麗にしようと立ち上がるが、俺の腕を掴んでいる疋田さんの手がそれを制した。指で少しずれ落ちていた眼鏡をなおす。


「落ち着いて聞いて。冗談じゃないから…」


 最初は六十代女性の冗談かと思った。その次にアルツハイマーを疑った。しかし疋田さんは見た目以上に聡明だ…物事に関してちゃんと意見を述べる事ができるご老人はそういるまい。話によると疋田さんが探偵を始めたのは二十六才の頃であり、俺達が世話になっていた時も彼女は現役だったらしい。だからよくいなくなってたのか。たまにある高収入で俺達はご馳走になっていた…というわけ。すでに十年前に廃業したらしい。


「茜さんはあまり驚いていませんけど…」


 茜さんはいつの間にか疋田さんを挟んで隣に座っていた。しかし会話には入らず、ただ聞きやすいように近くに来ただけだったようだ。


「茜ちゃんは八年前から気づいてたわよ。偶然仕事中に乗り込んできちゃって…」


 確かに知り合いの家なら勝手に乗り込む事も躊躇しなかったからなぁ茜さんは。きっと依頼の書類をちょっと目を離した隙に見られたに違いない。茜さんは子供にしては変な知識を持っていた人だったから、幼いなりにも何かの関係で探偵という職業がある事を知っていたんだろう。


「私が今回の事件を調べ始めようとしたきっかけは、たんに近所で起こった殺人事件だからって事で昔の血が騒いじゃってねぇ、それに退屈しのぎになるんだろうと思って、軽い気持ちで始めたのね。以前いくつかの事件を手伝った関係で今回の事件の情報を流してもらったの。そしたら第一発見者の名前に隆史君の名前があった。私はすぐに茜ちゃんに知らせたわ…この子は隆史君の保護者同然だからねぇ。するとこの子はすでに知ってた。気にもとめていない風だったわ」


 茜さんの髪を撫でながら言う。昨日きちんと髪を洗ったのか、かすかなつやを帯びていて、疋田さんの手でほぐされていく髪からは淡い林檎の匂いがした。


「最初の事件のあった日の帰りに、貴方が山本刑事に聞いた通り…私はスーパーの駐車場で奥山刑事の遺体を発見したわ。胸に一発…見事だった。でも私は、警察に電話する前に遺体を少し調べさせてもらったの。死後硬直の具合から数時間前だと分かったから、こんな所で刑事が殺されるのは不自然に思ったからね。

 でも被害者は証拠になりそうな物を何も持ってなかったわ。

 有力なのは犯人に持ち去られたかもしれない事だけど、最初から持ってなかったとしたら…つまり犯人は奥山刑事の知り合いだったって事になるわよね。殺される危険がないと思っていて、油断した」


 人が変わったように疋田さんは淡々と述べた。そういえば昨日、踏切の所で会った時もこんな風だった。よく考えてみると、昔の疋田さんは今のような喋りだったっけ。お年寄りになり、そのわずかな探偵の気配も消えて、俺は見事に今までただのお婆さんだと思わされていたわけだ。俺は自分に、疋田さんという人と初めて会話をしたようなぎこちなさを感じていた。でもそれ以上に懐かしかった。あぁ…これが疋田さんだったな、と。


「私は…奥山刑事の死体を見た時から、殺人が続く事を予感したわ。関係者がこんなにも早く消されるとは思わなかったからね。そして冬見君、私は貴方が次に危ないと思ったの」


 湯飲みの暖かさを両手で確かめるように、疋田さんは瞼を閉じた。


「二日目…つまり奥山刑事殉職の事が新聞に載せられた日、私は昨日の昼、病院から出てきた時から今まで…ずっと隆史君を尾行してたわ。それに知ってた? 貴方、怪しい動きをするもんだから、県警の命令で常時二名以上の刑事にひそかに見張られてるのよ。あ…でも山本刑事については違うわよ。あの人は吉永警視…この人も私の知り合いなんだけど…彼が休養を命令したの。だから本来、山本刑事はこの事件にはこれ以上関与できないはずよ。

 今は彼は独断で動いてる。いい刑事なんだけどね、パートナーを失った今じゃ冷静な捜査は無理…かえって攪乱(かくらん)してしまうっていう結果は目に見えてたから」


 本当はいい刑事なのよ? と苦笑気味に言う。もしかして山本刑事とも知り合いなのか。この人の人脈の網目は一体どうなっているのだろう。


「彼は一度群れから離れて、一人で冷静になったときが一番実力が出せるタイプだから。それと、で…ここからが本題。

 隆史君、正直に答えて。

 貴方は、犯人じゃないわよね?」


 犯人じゃない、と言えば、そうだ。

 でも完全にそう言えるのか…と言われれば、口をつぐまざるを得ないだろう。

 俺はこの事件の間接的な犯人…武器を与えてしまった張本人だ。今日まで三人が死んだ。全部が俺のせい、とは言われなくても、三割か四割は俺が原因だから。


「…違います」


 言えなかった。だって疋田さんが言う犯人とは「殺人犯」の事だけかもしれないじゃないか。


「…そう。ならいいわ。もう疑わない…隆史君を信じるわ。もうこれっきりよ…貴方じゃ、ないのよね? 関係ないのよね? 巻き込まれた、だけなのよね?」


 いつの間にか茜さんも心配そうに俺の顔を見ていた。…似合わない。やっぱり茜さんには、府の表情は全く似合わない。この居たたまれない空間を何とかしたかった。


「はい…違います。俺じゃありません」


 俺は、この言葉が本当であれば、と心から願い、言った。まだ使われた銃が俺の銃とは限らない。まだ、凶器が同じだっただけの話。犯行に使われた銃が発見されれば、その真実は分かる。 


 だからそれまで…保留にしておいてくれないか?


 久上さんは、俺は悪くないと言った。でも、もしも俺の銃だとすれば…それは間違いなく、全ての発端である自分へ罪は返ってくる。その事実は変わらない。


 だけど、もしも違ったならば。……その時は……。


「そうかぃ…よかった。ふぅ…私ね、尾行しながら思ってたわ。病院から出た後、踏み切りの所に行ったじゃない? あの時にね、もしかしたらここに残してしまった証拠を湮滅(いんめつ)させに来たんじゃないか…って。…やっと肩の荷が下りたわ」


「俺のために…わざわざありがとうございます」


「いやいや…私が勝手に心配しただけだから別にいいんだけどねぇ」


 言いながら、手をひらひらさせる。来店した時からあった疋田さんの顔もわずかな強張りもなくなっていた。

 もしかして茜さんが変だったのは、疋田さんから報告を受けていたからだろうか。心配しているのに、自分の弟分からはぐらされた日には、裏切られた気がして誰でも傷つくよな。


「あ、そうだ…隆史君も自分なりに調べようとしているけど、何か特別な事が分かったら連絡頂戴? 私もできるだけそうするから」


「…ちょっと、疋田さん、待ってください」


 茜さんは疋田さんの話を、咎めるような口調で制止させた。


「もうこれ以上タカっちを危ない目に遭わせたくありません。そういう危ない事は警察に任せて、大人しくしておいた方がいいと思います。…タカっちも、やめて。アンタがいつ死ぬか分からない…そんな心配をずっとするのは嫌なのよ…」


「茜さん…」


 俺だってそうしたいさ…今までと変わらないリンドウのバイトだけが全ての退屈な日に、戻れるなら戻りたい。…でも。


「無理よ茜ちゃん。隆史君はね、もう巻き込まれちゃってるの。一昨日からの事件を(かんが)みても間違いないでしょうね。急に流れから出るような真似をしたらすぐに消されちゃうわよ」


「なら、どうすれば…!」


「どうにもできないわ。でも家に閉じこもっておくとか、一箇所でじっとしているのは犯人に特定されやすいから一番危ないわね。できるだけ人目に付く所をうろうろしておく方が安全なのよ。…なら、目的もなく放浪するより、事件関係者同士が協力して逆に追いつめてやる方法の方がマシに決まってるでしょ?」


 正しい事を言われても素直に納得できない。しかし返す言葉がないようで、茜さんは悔しそうに俯いていた。疋田さんの言ってる事も分かるし、茜さんが俺を行かせたがらない理由も分かる。…俺の答えは、最初から決まっていた。


「はい…疋田さん。お願いします」


 ごめん…茜さん。せめて謝罪の気持ちだけでも送ろうと視線を茜さんにやるが、彼女の横顔はそれを拒んでいた。

 それから数分とたたないうちに疋田さんは引き上げて行った。俺も二人分の湯飲みを洗い終え、身支度を整えて帰ろうとしていると、


「タカっち、ちょっとここへ来なさい」


 作業をしていた俺を観察するように眺めていた茜さんは、ちょいちょい、と手招きした。


「どうしたんですか? …あ、そうだ給料」


「それもあるけど…いいから座りなさい」


 茜さんの声に、さっきまでの拒絶はなかった。頭では、もう何を言っても無駄という事を理解したのだろう。でも、気落ちした肩、俺の目を見ようとしない仕草、そのどれもがまだ認め切れていないように見えた。俺は少し気が引ける思いで、茜さんの隣…カウンター席に座る。


 時計の秒針がよく聞こえる。なのに、時間は止まっているような気がした。俺と茜さんを除いて、世界は停滞している。俺達が何もしない限り、何も起こらない、進まない、変わらない。永遠に続くかと錯覚するくらいの、停滞。


 それでも、今すぐに逃げ出したくなるような針のむしろとはちょっと違っていた。なぜなら、俺は居心地の悪さを感じていなかったから。


 互いに目を合わせようとせず、会話もない。目の前に相手がいる…空気越しに肌に伝わる存在感が唯一のコミュニケーション。たった、それだけ。


 心がじかに繋がっているわけではない俺達に…ましてや一卵性の双子でもない俺達に、テレパシーめいた以心伝心が無理なのは当たり前だ。…人間はお互いを理解するために言葉を発明し、使用するようになった。意思を伝えるための概念は俺達に必要だからこそ、今の現代に溢れかえっている。複雑な社会を築き上げたのも根本は全て言葉だ…そう言っても過言ではないと思う。つまり言葉がなければ、俺達の生活はなかった…そういう事になる。


 でも。…この時ばかりは、「言葉は退化なんだ」と俺は思った。心のうちを体で表現するのが億劫になったから、人は手軽に伝えるための「言葉」を作ったのだ、と。


 茜さんはまだ、言葉を発するつもりはないらしい。まだ頭の中で何を言えばいいのか考えているようだった。しかしそれは表面的な思考だ。心の底の本心の部分は…俺はすでに、体で感じている。全身のあらゆる汗腺から体に染み込んでくる。


 …俺の身には余るくらいの、気持ち。


 分かるに決まってる。何年…一緒にいると思ってるんだ。



「茜さん…俺は、殺されたりしないよ。…絶対」


「わからないじゃない…何で絶対って言えるのよ」


「…勘。何となくだけど、ね。…俺の死に場所は、まだ決まってないから」


「何よそれ…」


 茜さんは頬を潤ませながら笑った。…嬉しかった。たとえそれが涙を隠すための笑顔だとしても…笑ってくれた事に、緊張が解けた気がした。…少し綺麗になったショートボブの香りのせいだろうか。安堵が全身を駆け巡った―――時、


「んっ」


 ――不意打ちだった。


「動かない…で」


 俺と茜さんの唇の間から零れた言葉が、混乱した俺の頭の中にかろうじて入り込む。少し下に視線を落とした瞬間の事だった。…思考が、と、ま、る。

 ただ押し当てるだけの口付け。どれくらいの時間…続いただろうか。息苦しい…そう感じた時…すっと、まるで息をするような自然な動作で唇が離れた。


「茜さん―――」


「何も、言わないで。…ほら、今日の給料」


 無造作にカウンターに置かれる茶色い封筒。でも、目に入らなかった。


「――待てよっ」


 立ち去ろうとする彼女の手を、しっかりと掴む。手の中の腕は強く引いてくるものの…足は止まっていた。


「待てって、どうしたんだ、いきなり…」


「いいの…今日は、もう帰って」


 背中で言う。何で、俺を見てくれないかが気がかりだった。


「俺、何かマズい事でもした…? なら、謝る。謝るから…」


「…帰って」


 なぜ、そう(かたく)なに拒むんだ?

 何で、キスなんか、して―――?


「…分かった」


 最初から狙ってたのだろうか。それとも突発的な行動なのか。


 まだ唇に感触が残ってる。温もり…唇から洩れた吐息を覚えてる。今まで感じた事のない感触、感情だったから…忘れるわけがない。はずがない。

 自問自答を続けながら、リンドウの引き戸を開けた。ちらりと振り向いてみると、茜さんはまだ立ち去らずに頼りな気な背中を晒している。


 納得いかなかった。あれだけあからさまに気持ちを伝えられて…この態度はないだろう。不完全燃焼もいい所だ。待ちわびていたストーブの火がついて、すぐに消えてしまったような。


 あの背中に問いただしに行こうかどうか、迷った。でも、居酒屋リンドウという空間はその全体がすでに彼女の一部になったように、俺を拒絶していた。見えない糸が俺の四肢を縛る。


 だけど。このまますごすごと引き下がり、帰る事を、俺はできないと思った。


「茜さん…」


 届くかどうか、分からないけれど。


「明日も、来るから」


 反論の許さない捨て台詞を残して、俺は強く引き戸を閉めた。




 今日、幽は現れなかった。

 声だけが脳裏にあった。



 ―――― 弾は残り三発 ΦΦΦ ――――



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