三月八日 1
朝起きた時から嫌な予感がした。理由もなく胸騒ぎ。なぜだろう。
冬だというのに布団の中でじっとりと汗をかいていたからとか、電波的に虫の知らせを察知したとか、そういう精神的な感覚じゃない。肌越しに感じる外気の荒れ。…ちょっと待て、そういうのを虫の知らせというんじゃなかったっけ?
歯磨きの時も上の空だった。
いつの間にか二十分も磨きっぱなしで、しかも力が入っていたらしく歯茎から血が染み出ていた。歯ブラシの先も竹箒のように先がボロボロ。買い換えなくちゃいけない事になってしまった。後一年は使えると思っていたのに。
ついでに朝食時も牛乳を飲むために使おうとしたコップを割った。飲もうとしていた牛乳は賞味期限が切れていたので、その際に気づき、ラッキーと思ってみたものの床を汚す乳白色を見てため息を漏らす以外なかった。
何かがおかしい。どこかがおかしい。家を出るまで、そんな単語が脳の中を埋め尽くさんばかりに生産され続けた。…おかしい? おかしいのは頭だろうが。幽のせいで神経質になってるだけ…というか、何でもかんでも運の悪い理由を幽に押し付けるのもどうかと思うぞ。無意識のうちに頭の中で「幽・幽霊説」の比重が高くなっていて、冗談もほどほどにしろと頭を振って考えを改めようとした時、
「おや、おはようございます冬見君」
「山本、刑事でしたよね? 確か」
「はい、その通りです。すみませんが同行をお願いできませんかね?」
まだ辺りは暗い。そんな中、狭い路地に佇んでいたのは一昨日見知ったばかりの刑事だった。やっぱり一昨日通りの姿…といっても焦げ茶色のコートに全身が隠れていて中身はよくわからないが。昨日相方が死んだとは思えない穏やかな表情が気持ち悪い。
「何でですか? バイトに行かなくちゃいけないんですが、すぐ終わりますか?」
嫌な予感とはこの事だったのか。俺は心の中で舌打ちをした。
「いえ、午前中は休みにしていただけませんか。我々の方としても色々聞きたい事がありますし、時間的に無理だと思いますなぁ」
立ち話も何なので、と大通りに留めてある車を目指して歩きながら話をする事になった。
「こんな朝早くに人の家の近くをうろつく思惑は何です?」
歩き始め、のったりのったりと大股で歩く山本刑事に歩調を合わせるのに少し苦労した。
「いやぁ……やっぱり朝ですからね、電話で起こしちゃまずいと思いまして…でも早く話したい事もあったので待ち伏せさせてもらいました」
そう露骨に言われると信じたくなる…おそらく本当にそうなんだろう。しかし、こうも早く向こうからアプローチがあるとはね。やっぱり事件関係者だからだろうか。
「俺に聞きたい事でもあるんですか? でも俺には特に何も話せる事はありませんよ」
話といっても、そっちから持ちかける可能性は低い。警察が特定の人物の所に来るのは聞きたい事があるからだと、誰が考えてもわかる。だが、俺の予想は見事に外れた。
「いえ聞きたい事は今は何もありません。連絡…みたいなものですか」
「連絡というと? 俺に何か伝えなきゃいけない事でもあるんですか?」
「向こうに着くとわかることなんですけど、まぁそれは別として、そうそう…冬見君、昨日、私の部下が殺されたのは知ってますよね」
ドクリ、と心臓が高鳴ったのを感じた。やけにストレートに来たな。こういう人なんだろうか、それとも裏があって? 嫌な匂いが立ち込めた雰囲気だ
「はい、確かに新聞で見ました。でもその時間は俺、バイトしてましたから」
「ほぉ、例の居酒屋で?」
「…何で、知ってるんですか? まさか勝手に調べたとか」
「いやいや、これくらいは職権乱用…じゃないですけどね、ちょっと調べればわかる事ですよ。それは特に問題ないんです。質問を変えますね。じゃあ昨日の三時から四時の間は?」
「帰ってきて…寝てましたけど」
「何時くらいに帰宅したんですか」
「二時ちょっと。そういう意味じゃアリバイないですけど…何かあったんですか?」
そんな風に事件の内容を聞くと、「まぁまぁ…」と、またはぐらかされる。まるで俺を遊んでいるような態度に少し腹が立った。そのまま無言で、道路脇に駐車されていた白いセダン(無断駐車にならないのだろうか)に乗り込んだ。横をちらちら見ても、山本刑事は何も話し出そうとはしない。頭の中に不満を充満させながら、この車がどこに向かっているのか勝手に予想してみたりした。
―――朝からやけに不安だった。元々、心の内は形で表せる物でも、手触りがある物でもないから、日ごとに膨らんでいく疑心暗鬼を止める術がなかったのも理由の一つだが。
だから、余計に不安になる。もしも自分の死ぬ時期を知っていて、その時が近づいてくるとどうだろう。それが十年も二十年も先の話なら別に怖くないと鼻で笑っていたかもしれないが、おそらくは部屋に閉じこもり、一人でまだ見ぬ死という恐怖におびえている事だろう。
俺の不安はそれの類、自分を含めたこの街の誰かが今日死ぬという事を知っているという事だ。カウントダウンを刻むように、一人、一人、誰かに誰かが殺される。今の俺に止める術など、ほぼ皆無だ。
でも。それでも、諦める事はしたくなかった。
は、はは、何でだろう。最近の俺は自分でも理解できない。俺一人の行動に何の意味が? この広過ぎる守備範囲をどうやって受け持つつもりだ。…所詮は他人事だろう。何でここまで何かをしたがるんだ? 俺よ。分からないのか? そうか。
「それは、俺に関係がある事なんですか」
「でしょうなぁ」
そうですか、と俺は窓に頭を寄りかけ、ぼんやりと外を眺める。まだ五時半を少し過ぎた所。そうだ、茜さんに電話しないと。
「すいません、携帯電話貸してもらえませんか?」
「携帯を持ってない? …珍しいなぁ、今時の男の子女の子には必需品でしょうに」
知らない人からの電話(着信時に画面に表示されるだろう)だというのに「んぁあ?」と寝起き丸出しの声を発する茜さん。詳しく理由を話していると面倒臭いので、とりあえず今日は午後からだけという事を伝えた。終始寝ぼけ声で頷くリンドウ店主だったが…心配だな。後からもう一度かけ直した方がいいだろうか。
電話を山本刑事に返すと、なぜか彼は俺をふふんと鼻で笑いやがった。
「よくわからないですけど失礼ですよ、それ」
「いやぁ何でだろうねぇ。あっはっは」
さっきからがんばって話していたけど、やっぱりこの刑事とは気が合わないんじゃないだろうか。いや別に気が合ったからといって変わる事は何もないんだけれども、ようするに空気の問題だ。この中年刑事は独特過ぎて、接客の達人(自称)でも少し肩を張ってしまう始末だ。
しかし、とうとう警察からじきじきに来たか。
もう後戻りはできないな、と思った。俺は昨日、この事件の犯人を捕まえると誓った。刑事を利用する手も考えていたから、だから、これはチャンスなのかもしれない、と考える俺も脳内に一部いる。
でも、進めば戻れないんだぞ? 今までの生活が気に入ってたんじゃないのか? 茜さん達に囲まれて、たわいのない変わらない日常にずっと浸っていたかったんじゃないのか? 隆史、お前が進もうとしている道は、限りなくそれから遠ざかってしまう外れ道だぞ。それも鬱蒼と茂る獣道なのに。
「悩むなよ。…何を今更」
自分にしか聞こえないような声で呟く。うつろな声の向かった先の景色は、もう背中へ過ぎ去っていった。
連れて行かれた所は久上さんのいる大学病院だった。こんなに朝早くからの病院なんて初めてだ…しかし、久上さんの病室ではなくエレベータで一つ地下に下りる。
十数秒後にドアが開くと、蛍光灯に隙間なく照らされた窓のない通路があった。全面に白粉を塗りつけられているような気色悪さ。無機質で、あらゆる生気を否定するような、一階上の患者や医者が往来する日常とはかけ離れた雰囲気だった。
「こんな所に俺を連れてきて、意味、あるんですか」
「いや…これはただのついでです」
山本刑事はそこで待ってて、と近くにいた医者に声をかけた。何やら話をして数度頭を下げると帰ってきて言った。
「すいませんね、無駄足みたいです。もう一走り、お付き合い願えますか?」
「何しに行くんですか。今度こそ教えてくださいよ。そしたら少しは気が収まりますから」
「仕方ないですね。久上さんのお宅ですよ」
「何をしに?」
「呼ばれてるんですよ貴方が。久上紗枝さんのお父さんから」
理由が分からない。何で俺が呼ばれるんだ?
一人で先を行く山本刑事。俺が自分についてきていない事に気づいて、さすがに説明が足らなくて混乱している風に思ったのか、面倒臭げに言った。
「死んだからに決まってるでしょう。久上…円さんがね」
それから車に乗り、その家に着くまで…俺は無言だった。何度か山本刑事から話しかけられたのかもしれない。でも、そんな気分じゃなかったし、呼びかけにも気づけなかったのだと思う。車がスピードを徐々に落とし始めた住宅街…俺の安い土地とは大違いの、ちゃんと今風にデザインされて作られた住居が並ぶ。…でも、模型か何かに見えた。ハリボテにしてはしっかりしている…しかし、色が淀み、空間に溶け込んでいっているように見えた。
「着きましたよ。冬見君、大丈夫ですか」
「えっ、……ぁあ、はい」
明らかに大丈夫じゃない返事をしてしまったと心の中で舌打ちするが、強がりだった。
そのまま車から出て、ウチと違って大きい門…その先にある豪邸を見た瞬間に、朝起きた時から感じていた不安が噴出したかように感じた。嫌だ、行きたくない。見たくない。近づきたくない。ダメだダメだダメだダメだ、お願いだから、収まれ俺の動悸…。
「本当に大丈夫ですか?」
顔色を窺うように言う山本刑事の言葉を振り切って、俺はインターホンを押す余裕もなく、門戸を押し開いた。
「おや」
玄関に入ってすぐの所に、スーツ姿の男が立っていた。
「おはよう、ございます」
「…おはよう」
五十代前後だろう七三に分けられた髪、短く整えられたヒゲが紳士的だった。俺みたいな庶民じゃなく、常に上流階級にいる人と思えた。
「えぇと、お父さん…この青年です。後は任せてもらえますか?」
「はい…私にできる事など、今はないでしょうから」
悲しげに俯く男は俺が通るために道を開けた。…この人が、久上さんのお父さん…。
「娘から聞いているよ。君にはとても感謝している。感謝したりないほどだ…後で話があるから来てくれないか。先に…紗枝の方へ、頼む」
「帰ってきてるんですか?」
「あぁ…一応家族の事だから電話で知らせた。黙っているとあの子は仲間外れにされたように思って傷つくだろうから、ね。言うとすぐに、家に帰りたい、と言ってね」
少し目を閉じ、小さくため息をすると、また俺を見て言った。
「今、紗枝は二階にいる。行ってあげてくれないか?」
はい、とそれ以外は何も言えずに会釈だけすると彼が退いた道先にある、階段へ足を進めた。
「久上さん。冬見だけど、いい?」
二階にはいくつも部屋があったが…堪えるような嗚咽がどこからか洩れていた。その声を辿るようにして行き着いたドア。額を当てて、ドア越しに俺は話しかけた。
「冬見君? な、んで」
「細かい事は気にすんなって…今、いいか?」
考え込むような沈黙、しゃっくりと袖でごしごしと涙を拭うような音が聞こえた後。
「うん…」
静かに、諦めるような声で了承した。
戸を開けると、真っ先に久上さんの姿を探した。高そうな銀色の時計も、高級感溢れる小さなシャンデリアも、気にならない。今まで見た中でも最も高いだろうなと思える絨毯を乱暴に踏んで、奥の部屋のベッドへ駆け寄った。そこには仰向けに、顔を枕で隠すようにして、紅葉色のブラウス姿の久上さんがいた。
「おはよう、久上さん」
うん、とその状態のまま言う。ベッドのそばには松葉杖が立てかけてあって、彼女の右足のギブスが痛々しかった。
枕を抱きしめるようにして顔を見せようとしない久上さんは、いつまでも黙ったままだった。時折心苦しげな声を堪えるように、咳を数度繰り返す。
「話は、聞いたよ」
俺はベッドに腰掛けると、彼女の背中をさすりながら言った。気休めにしかならないけれど…そばに立っているだけというのはできなかった。何か、したかった。
「…うん」
ぐりぐりと顔を枕に擦り付けた後、彼女は枕から顔を離した。上半身を起こして…俺の顔を見てくる。目も、目の周囲も赤くなっていて、俺は目を逸らしてしまった。
「ひどい、顔でしょ」
しゃっくり混じりの咳をして言う。
「四時に神崎さんから起こされて、何事かと思ったら…これだもん。せっかく帰って来たのに、円の顔見るのが怖くて…ずっとこんな調子だから」
「怖くて当たり前だよ」
俺は久上さんに目を戻して言った。
「実際に死体を見るのは初めてなんだろ?」
あの時は久上さんは気絶していたから…母親の死体を見なかった。だから、これがある意味家族の死体を見る最初となる。おそらくあの病室にいる限りでは母親の遺体は見ていないだろうから…昨日まであんなに元気だった円ちゃんが死んだとなれば、それはとても恐ろしいだろう。
「何で…? ねぇ冬見君、何で? …何で、お母さんも、円も、死んじゃうの? 私が、悪いの?」
何も言えなかった。瞳がまた潤む。涙が…目尻から伝い落ちた。
「…ごめん」
俺のせいだ。今度は…円ちゃんまで。死因はまだ聞いていないけど…おそらく、銃殺だろうから。謝る事しかできなかった。まだ何も…掴めちゃいないし、掴む事ができるかどうかもわからない。
「お母さんも奥山刑事も円も…みんな私に関係ある人ばかり」
見えない犯人に訴えてるようだった。
「怖いよ…!」
次は自分だ、と考えているのだろうか。
確かに、可能性は高い。否定はできないけれど、でも決まったわけじゃない。
「バカ言うな…殺されるわけ、ないじゃないか」
根拠のない励まし。励ましになったのだろうか。かえって余計に不安にさせてしまったかもしれない。…しかし久上さんは涙を拭いながら、うんと頷いた。
「このまま周りの人が殺されていって、最後は自分に行き着く…そんな風に考えてしまうと、怖くて怖くて。もしも私が本当の標的で、メインディッシュみたいに最後に残すつもりなら…周りの人に申し訳なくて…! 自分が生きているだけで周りの人が被害に遭うなら、私なんか―――」
パァン、と乾いた音が響いた。
「…え」
久上さんの頬がその部分だけ真っ赤になった。俺の、振り抜いた右手。
「死んだら…死んだらそこで終わりなんだぞ!」
思い切り怒鳴った。俺が今まで心に溜め込んでいた、不安を吹き飛ばすように。
「俺も…自殺しようと思ったさ! 久上さんは他の大切な人のために死ぬというから、そういう意味では俺よりもその思いは尊いのかもしれない。でも、それなら…大切に思ってるならどうして信じない!? 一体自分が大切に思っている人達の誰が、君の自殺を願ったりするんだ!? いるもんか、犠牲を誰も喜ぶもんか!」
自分に、言うかのようだった。俺は叩かれたまま呆然とする久上さんに、続けた。
「自分が犠牲になるって美談はね、後からとってつけた言い訳なんだよ! 人の死を背負い切れない臆病者がする事だ。何で戦わない!? 何で死ぬ事で死ぬ恐怖から逃げようとするんだ! 君が犠牲になる事で、何人が消えない痛みを一生背負う事になると思ってるんだよ!」
俺は久上さんを睨みつけた。その先にいる、自分へ向けて。
憎かった。…そう、他でもない自分が。久上さんに、どんなに迷っても死んでほしくなかったがために。いい…俺を恨んでもいい。何なら俺を殺してもいい。だから、生きてほしかった。この子が一人で寂しく死んでいくなんて、可哀想過ぎる。
「な…何よ、元はと言えば冬見君のせいでしょう…!? 貴方が言える事じゃないはずでしょ!? 貴方が死のうとなんか、思わなければ…!」
全てはそこへ帰結する。俺の蒔いた種だから。
「だから…私がこんなに苦しむんじゃないですか! 何よ何よ…わかったような言い方して、結局は自殺から逃げる言い訳でもあるわけでしょう!」
俺に背を向けて、肩を震わせて泣いた。腕で拭おうとはしない…流れるなら全部流れてしまえ、枯れ果ててしまえという念が聞こえた気がした。
「違うんだよ」
「何が、違うって言うんですか…! っ……………!」
後ろから、切なさに崩れていく久上さんを抱き締めた。両手から逃れようと、体を思い切りよじったり腕で跳ね除けようしたりするが、俺は離れなかった。
「離れて…くださいっ!」
大声こそ出さないものの、強い力で抗おうとする久上さん。いい加減に離れてしまいそうだった…だから、俺はさらに力を込めて抱きしめ、絞り出すような声で言った。
「君が死んだら、とても悲しむ人がいる。どんなに自分が嫌いでも、それは変わらないよ。久上さん…俺っていう人間を嫌いになってもいい。会うのもこれで最後でいいから…だから、冗談でもそんな事、言うな」
久上さんは、暴れるのを止めた。代わりに、暴れる間止まっていた涙が、堰を切ったように流れ落ち始めた。
「何よ…何よ…!」
腕の中で、俺の胸に訴えるように久上さんは悲しみに身を任せて泣いた。うなじから…シャンプーと男にはない女性の匂いが香る。優しい咽び声は静かに、妹が母のために奏で忘れた葬送の手向けとなって、二人だけの部屋に木霊した。