三月七日 5
「隆史君、熱燗二つ頼むよ~」
暖簾をくぐってきた客の言葉を相槌しながらメモする。リンドウは基本的に純米酒で、それ以外は甘口の焼酎しかない。茜さんが言うには「味がわからなくなるから」らしい。
客がいなくなったテーブルの上を片付けながら、茜さんから手渡された料理を運ぶ。
今日は昨日と違って客が十四人程度しかいない。漬物を切り分ける茜さんも、急いでいながらもど事なく落ち着いた感じ。昨日に比べたら屁みたいなもんだ。キャベツを千切りにするみたいにしてたからな。あれでもきちんと切ったように丁寧に見えるんだからすごい。
「今日はお手伝いは必要ないわねぇ」
「ですね。今日はゆっくり料理を楽しんでください。熱燗追加しますか?」
「そうねぇ…お願い、しちゃおうかしら」
素早く洗い場に戻った俺は熱燗をセットした後、他の皿を一気に洗う。そこに一切の無駄な動きはない…一番忙しい時の動きを体が覚えているからだ。
さて次の洗い物は、と店内を見回した時、カウンターの電話のベルが鳴り響いた。
「あぁ~いい、私が出るよ」
近くにいた茜さんが電話を取った。洗い物もあらかた片付いている。さぁて、ちょっとコーラでも飲むかな。
「タカっち………………………………………………………女の子から電話」
「へ?」
俺から目を逸らすように横顔で言う茜さん。目がちょうど髪に隠れているが、どんな目をしているのか気になって、怖い。わけがわからなくて狼狽する俺一人を置いて、そこの周囲からひんやりとした何かが。でも、女の子? だって俺、女の子に友達なんか。
「やるなぁ隆史君! やっとこの坊主にも春が来たってもんだ、乾杯だ乾杯!」
そんな事を言いながらビール瓶を三本また注文する老人達。そこの外野、うるさいぞ。
「ボケっとしてないでタカっち、さっさと返事してやりなさい。あんたのハニーに」
「かぁ~っ、ハニーだとさ! いやいやいや…憎いね、この色男! うちのハニーはもうトドみたいになってるが」
「わ、わかりましたって! 受話器渡してください!」
妙に温度の低い茜さんから慌てて受話器を取り上げ、スピーカーに耳を当てる。
「はい、冬見隆史ですけど」
「冬見君? 私です、久上ですけど…」
耳に入ってきたのは、最近聞き始めたばかりの女の子の声だった。
「何でこの番号を知ってるんだ? 教えたっけ?」
「円がリンドウっていう居酒屋で働いてるからって、電話帳で調べて教えてくれたんです。居酒屋だから夜のバイト、今ならいるんじゃないかと思って…せっかくなんで電話しちゃいました」
何だ、そういう事か。しかし円ちゃんもやるなぁ…めちゃくちゃ行動的だ。
「困るなぁ…だって今仕事中だし」
「すみません。ただ、どうしても声が聞きたくて」
「なっ…」
思わず赤面してしまう。むぅ…まぁ、きっとそんな意味で言ったんじゃないだろうけど、茜さん達に顔を見られないようにさらに隅に近づいて、受話器にコソコソとしゃべる。
「病室に電話機があったのか?」
「いえ…これはロビーの公衆電話です。看護婦さんに内緒で出てきたんです。松葉杖の練習もかねて」
「だめじゃん。安静にしてないと」
「…冬見君の声が聞きたくなったんで」
「嘘だろ」
「…退屈してたんです。察してください」
拗ねたように言う。そりゃ退屈なのはわかるけど。大体、本はどうしたのさ。もしかして全冊玉砕?
「とにかく、今仕事中だから。ごめんね、明日また行く」
「はい…わかりました。がんばってくださいね、バイト」
語尾にため息めいた声を残して、電話はプツンと切れた。こっちもため息だよ。うれしいけど、さすがに仕事中にかけられてきても困るっていうか。
「タカっち……………………………………ちょっと奥に来て」
軽くなのに重量感のある茜さんの手が肩に置かれる。ピリピリとした空気。そうだった。
「茜さん、あの、実は…」
「皆さんすみませんがしばらくの間、注文は控えてください~。ちょっと急用ができましたもので。いえすぐ戻りますわ、オホホホホホホホホホホ…」
猫の後ろ首を掴むように襟を持ち上げられた俺は、すごすごとそれに従うしかなかった。
…不順異性交遊だの破廉恥だのスケコマシだの散々な濡れ衣を着せられまくった俺は少しげっそりして店内に戻った。…反論くらいさせてほしい。だけどなだめるだけで精一杯だった。
「浮気はいかんなぁ…ハハハッ!」
色々聞き捨てならない事を好き勝手に話しているお客から逃れるように、洗い場に急いだ。電話の前は少なかったような洗い物も、何だか妙にごっちゃりして見える。
「今日、給料なし」
茜さんは白い目でそう言い放つと、また笑顔で店内に戻っていった。諭吉二枚の次の日はゼロですか。何でそこまで不機嫌なのか。一応なだめながら「実は事故の時に俺は現場にいて、あの子を助けた関係で」と誤解を解くために正直に言ったにもかかわらず、さらにキレた茜さんは、もう何を言ってるのかさっぱりわからない言語でつばを飛ばしつつ俺を責め続けた。
「はぁ…なんて運が悪い日だ」
蛇口をひねると冷たい水が流れ落ちて皿に跳ねる。その雫を手先に感じながら、ちらと茜さんの働く姿を横目で見た。
「はい、カサゴの煮つけ一皿に熱燗二つね」
さっきの鬼の形相はどこへやら。何もなかったかのようにちゃっちゃと作業を進めていく。調子が狂う。どうしたんだろ、そんなに問題ある事なのか。
「謝らなきゃいけない…のか?」
よくわからないが、茜さんがいつまでも険悪な感じなのは嫌だ。
「タカっち、何ぼぉっとしてんの。ほら、このお皿洗ってちょうだい」
「あ、はい!」
茜さんはカウンターから下げてきた皿を片手に、菜箸で煮つけをいじっていた。慌てて駆け寄った俺は皿を受け取る。その時、茜さんは俺に「ごめん」と耳打ちしてきた。
「えっ…茜さん?」
「はい、お皿持ったならさっさと洗いに行く!」
ぷいっと背を向けてしまった茜さん。会話はこれ以上なし、と言っているようだった。
「…うん」
誰に聞かせるつもりでもなく、俺はそう言った。
店内の人口がだいぶ少なくなってきた十一時二十分、最後の酒飲みグループだった疋田さん達も引きあげるような素振りを見せ始めた。
「あたたた…座り過ぎたかねぇ。隆史君、ちょっと手伝ってぇ」
疋田さんをゆっくり立ち上がらせた俺は、すかさずテーブルの上の皿を下げた。しかし、他の老人達はまだまだ飲み足らないような感じでまだ立ち上がろうとしない。…こっちもいい加減眠い。今日はまた色々あったし、こてんと布団に倒れこみたい。
「…でなぁ、駅のホームで素っ裸の男が…」
「そろそろ帰らんかい、あんた達? 茜ちゃん達も二人きりで話したい事があるだろうし」
「いや、別にそんな事はないですよ疋田さん」
「隆史君にはなくても、茜ちゃんの方にあるかもしれんしねぇ」
そう言ってクフフと含み笑いをした疋田さんは、よろよろとした足取りでレジへ向かった。
「ハハハハ! そりゃいい、本当の夫婦になる前に尻に敷かれるたぁ隆史らしいわ!」
「何ですかそれ…あ、まだ飲みます? 疋田さん帰ろうとしてますけど」
「あぁ…うん、疋田さん、もう行くのかぇ? 飲んでいかんか?」
「そない顔真っ赤にして何言ってるの。早く帰って奥さんいたわってやらんと」
仕方がないなぁ。腰をあげる老人達の手助けをしながらレジへ向かう。茜さんがレジをするらしい動きを見せていた。さて、今日も終わり…テーブルを片付けて…と。
「もぉ高橋さん酔い過ぎ…ちょっとタカっち、高橋さん家まで送ってくるから片付けといて!」
「やっぱりですか? 今日は俺をネタに酒が進んでましたから」
自業自得だ。店の前に放り出しておけばいいと思ったが、さすがに客であるからしてそんな真似はできない。いくつか妙案をひねり出そうと考えているうちに茜さん達はさっさと行ってしまった。何となく仲間外れにされた気分だ。
「ふぁああ…ねむ」
千鳥足のようにうつろな瞼を擦る。しょぼしょぼとまばたきを繰り返すが、油断すると瞼は落ちたままになってしまいそうで――――。
「――――え」
吐こうとした空気をまた飲み込む。店内はエアコンで暖かいにもかかわらず、俺は…全身の毛という毛が逆立つのを感じた。
何で何で何で―――…? 違和感とか恐怖とかそういう感情を通り越して…気持ち悪い。時を刻む秒針より早く、砂時計よりも荒々しく『蓄積』を告げる汗という汗。体が言う事を聞かない…それ以前に自分自身が命令しているかもわからない。驚愕が胸の中で走り回る。何がしたい…俺は。混乱している脳みそは、何を命令している…?
「お、お前…」
引き戸は茜さんによってぴしゃりと閉められていた。耳を澄ましても風の音は壁の外だ。
動け、動け―――言葉を、声をひねり出せ!
「何でっ…ここにいるんだ。…幽」
気配なくカウンターの前、そこに何食わぬ顔で座っていたのは、昨日と今日と会い続けたままの、ワンピース姿の幽だった。
「私…お客。漬物」
「え? …漬物?」
予想外の言葉に、俺は声のオクターブを上げてしまった。まな板に両手をつくようにして幽に聞き返してしまう。
「そう。漬物」
変わらない調子で、俺の目を見つめて言う。……単品? それとも盛り合わせ? いやその前にこんな時間に子供が居酒屋に漬物だけ食べに来るシチュレーションがおかしい。…でも、この子なら別におかしくないと心のどこかで感じている自分がいる。
「…こんな遅くに、親とかは?」
軽く無視された。少女は何を言うというわけでもなく、タダじっと俺を見つめている。そのまま見つめ返すのは居心地が悪かったので仕方なく俺は作業を始める事にした。
普通の盛り合わせにすると、底の深い茶碗二杯強は量がある。はたしてこの子が食べきれるだろうか…聞きたかったが、聞くのは躊躇ってしまった。とりあえず全部の種類を一口ずつにまとめて皿に盛り付けた。盛った自分で言うのも何だけど、漬物というよりサラダに見えた。
「ほらよ。…お茶はいる?」
やはり何も返してはこなかった。でもさすがに漬物だけだと子供には食べにくいだろう…お茶がないと無理かな。そう思った俺は、疋田さん達がまだ飲むだろうと予想して沸かしておいたお湯を急須に注いだ。中にはすでに冷たくなったお茶の残りが入っていたから、ちょうど子供でも飲める程度の熱さになった。
こと、と彼女の前に湯飲みを置く。幽は、湯気を少しだけ立たせる湯飲みに一瞬目をやると、またすぐに俺を見つめ直した。漬物を注文したくせに、箸に手もつけていない。
こいつ、何考えてるんだ? 人の顔をじっと見たりして、何のつもりで。考え推測するも、決定的な悪意は感じられない。それ以前に、相変わらずの生気のなさに呆れる。息をしているのかどうか不安になる。実はこいつは人形なんだ。誰かからそう言われても、どうやって話し、動いているかさえわかれば、俺は特に疑問を持たないだろう。
「…なぁ、昨日の事なんだけど」
昨日は途中から吼えるような口調になってしまった…その事実を反省して、極力落ち着いて発音する。事件を追うには、俺の事を何故か知っているこのこの協力がいるだろう。もしかしたら俺よりも核心に近いのかもしれない、久上さんのためにも幽から聞きだす努力は惜しんではならない…と思った。
「今日で二人目」
俺の思いが通じたのか、彼女はそう言った。両手はカウンターの下の膝上にあるのか、上半身だけがその場に浮き出ているように感じた。
「やっぱり、奥山刑事が」
「名前は関係ない。必要なのは人数。弾の数だけの標的」
名前が、関係ない? どういう事だ。
「銃と持つ者がほしがっているのは名前じゃない。人数」
「無差別殺人…ていう事なのか?」
彼女が言ってる事はそういう事だ。昨日山本刑事達が言っていた通り、やはり無差別だというのか。…特定は、難しいのか?
「貴方が望む通り、事件は進む」
「何でそれを、お前がそういう風に断言できるんだ? …何にでも証拠がいるだろう?」
…この質問には裏がある。この子が事件の犯人を知っているかもしれないという事と、もしかしたらこの子が犯人かもしれない…ボロを出すかもしれないという事を狙っていた。もしもこの質問に無言で返してくれば、俺の予想に確信めいた自信がつく。俺は期待していた。―――だが、
「貴方が信じる事だから」
そんな事を、彼女は返してきた。
「って、俺? 何で、俺がそんな事を信じないといけないんだ? 百歩譲って、もしも俺がそれを信じたとしても、お前の言う犯人はどうやって俺の心境を知るんだ?」
「犯人は関係ない。貴方が『連続殺人』を信じているかどうか」
全く話が読めない。言ってる事が難し過ぎる。なら別の見方で幽からヒントを得るしかない。
「待てよ…連続だって? 今日昨日…って事は」
一刻を争うように腕時計を見た。十一時三十分。
「後三十分過ぎると、また殺人が始まるって事なのか…!?」
…無理だ、止められっこない。俺一人にこの街は大き過ぎる…くそっ、起こる事がわかっているのに止める事ができないなんて、ただのカカシじゃないか。
「幽…お前、誰が殺されるのか知っているのか?」
幽は首を横に振った。わずかに、髪が揺れたように見えた。
「それは持ち主が決める事。名前は後付けでいい。ようは連続殺人になるかどうかだから」
お前は、何も感じないのか。人が殺されていく事に…何の感情も浮かばないのか。
「…クソッ!」
漬物を切ったばかりでぬるっとしているまな板に拳を叩きつけた。後三十分、たった三十分しかない。起こる事は誰よりもわかっているのに、傍観している事しかできない…。
俺が何をしたっていうんだ。確かに、銃は捨てた。自殺もしようとした。でもこんなおまけがつくなんて、知ってたらそんな事しなかったさ!
何度も何度も殴りつける。目の前に幽が、貴重な、事件の内容を知る者がいるというのに。…俺は諦めているんだ。今の俺に、明日の…三十分後の世界の連続殺人を止める事ができないと。事件に対して全く無力なだけに、余った体の力を全部吐き出さんばかりの思いで殴っていた。
…また俯いてる。ダメだな、俺。こんなんだから運にも見捨てられるんだ。
地面を向いてたら確かに転ばないかもしれない。でもそれだと、先にある大きな崖…先を見ていたらもっと早く進路を変更できたはずの障害物は近づくまでわからないし、ちゃんとした進路に戻るための時間がかかる。それじゃダメだ。誰かが転んで小さな怪我をするのを防ぐ、そんな事よりも崖とか、生死に関わる大きな分岐点に気づかないといけない。
…それは精神論だけど。
でも、俯いているだけじゃ、何もできないのは確かだ。
悲しい時こそ泣くな…か。円ちゃんが屋上で言ってたけど、きっとそれも同じ意味なんだろう。そうして何かが解決するわけでもない。そうやって自己愛に浸るのは全くの無駄…妙案を出すにしてももうちょっとマシな方法があるだろう。だから、無駄なんだ。
「ふぅ、なぁ幽―――」
顔を上げてみるも、彼女の姿はそこにはなく。
「え? 嘘?」
俺が俯いてる間に? バカな、だって、音、しなかったし…。
誰もいない。店内は、疋田さん達がいなくなった時から、そのまま。
「嘘、だろ」
三度目だというのに。奇術、冗談にしちゃでき過ぎてる。幻でも見ていたとでもいうのだろうか。…は、はは、それこそありえない。だって俺はちゃんと包丁も握って。
「……いたのは、間違いないな」
もはや自分の目は信じられない。俺は、カウンターに残された手のつけられていない漬物の皿と冷たくなった湯飲みを見つめるしかなかった。
―――― 弾は残り四発 ΦΦΦΦ ――――