三月七日 4
病院の門を出ると少し早足になった。普段と違い、行く先がしっかりと決まっているのだからそれはいい変化なのかも知れない。
まだ昼食には早い。中途半端な時間。日もだいぶ上がっていてそれなりに日光は暖かい。ただし吐く息は全くもって白さを失っていない。車道でも、乗用車がそれぞれ排気口から蜃気楼を垂れ流している。服装に関しても、ただの上着とジーンズという問題外な俺を除けば、マフラーを巻いたり事を着ていたりして防寒をしている人しかいない。
「…事件を追うには、まず現場から」
俺は最初の事件現場、踏切の所に急いだ。今更現場検証しても遅い、犯人もそれだけの時間があれば重要な物を回収しているという事はわかっていたのだけど、何かしら事件の糸口を見つけるための足しになると思った。これから現場をいくつも見ていかなければならないのだから多少の慣れも必要、検証の仕方を自分なりに研究する意味も含めて。
ワゴン車が向かってきた方向とは逆の、事件当時も自分が歩いてきた方向から踏切に着く。相変わらず人気のない通り。その静けさは朝から晩まで人気がないようにさえ思えるほど、人の気配を感じさせない雰囲気だ。俺はまず、今はもう取り除かれているがフェンスのあった周辺を見回した。線路脇の雑草は膝下辺りまで伸びていて、多少警察の見落としがあるかも、と期待できた。が、特にそれらしいものは見当たらなかった。
「まぁ…ここは本命じゃないし」
未練がましく目線はまだ雑草にやりながら、そのまま踏切を渡り、ワゴン車が通ってきた狭い一本道、正面の道を進んだ。
「なんだこの匂い、臭いな」
生臭い、でも魚とは少し違う、純粋なゴミ臭さ。
その道を囲う家並みの作り方自体は、俺の家に近いブロック塀に囲まれて、錆びついた郵便受けが取り付けてあるだけの簡単な見かけ。
(これじゃ…狙えない、か)
奥山刑事の話だと、こめかみから顎…少なくとも「ワゴン車に座った久上さんの母親の位置よりも高めに銃を構えていた」事になる。車体の高めなワゴン車だった…久上の母親の座席に座った状態では、顎の高さが百六十センチ近くになっていた。身長は成人男性でもせいぜい百八十センチ、俺がまさにそれ。
久上さんは犯人の姿を見なかった。つまりある程度遠距離、もしくは物陰から発砲したのだろう。久上さんの母親のこめかみの銃痕から顎を貫く角度で発砲されたのなら、例えば一メートルほど離れていたとしても、三平方の定理を利用すると銃口は地上から二メートル近くの高さにあった事になる。しかもそれが発射された高さだ。…二メートルを超える大男が犯人なら逆に見つけやすい。常識から考えても、何か台、とにかく上から狙える位置から発砲した、と考えるのが普通だ。この通りのブロック塀は首元辺りまでの高さ…道路の人間の頭を打ち抜くには少々やりにくい。やっぱり何かしら台に乗ったんだろう。
「あら隆史君…どうしたのこんな所で」
「あ、疋田さん、こんにちは…いや、まだおはようございますかなぁ」
どっちでもいいねぇ、と相槌を打つお昼近くだというのにまだ寝巻き姿の疋田さん。もしかし一日中その服装? でも一応リンドウに食事に来る時はきちんとした服装だから、そういうわけでもないらしいけど。
「…で? この老人スラム街の一軒家を見あげるようにして考え事をしていた理由は?」
「懐かしいですねその言い方」
何かの謎解きを感じさせる堅い言い方は、昔の疋田さんを思わせる。今でこそ丸くおばあちゃんになってしまったのだが、昔はある意味偏屈…変人、いや特殊な人だった。昔の面影はにんまりとした笑顔だけ…そしていつの間にか普通っぽい人へ変わっていた。
「はい、ちょっと散歩に」
「―――嘘でしょ」
思わずたじろいでしまう。そんなに早いテンポで返してくるとは思わなかった。まるで、そういう事がわかっていたみたいに。
「もう一つ質問するわね。昨日、隆史君は私にワゴン車を見たって言ったね…なら、隆史君はどこを通ってリンドウへ行ったの?」
いつもの表情で言う。口調だけが違っている。
「え? 普通に、踏切を」
「―――踏切は通行止めにされてたのに? 処理する人が来る間に通ったというのも…車掌さんが一般の人が近寄らないよう見張ってたらしいから無理。…茜ちゃんに聞いたけど、昨日遅れてきたそうじゃない。起きたのが六時頃だ、って隆史君は言ったのよね? …なら、隆史君は一体どの道を通ってリンドウへ行ったの?」
「え、えぇ? 何ですか急に」
「答えなさい」
優しい言い方ながらもそれは命令だった。…表情こそ笑っている。しかし、問い詰めるような目が強く俺の顔を見据えていた。
本当の事を言うべきか。でも、それをしたくないと思っている自分がいる。ワゴン車が追突した時に現場にいたという事…事件に関係しているという事を知られる事は、何となく後ろめたい。殺人事件の内部に関与していると疑いの目を向けられるのは嫌だし、何よりその原因が自分にあるという事実もある。見られたくない傷のようなものだ。それに、その事に関して今から調べようとしている…警察から見ればおそらく悪い事にあたるだろう行動を取っている真っ最中だった。
「…リンドウに行くのに最短なのがあの踏切を渡る事ね。でもそこが通れないのなら…もう一つ向こうの踏切を渡るしかないわよね。でも、そうなると事故現場を見たという隆史君の話が怪しくなってくる。昨日隆史君から聞いた限りでは、あれは実際に見たような説明だった…。だから嘘はありえない。でもね隆史君、あの現場、車のガソリンやらが漏れてて、それが危険な量だったから刑事さんが周囲の住民を危険に晒さないためにって事で一時的にあの辺の人は事故現場から半径五十メートル外へ避難させてたのね。だから現場を見れるはずがない。その状況になった事を知らない隆史君は、そうなる以前にあの現場を見ていた事になる」
言いながら、俺の頭を人差し指でつつく。
「それに…散歩なら、人の家をじろじろ眺めたりしないわよねぇ。さっきも、線路近くで何か探してたようだから、やっぱり何かしら、事件に興味があったりするの?」
「いや、そんな…ただ、ちょっと魔が差したっていうか」
「そう」
ため息をするような、失望したような頷き。別の答えを期待していたんだろうか…でも、それでも疋田さんみたいな普通の人には知られたくなかった。
「俺、もう行きますから」
「ごめんねぇ、変な話に付き合わせちゃって」
――また、いつもの目に戻る疋田さん。会釈を二、三度繰り返して…寂しい背中で行ってしまった。
「疋田、さん…」
小さな老人の背中は、まだ、俺に問い詰めているように思えた。
まるで、俺の全てを知っているかのように。幽のように、先を読んだ言い方。一体、疋田さんは何を知りたくて? 何を確かめたくてあんな事を言ったのか。
力ない歩きなのに、強い意志を感じる。しっかりと道を見据えているからだろうか。
それ以上に怖かった。あの言い方、まるで、幽のようだった。
「さ、進めないと。時間もたくさんあるわけじゃないし」
発砲できるスペースを探すため、交互に両側の堀の内側を覗き見ていく。が、どの家も植木やら盆栽やら、とにかく色々な物を栽培していて狭い。完全に物置スペースの所もあるし、元々の家の構造上、塀と家の壁の隙間に人は入れない所も多かった。こめかみを狙えそうな窓も一緒に探したが、ない。敷地内で発砲した可能性が薄くなる。
続いて道路に目をやる。薬莢が落ちているかもしれないという希望がよぎったが…無論そんな物はない。まぁ…警察も調べてるだろうし。生臭い匂いこそ漂っているが、その他は特に気にしなければならない所は見られない道路だ。
「で、生臭さの原因はこれというわけか」
急に壁が凹んでいる所が臭いの発生源。おそらくゴミ捨て場だろう。今は何も捨てられていなくてすっきりとしたスペースだが、なるほど、匂いの元はこれなんだな。よっぽど捨てるマナーが悪いんだろうか。この臭さは異常だ。
「…臭ぇな…ったく」
思わず鼻を押さえる。胃の中で溶けたキャベツのような匂い……近くに寄れば寄るほど匂いが倍増するかのような錯覚を覚える。鼻の内側にへばりつくような、酸臭。
「ダメか。まぁこんなものかな。いくつかわかった事はあるんだし」
正直言って早く立ち去りたかった。しかし、この臭いはひどい。この辺に住んでいる人は大丈夫なのか―――――――って、あ。
「このスペース…使えるじゃないか」
大の大人が三人は余裕で入りそうな面積。何か適度な台さえあれば十分に狙える。でも、台を使う理由が全く考えられない。
でも、もしかしたら久上さんはその時微妙に見逃してしまっただけで…犯人は接近して発砲したのかもしれない。この道の狭さを考えれば、久上さんの母親が運転していた時はあまりスピードを出していなかっただろう。遅いスピードに加えてこれだけ場所の余裕があれば十分にこめかみを狙えるし、たとえ運転手が死んだとしても車の動力はなかなか消えない。発砲と同時に気づいたとしても、動き続ければこのゴミ捨て場のスペースは車内から死角になる。
犯人も慌てて隠れたのなら後ろに座っていた久上さんには気づかなかったのかもしれないが…その逆がある。しっかりと冷静に久上さんの存在に気づき、再度殺そうとしたものの母親の死体によってスピードが上がってしまい、どうしようもなくなった…という場合。
どちらにしろ、新聞紙上で久上さんの生存が発覚してしまった。これでもなお狙われない可能性を説明できるならばぜひご教授いただきたいね。
久上さんは最も危ない立場にいる。この現場検証ではっきりした。…一刻を争うほどに。
「でも、この分じゃデパートの現場の方は期待できないな。…駐車場って事は障害物らしき障害物がない。何かが落ちてもすぐに気づくだろうし。事件当時、現場が暗かったなら話は別だけど、それなら警察が押収してる」
なら、無駄足は踏まない方がいい。今は夕刊を待って、奥山刑事の死因を知る事が先決だ。銃殺じゃない可能性もなくはない。…期待薄だけど。
「……昼飯、食べに行こうかな」
今日は久々にレストランにでも入ろう。…ゆっくり、体と頭を落ち着けるために。