三月七日 3
「危なかった」
いざトイレと足早に着いた男子トイレだが、掃除中。エレベーターを待つ余裕はなかったので階段で一階分下りて用を足した。
「前途多難だな…」
事件とは全く関係ないのに、初っ端から焦りまくりだ。先が思いやられると同時に、俺って運が悪いんじゃないかと心配になる。違う違う…呪われてるんじゃない。っていうか幽は幽霊と決まったわけじゃない。現代に幽霊なんて信じられないだろ。
そんな思考を心の隅に追いやりながら、ロビーに着いた俺は待合席に向かった。
「やっぱり老人ばかりだ」
病院に来た時の予想通り、診断を待っているのは老若男女とは言わず、お年寄りオンリー。平均年齢の高さを肌越しに感じながら、出入り口のすぐ横…自動販売機前に「ご自由にお読みください」と綴じてある新聞を三部取って席に着いた。
「さてと…」
一部を手に取ると、まずは第一面。…あるわけないか。大体は政治問題や芸能人スキャンダルやらで占められるこのページ。殺人事件と言えど、地方ならたいして大きくは載らない。何枚かページをめくる。まず昨日の事が載ってるはずだから水越町、水越町…載ってないのか? 不安になりながらも文字時々写真の新聞に目を走らせる。
「…あった。『水越町主婦銃殺事件…昨日午前六時頃、娘の登校のため車を走らせていた主婦が頭を打ち抜かれる。線路に突っ込むなどして電鉄の遅れ、近隣の交通を一時停滞させる。被害者は久上由利・四十三歳。地域に住民が発見』…か。特に目を引くものはないな」
被害者の顔も載せられていた…久上さんの母親とは思えないくらい中年太りな顔つきだが、まぁそんな事はどうでもいいだろう。他の二冊も見たが、内容はほぼ一緒。俺が知ってる程度の事しか警察も公表していない。
ちぇっ…でも、誰かが殺されたなら必ず載るはずだ。死因や被害者の遺体発見現場なんかの最低限の情報を手に入れるには新聞がいいだろう。手頃だし、毎日出るからな。
「……って、おい」
見逃しそうになった、そのコマのすぐ横。警察から確証ある情報をまだ得ていないのだろう…小さいが『連続殺人か!?』と銘打たれてある。
『今日未明、水越町内のスーパーの駐車場にて水越町主婦銃殺事件の捜査中だった奥山茂刑事・三十二歳が死亡しているのが発見される。死亡推定時刻は午前一時前後…死因については明かされていないが、おそらく昨日の主婦銃殺事件と関係があるものと思われる。地域に住む住人が発見』
驚きのあまり、音読してしまっていた。近くにいた老人らが奇妙がってこちらに注目する。
「奥山って…昨日の若い方の刑事じゃないか!」
…昨日までピンピンしていた人間が、病気やらでの突然死は考えられない。何でそんな所で殺されているんだ?
では、なぜそんな深夜に刑事がそんな所を訪れるのか。そう考えられる理由は多くない。俺が真っ先に思い浮かぶのは、犯人もしくは犯人の関係者との接触だ。さすが刑事…心当たりがあったのだろうか。それにしても、明かされていないが、おそらく凶器は銃だろう。
警察官は皆柔道などの護身術もとい抵抗する犯罪者を取り抑えるための技術を学んでいるし、もう一人の体格のいい刑事もいたのにあえて一人で臨んだという事はそれなりに体術に自信はあったに違いない。だから、あの刑事を体術で無力化するにはそれなりの心得を持っている人である必要がある。
でも、銃ならそう難しくない。一人で会おうとした理由に、犯人もしくは犯人の関係者が奥山刑事と親しい仲だった、という仮説もありえるにはありえるが、それでも銃レベルの飛び道具として機能できる凶器でないと、あの刑事は殺せなかっただろう。それに奥山刑事に親しかったかどうかはあまり問題じゃない。ようは銃殺されたかだ。
以上の推測から、凶器は銃でほぼ間違いない。でもこれはあくまで推測の域を超えない…俺程度の推理だ、ここから先に踏み込むにはまだ情報が足りな過ぎるし、穴もある。やはり動いて情報をかき集めていくべきだろう。
「でも…な」
まだ俺の銃で殺されたという確証はない。そもそも、久上の母親も本当にそれで殺されたのかはっきりしていない。だけど、昨日一人今日一人、人が銃殺されたとなったら、疑いの目を向けないわけにはいかない。そうだ、奥山刑事も言ってたじゃないか。「無差別過ぎる」と。無計画、新聞でも銘打たれている通り、連続殺人だ。
二人目の被害者は奥山刑事なのか…。山本刑事、どうしてるかな。結構仲がよさそうだったし。いや、他人の心配なんてしてる暇はない。まずは自分のこれからの行動を考えなければ。
二人目を許してしまった。これは一応久上さんにも報告すべきだろう。現状を把握してもらわないと…なぜなら、もしかすると犯人は久上さんも一緒に殺したかったのかもしれないからだ。走行中の車に乗っている人を撃ち殺せるほどの近距離。そんな近距離なら久上さんの存在にも気づくだろう。
そう。『母親を撃った後久上さんの存在に気がつき、もしくは撃つ予定だったが、母親の遺体がアクセルを強く押さえてしまいスピードを上げたので狙い切れなかった。だから、目撃者を消去するために久上を探しているかもしれない』という仮説も立てる事ができるからだ。
仮説を立てる事ができる以上、その仮説の数だけ久上さんが狙われる可能性になる。俺的には、母親の遺体が自らの重さでアクセルを押さえたのではなく、『実は撃たれた直後数秒だけ意識があって、犯人から少しでも遠ざけて、娘を生き残らせるために強くアクセルを踏み込んだ』という強引な仮説もありだと思うが、それはロマンチック過ぎてありえそうもない。頭を打ち抜かれてなお意識があったという話は聞いた事がないし。
どうか、俺の銃じゃありませんように…。そう祈るばかりだ。これから俺が動いていく事も全部無駄足になってくれれば、久上さんを殺した原因が俺の銃じゃないとわかれば、少しは救われる気がするだろうから。
…でも、なぜ、こんなピンポイントに。
ひとまず病室に戻ろう。落ち着いて考えたい事は山ほどあるけれども。久上さんにこの仮説を伝えなくちゃいけない。
「よし…」
おもむろに立ち上がった俺は新聞を戻すと、周囲の不審がる目を振り切るようにそのまま六階へ向かった。
病室の前に着くと、仲から聞き慣れない声との会話が聞こえた。男の声…それも若い。誰だろう。会話の相手はもちろん久上さんだった。
無言でドアを開けた俺に、話していた二人は注目してきた。
「君、挨拶もなしに病室に入るのかい?」
いきなり説教じみた言い方。すらりとした長身の白衣の男はしょうがないなとでも言いたげな目線で俺の全身を値踏みするように見るとまた視線を久上さんに戻した。まだ三十代…だろうか。それにやや茶髪気味な長い髪をしているし、やや若さの残ったおじさん、といった所だ。身長は俺よりも高く、さっきの目線もど事なく見下ろされているような感じがした。若干香水もつけているようで、それすらも鼻に付く。
「ドアは最後まで閉めてくれ」
俺に目を向けもせずにそう言う男。服装から考えて、この男はこの病院の医者だろう。
「神崎先生…いいじゃないですか、そんな事気にしなくても。冬見君も座ってください」
神崎という奴なのか。ささ、と椅子へ促す久上さんは男のせいで俺が気分を害したと察した、苦笑気味に事をうやむやにしようとしていた。
「紗枝ちゃんのお父さんはいつ頃帰ってくる予定なんだい? さすがに世界的なプロ奏者と言ってもさすがに妻を亡くしてしまえば戻ってこらざるを得ないだろうに」
「はい、でも神崎先生の知ってる通り、うちのお父さんは音楽一筋ですから…よくわかりません。まぁ葬式の時は最低限親族は揃うとは思いますけど」
「紗枝ちゃんも大変だな。円ちゃんの調子の方はどうだい? 彼女の練習に今回の出来事があまり影響しないといいんだが」
席に着いた俺を置いてけぼりにして話は進む。どうやらこの男…俺の知らない間に久上さんの家族と何かしら交流があるらしい。
「あははは…あの子気合入ってますよ。何でも葬式の時に私がソナタ吹くんだーって」
笑うが、ど事なく硬い感じがした。俺に遠慮でもしているのだろうか。
「…で? 君はお見舞いの用で?」
「そうです。さっきまでトイレに行っていたもので」
「にしては時間がかかったらしいね…私がここに来てからもう二十分近くたつんだが?」
「六階の男子トイレが掃除中でしたので一階下のトイレを使わせてもらいました。後は少し病院内を探索…二十分たとうがたちまいがお医者さんには全く関係のない事だと思いますが?」
語尾に少し力が入ってしまった。一人の医者が二十分近く同じ患者と話をしているというのも気になるけど…。医者から目を逸らして、久上さんに話題を振る。
「久上さん、この方は?」
「はい、神崎俊平先生といって、以前父の手術をしてもらった人です。音楽が趣味らしくて、よく円の演奏会などにも来ているんです」
「ただの盲腸だったがな。どうやらだいぶ我慢していたようで…理由は聞かなかったが、たぶん練習に時間をそそぎたいがためだったんだろう」
そんな事もあったな、と思い出すように言う神崎先生。特に気にした様子もなく、ポケットからキャラメルの箱を取り出し久上さんに投げやると、席を立った。
「もう行かれるんですか?」
「あぁ、そろそろ私の診断の時間だ。院長先生が数時間席を空けるというのでな、ピンチヒッターというわけだ。まだ臨時枠なのにな。医者になりたい奴は山ほどいるが、現実問題医者は足りない」
困ったもんだ、と肩をすくめて見せるが、得意そうな表情を見るに、まんざらでもないらしい。
「それは先生の腕がいいからですよ。じゃあ、がんばってください」
「ありがとう。ん、それと、君…名前は?」
久上さんに向けていた目とは異質の…若干の敵意が込められているような視線。社交辞令で聞いておこうという考えなんだろうか。…普段の俺なら無視するところだけど、
「冬見、隆史と言います」
「じゃあ冬見君、また」
ため息をつかんばかりの吐き捨てるような「また」の後。神崎先生はそのまま会釈もせずに出て行った。
「ふぅ」
俺も妙に疲れてしまった…。肩の辺りが少しだるい気がする。よくわからないけど、これが肩がこるという事なんだろうか。
「気を悪くしましたか? 神崎先生、いい先生なんですけど、ちょっとクセがあって」
キャラメルの包装を解きながら言う。…食べ物をくれる人なら誰でも優しいのか。
「まぁ出鼻をくじかれたような感じにはなったけど…そうだよ、マズい事になった」
「何があったんですか?」
俺は奥山刑事が殺された事を話した。凶器こそ明かされていないがおそらく銃だろうという事…久上さんが狙われる可能性があるという事をだ。
「…昨日会ったばかりなのに」
「ああ…犯人の方が上手だったみたいだ。たぶん、奥山刑事は犯人像がわかっていたんだと思う…それで接触して、確かめた。しかし運悪くドンピシャ、そのまま射殺されたって感じだな」
これで、余計にじっとしていられなくなったな。時間がもったいない。
「久上さん、俺、自分なりにこの事件の事調べてみる」
「止めてください! 危険ですよっ…奥山刑事だって捜査中に」
「わかってる。でもね、この事件は警察だけじゃ近づけない気がするんだ」
久上さんは俺の言葉に首をかしげた。俺は続ける。
「凶器が一丁の銃で、弾が残り四発しかない事はこの事件の関係者では俺と犯人しか知らない。つまり最低でゼロ、最高で四人の被害者が出ると知っているのも俺達だけなんだ。警察だけにまかせていれば、おそらくこれからの殺人は防げない…四人被害者が出るまで傍観しかできないと思う。
そりゃ夜中にパトロールをしたりするだろうけど、次は昼間かもしれないし、ある意味この広い街全体が人質に取られているわけなんだから、うかつに警察も激しくは動けない。かといって警察に暴露すれば俺も危うい…今のところ犯人に存在が知られていなくて、事件の深部まで踏み込めているのは俺だけなんだよ。だから行くんだ」
細かい反論を許さない俺の言い方に、久上さんは口調を緩める。
「…もしかして、私のためだったりしますか? それなら―――」
「違う。俺のためだ…さすがにちょっとはさ、久上さんのためでもあるけど。でもそれは俺の望みのついでだから」
俺しか、いない。今この街で、最も尊くない命を持っている奴は。
――そうさ。最初から、そうしたかったんだ。この子のために何かしたかった。けど、惚れてるからとか、この事によって気を引こうとしてる下心と思いたくなかったし、久上さんに思われたくなかった。
やっぱり、俺の望みは自分の尻を拭う事だ。でもその事によって久上さんに気を使ってほしくない。でもそう思われても仕方がない事をしようとしている…なら、ついでに久上さんの敵も討ってやるしかない。できる事は全部してやる。できないなんて言ってる暇じゃない。すでに人は二人殺された。俺の死に場所…そんな贅沢な事は後回しだ。姫を守る騎士を気取るつもりはない。でも、ある意味俺は久上さん以外にもこの町全体の人の命を背負っているわけなんだから…何度もくどいが、俺の銃だったらの場合だけど。
「そろそろ…行くよ。悪いね、長居しちゃって」
「いえ…それは別に。でも、絶対に無理はしないでください。危ないと思ったら絶対にそこで止めてください。もしもそれで冬見君が死んだりなんかすれば、私は…悔やんでも悔やみ切れないと思いますから…」
頷く。こんな俺に…。また泣きそうになって唇を噛む。ありがとうと…言いたかったけど、言葉にならなかった。その代わり何度でも、何度でも、心の中で感謝を繰り返す。
「じゃあ」
「さようなら、冬見君…」
ドアを閉める…。その時もずっと、彼女は俺を見つめていて、
「――――あ~、あの…いい?」
「のぁっ!?」
突然の声かけに瞬時に最高度まで跳ね上がった動悸。あまりに慌てたもんだから病室に転がり込んでしまう。
ちらと久上さんの顔を見てみると顔を真っ赤にしながらバツが悪そうに俯いていて、反対にドアから顔を半分覗かせている女の子は、場の空気を気にしていたような人間とは思えないほどニヤニヤしている。
「もうっ円!? 何やってるの!」
「だって~入りにくいったらありゃしなくって、そんなムード作れるなんて本当に昨日会ったばかりなの? でも…や、ホントにいいムードだった。まぁ私は満足かな」
そんな事を言いながらズカズカ病室に入ってくる円ちゃん。今日は私服で、白羽のジャンパーを着ていた。でも、さすがに病院内でジャンパーは暑いのか、いそいそと脱ぎだす。中はゆったりとしたブラウスだった。
「ちぇっ…何だ、円ちゃんか」
「何となく卑下された感じがするんだけど」
無駄に驚いてしまった気がして、ぽりぽり頭を書きながらまた丸椅子に座った。円ちゃんもジャンパーを折りたたんで同じく座る。
なぜか、沈黙してしまう俺達。さっきから俯きっぱなしの久上さん。正面に座っている俺も腕組しながら言葉を探していて、円ちゃんにいたっては室内を探索したくてたまらないらしく、きょろきょろと見回していたりする。もしかして根っからじっとしているのが苦手なんだろうか。…にしても、本当にフルートの名手なのか? 信じられない。
「あ、またお菓子もらってる」
「…あげない」
「円ちゃん、ほら、ちゃんとチョコレート買ってあるから」
「えぇ~っ、だってこれ百円の板チョコじゃん!? 私はそんなに安い女じゃないっていうか…ねぇ隆史お兄ちゃん、お見舞いの時くらい奮発して専門店の高い生チョコを買ってくる気概はないの!?」
「お見舞いの時くらいって…あのね、これでも俺は奮発しまくってるんだよ。生活費稼ぐだけで精一杯なのに二日間連続で菓子セットだぞ? サイフが悲鳴を上げてるよ」
相変わらずめちゃくちゃな事を言う。どういう理屈だ。全く、謙虚な姉を少しは見習ってほしい。
「やっすい男。お姉ちゃん、悪い事は言わないからこの隆史お兄ちゃんは止めといた方がいいよ…誕生日とかのプレゼントに期待できないから」
「円、貴方は少し礼儀を勉強しなさい」
円ちゃんはちぇっ、と不満気に板チョコの包装を破き、一欠片ずつつまんで食べ始める。…なんか食べ方がつまみ食いっぽい。しかもどことなく茜さんに似ている。
「――…そうそう、お姉ちゃん。お父さんが明日みやび空港に着くって。記者の人達に群がられて遅くなるかな。ほら、お父さんってああいうの苦手だから」
「あぁ…プロだったね確か。何の?」
「お父さんの方はバイオリンよ。こっちはメジャーだからね」
言い方にトゲを感じた。何で自分が目立たないのか悔しいらしい。口に出てしまった気持ちを悟られないようにするかのごとくそっと目を逸らした後、さすがね、と付け加えた。
「まぁそんな事はどうでもいいとして。ねぇ、さっきまで何話してたの? 面白い事なら私にも教えるべきじゃない? お姉ちゃん」
「面白いとかそういう話じゃないって。もっと、現実的な話。円みたいなお子ちゃまにはまだまだ早いって。チョコレート食べてさっさと帰りなさい」
「せっかく見舞いに来てあげたって言うのに何その言い草。…はいはい、邪魔者は退散しますよ~」
来た途端に帰るはめになった円ちゃんに少し同情した。が、ジャンパーを羽織った円ちゃんは、
「お姉ちゃん、ちょっとだけ隆史お兄ちゃんを借りるね。いいでしょ?」
「…迷惑かけたらダメよ。いい?」
「わっかりました。旦那様は無傷でお返ししますので。…大丈夫よ味見とかじゃないから」
「おい、ちょっと円ちゃ――」
「いいから来るの」
むんずと俺は袖を掴まれ、ずるずると廊下に引きずられていった。
「何が用事? 会ったばかりで悪いんだけど、円ちゃんが持ってくる話は悪い話としか思えないよ」
廊下に引っ張り出された俺は悪態をついた。偏見のこもりまくった言い草だが仕方がない。だって円ちゃんだもんな。茜さん似という損な性格のポジション。強気で自分勝手しかもズボラっていうイメージしか浮かばない。
そんな勝手な考えをしてるのに気づかない円ちゃんは、人を引っ張り出しておいて、しれっと一人で先に行こうとしていた。後姿を早足で追いかける。
「屋上に行くの。いい?」
「何かあるの? 久上さんに聞かれたくない話ならここでいいじゃないか。屋上ってのも…第一開いてるのか? 鍵」
「開いてるよ。神崎さんに開けてもらったから」
聞いてもまともに答えを返してくれそうにない雰囲気…釈然としない。とにかく、円ちゃんの用事は人が少なからず通る廊下ではできない事らしかった。大人しくついて行くしかない。
――干されている真っ白なシーツが風にはためいていた。風による肌寒さ…しかし同じくらいに日光が暖かい。冬の太陽だけ真っ白に見えるのは気のせいだろうか。
「じゃあ、そこのベンチで。いい?」
円ちゃんに倣って座る。冷たい…空気より物の方がよっぽど冷えてる。
「さ、何だよ。お姉ちゃんがらみ?」
「よくわかってるじゃない。そう…あのさ、隆史兄ちゃんは彼女とかいるの?」
「はぁ? ごめん話が全く見えてこない。突然過ぎるぞ」
何を聞いてくるかと思えば。やっぱりこんな年頃の女の子って奴は色恋な話が気になるのか。何を言わんとしているかはわかるけれども、ここはあえて先を言わずに、素直に質問に答えておくのが当たり障りないだろう。
「そうだな…いない。俺んち貧乏だったからさ、高校行けてないんだ。しかも俺って同年代とツルむ性質じゃないし。同様に異性交遊もなし。一応俺のバイト先に林堂茜っていう人がいるけど、それは最初から姉みたいな感じ。んで、そのバイト先ってのがリンドウっていう居酒屋でさ、年寄りとサラリーマンくらいしか来ない。だから今後も、とても出会いなんてあるとは思えないね」
「へぇ~意外」
「その歳でまだ彼女いないのってバカにしてる?」
「ふ~ん、そっかそっか」
一人で納得して何かを咀嚼するように頷く円ちゃんは、ポケットから食べかけのチョコレートを取り出す。半分に割って片割れを俺によこしながら口を開いた。
「いや…お姉ちゃんの事だから、ちょっと心配になっちゃって」
「あの…俺は興味がないわけじゃないけど、久上さんにそういう事は…」
「違うの。そういう事を言ってるんじゃないの」
じゃあどういう事なんだ。うぅ~ん、思えば今まで女性らしい女性と話したのは茜さん以外にいなかったからな…疋田さん以下略はもはや女性と呼んでいいのか悪いのか…正直なところ、男女の性別が適用されるのはせいぜい三十代以下だと思う。それ以上は俺としては…難しい所だ。こんな事考えてるなんて、誰かに知られたらボコボコにされるな…俺。
「隆史お兄ちゃんはお姉ちゃんの事どう思う?」
「ちょ、直球だな。…可愛いんじゃないの?」
「そんな引きつった顔で言われても説得力ないよ、…ちゃんと言え」
「何で命令口調になるんだよ、だから可愛いって」
「どんな風に? どこが可愛いと思ったの?」
身をずずいと乗り出すように言う円ちゃん。目は真っ直ぐに俺に向けられていて…、久上さんにそっくりな瞳をしている。
「もういいだろ、勘弁してよ。そういう話は苦手なんだ」
「ちぇっ、せっかくいいお相手ができたと思ったのにぃ~。言うならば……昨日助けた女の子に一目惚れした少年Aは病院に通って従順に慕う。薄幸なイメージを浮かばせる健気な少女に心を奪われ、昼も夜も、きっと病院の窓から切なげに下界を見下ろしているだろうあの少女の事が忘れられなくて、今にも心が張り裂けそうになる…あぁこの気持ちを同表現すればいいだろう、誰かにこの胸の痛みを相談したいのに…ていうラブコメシチュレーションだったらサイコーだったのに。あぁ~あ、期待して損しちゃった」
「そういうお前はサイテーな。親が昨日死んだんだぞ、そんな無粋な事考えるなよな」
何てのんきな、と呆れて物も言えない心境に陥りそうになった時…傍らの女の子の表情が突然陰った。
「……別に、気にしてないわけじゃないよ」
円ちゃんは膝の上のチョコレートを見下ろした。…冬で太陽は低いというのに、射光はその顔を照らしてはくれない。…地雷を踏んでしまった。くそ、わかってたはずだろ。昨日、病室を去る時に聞いたあの嗚咽で。
「ごめん、無神経だった」
「まぁそう思われてもね、仕方がないかな」
円ちゃんは吹っ切れたように空を見上げた。目尻が少しだけ潤んでいて、呼吸も、深いがわずかに痙攣しているような感じがした。
「本当は…まだ泣いていたいのかも。でもね、そんな事してたら日も暮れちゃうし。泣いて解決する事なんて何もない。悲しい時こそ泣くな…お父さんにそう教えてもらったの」
「久上さんも、お父さんから格言をもらってたけど」
本当の罰は、受けてずっと後になって気づく…だったか。どちらもとても実感するにはわかりにくい言葉だ。
「優しいけど、自分に厳しい親なの。そんな姿を見てると嫌でも私達に伝染しちゃう。…私達も、どの言葉も意味を理解してないと思う。…何でも、意味なんて後付けだからね」
今は外国だけど一昨日電話で呼んだから会えるかもね、と付け加えた。
「そっか」
お父さんがそんな人なのか…ん?
「お母さんはどんな人だったんだ?」
「別に、普通のお母さんだった。優しかったな…ちょっと世話を焼き過ぎるなぁ、って思える時もあったけど、結構普通のお母さんだったよ」
「優しかったんだ」
「うん。お姉ちゃんに引け目を感じちゃうくらい。ほら、私は演奏会とかよく国外にも出たりしてるのよね。その点、お姉ちゃんは音楽とかあまり興味ないし、私と違って手間がかからないから、いつも私に何かしてくれてた。だから、甘やかされちゃったのかな」
雲を思い出のスクリーンにたとえているのか、今、母親と過ごした昔を懐かしんでいるんだろう円ちゃんの横顔は、いつの間にか晴れやかだった。
楽しい思い出でいっぱいなんだろう。……それが羨ましい。こんなに近くにいるのに、俺とはとても遠い。励ます事もできるけど、俺の言葉なんて彼女に届くわけがない。母親の暖かさを忘れていない円ちゃんは、俺と違って未だに思い出に浸っていられるんだから。
「幸せ者だよ。円ちゃんは」
何を思ったのか、俺は知らず知らずにそんな事を口走っていた。
「え?」
呆気にとられた円ちゃんは俺に目を向ける。
「ごめん、忘れてくれ」
俺って本当に最低だ。こんな不憫な子に嫉妬するなんて。どれだけ心が狭いんだ、バカやろう…失う痛みをわかってる奴なら何でそれを察してやれない? 強がってるけど、こんなにも弱い子なのに。
「…隆史お兄ちゃんも、色々あったんだ」
「何、ずっと昔の事だよ。古過ぎる思い出なんて…他人事と一緒なのにな」
どれだけ大切な思い出でも、一字一句を思い出せる人はいない。たとえ覚えていたとしても、時が経過するとともに劣化していって曖昧になっていく。その時の気持ちを正確に思い出せるかどうかだ。その時は泣けても、その時から遠く離れてしまった今では、泣いたという事実と悲しかったという曖昧な気持ちの記憶しかない。
つまり、そうなってしまうと他人から聞かされるような不幸な話と一緒だ。表面上同情に似た感情は抱けるけど、本心に問いかけてみればさほど…ってみたいに。それは時が経てば経つほど悲しみの思い出は簡略化されていって…気持ちを忘れていく。悲しみを忘れるって、きっとそういう事なんだろうと思う。
「…隆史おにいちゃんがいい人でよかった。これなら安心してお姉ちゃんを任せられるね」
「こら、勝手にそういう事を決め付けるなって」
円ちゃんの頭を小突く。そしてそのまま、優しく撫でてやった。目を閉じて受け入れてくれた円ちゃんは、しばらくすると俺の手を両手で包み、頭から離す。
「お姉ちゃんは寂しがり屋だから。もし、もしよかったら、明日も来てくれない? お姉ちゃんきっと喜ぶから」
それは願うような声だった。そして優しい声だった。きっとフルートだけじゃなくて歌もうまいんじゃないか…そう思えるくらい、耳に残る声。
「言われなくてもね、そうするつもりだよ」
…思い出は薄れるけど、なくなる訳じゃない。どんな出来事があったにしても、何かがあったという事実だけはいつまでも忘れない。でも人は物事をいつまでも覚えていられない動物だから…忘れる事は避けられないから、最後にできる手段として『思い出』として記憶を残すんだ。思い出と記憶は、セピア色かどうかの違いだけだし。
悲しみなんてそこらへんにいくらでも転がってる。だから事実さえ覚えていればいいんだ。心は、忘れない。きっかけさえあれば何度でも思い出させてくれる…ただし、今の自分が自分を見失わない程度に加減して。
「行こうか。やっぱりここは寒いよ。円ちゃんも体を冷やしちゃうしな」
「はいはい、なんだかお母さんみたいな言い方だよ、隆史お兄ちゃん」
そうだよ。やっとわかった。俺が忘れていたのは、お互いに気遣い、慈しみ愛する…恋愛じゃない愛の形。家族とかの…いわゆる母性的なやり取りだったんだ。
「さ、久上さんの所へ戻ろう」
そう、俺が感じていたのは母性だったんだ。…傷つき、心を痛めてしまったあの女への。