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三月五日 プロローグ

 見下ろす夜景は、光と闇にどんよりとしていた。


 夜中の十時。コンクリートの建物が杉林のように建ち並ぶ街の、とあるマンションの屋上。


 ここは地上からは遠い。しかし、下界の騒音がすぐ近くのように感じられるまでの耳鳴りに似た煩さがあった。青年の体を浮き上がらせるがごとく、町の喧騒とともに、空に伸びるコンクリートの壁を駆け上がってくる。その風は青年の安物の革ジャンパーをはためかせるだけでなく、春先の冷たさを誘っていた。


「高いな…さすがに。十分過ぎる」


 下界は、まるで消えない花火が夜の湖面に佇んでいるようだった。しかし星空などという高尚な比喩は似合わない。むしろ大量消費のために作られた安物の火薬のような…チカチカして、いかにも体によくないイメージが相応しいだろう。緑や黄色、ピンクなど、ギトギトとしたネオン光が夜に絡み付いている。それらが照らす街々は今も眠らずに、途切れる事のない人車の往来を延々と繰り返していた。


 今年で、そこに立っている青年は十八歳になった。その通り体自体は若々しいが、ボサボサに伸びた髪や無精なヒゲのせいで放浪者の類にも見える。春先の風は寒く、この十五階建て高層ビルの屋上だとなおさら寒い。しかも稀にみる寒気団の影響で、本来なら三月の風の寒さは身を裂くほどではないはずなのに、例年に比べてことさら寒かった。そのせいか青年は呼吸の度に濃い白い息を吐き出していて、寒さは火を見るより明らかである。


 寒さに、見えない何かに青年の体が鷲掴まれる。ここがいい、ここしかない。その場の居たたまれなさ…それは青年の中から発生しているものの、彼はその居心地の悪さに好感を持っていた。


 ジーンズのポケットの中身。


 重量感のある六発式リボルバーが、彼がここにいる理由を代弁してくれるだろう。






 それは衝動に近かった。なぜだろう、と…こうして眼下で死と直面している現在でさえ彼にはわからない。今まで赤だと思っていた物が実は朱だったと告げられたような、幻滅したようなショックに似ていた。今まで持っていた固定観念が砕ける瞬間、ほんのちょっとした事が理由で、自らの命を絶ちたくなったのだった。最近ニュースで賑わせている連続自殺事件の影響かも知れない。それとも、


 昼間。

 桜の散る中、すれ違った高校生達の手の内、卒業の証の入った筒を見たからか。


 この時期…本当なら、青年が高校に通えたなら、卒業式を迎えているはずだった。

 でも青年は、入学金を準備できない時点ですでに諦めていた。

 家がただ貧しいだけならまだ許せた。

 でも全て父親の賭博のせい。

 その時の悔しさと悲しさがフラッシュバックしたのかもしれない。体は大人になったけれども…心はその時止まったまま。大人になりながら子供になった。今でなくとも、本当なら彼はその頃に死んでもよかったとも思っていた。

 だから、風の噂で「安く銃を売ってくれるバーがある」事を聞いた彼は迷う事なくその場所へ足を進めていた。自分の元を同上の目で去っていった友人達を思い出しながら。


「最後、か」


 青年は、ポケットから銃を取り出した。


 ここで自分の、冬見(ふゆみ)隆史(たかし)の人生が終わる。噛みしめるようにそう思うと、彼はこんな人気のない屋上の一角ですら感慨深く感じられた。下界から発せられる光が青年の顔を照らす。その顔は笑いながら泣いている風に見えた。


 黒光りする凹凸は、月光を受けて輪郭をあらわにする。少し傾けると、銃口から引き金まで光が伝う。ほんのりと火薬。隆史は、これがこの世から救ってくれると思うと、その雁がねのようなフォルムに愛らしささえ覚えた。


 改めて、下界を見渡した。


 高層ビルの屋上からの夜景は、彼にとって見慣れないものだった。誰も好き好んで、こんな春先の寒い時期に屋上などに来ない。とにかく、彼は別段普段から、屋上空町を見下ろし眺める趣味はなかった。


 だから彼にとって、そこからの景色は新鮮だった。何もかもがゴミみたいに、コンクリートの森に埋もれている。それを装飾するのはギトギトした粘着質のネオン。誰の罪も、誰の悪意も浮き彫りにしない、塗りつぶした果ての景色。それらが今、彼を魅了して…そしてこの世界へ失望させた。


 誰よりも希望を持ってみたのだ。多少の不幸が何だと、自分を叱咤したのだ。しかし結果的には、そのくだらない努力のおかげで、今彼はこの町にいる誰よりも死に近い場所に立っている。


 隆史は、ここはとても綺麗だった、と心に言い聞かせる。口でも呟いてみる。何度も、何度も、咀嚼するように…涙と同じ味がするまで。せめて最後の記憶くらい、清らかな心を残しておきたかったのだ。母親と、幼なじみの姉代わりに申し訳ないから。


「…さよなら」


 彼は、祈るように目を閉じ、こめかみにゆっくりと銃口を持ち上げ、もう震えない親指で、撃鉄を、押さえ―――、




「何をしてるの?」




「えっ」


 声に振り向いた隆史は、とっさに拳銃を背に隠した。屋上へ入るためのスチール製のドア…その前に立つ人影。声の主は少女だった。この寒いのに、身を包むのは頼りない白のワンピース。だがその薄布は風に微動だにせず、彼女の長い黒髪もまるで風というものを知らないかのごとく、揺らめかない。


 満月を背負った女の子は、夜に透き通るように、そこに居た。


「死ぬの?」


 十六歳近くだろうと思われる少女は、青い瞳で見つめて、言う。感情というものを知らないような視線に、隆史は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。


「悪いかよ」


 隆史は開き直るしかなかった。何て間の悪さ、と心の中で舌打ちをするが、目の前の少女がどうしようと、自分の自殺を止める事はできない距離にいる。そうわかった彼は少女がいようがいまいが関係なく思えた。しかし、できれば一人で死にたかった彼にとって、少女の存在はひどく邪魔だった。


「死ぬの?」


 無感情な…死んだ魚のような瞳で、なおも見つめ続けてくる。焦点だけが合っていて、その他は意味を成していないように。


 …そう。生が感じられなかった。生きているのか、と一瞬疑ってしまうほどに。


「そうだ」


 突き放すように隆史は言った。もう会話はここでおしまいだ、お前はどこかに行けと感情を込めた言葉だった。そして目でも敵意をむき出しにして訴えた。


 しかし少女は相変わらず、微動だにしない。


 夜の喧騒さえも耳に入っていないのではないかと勘違いしてしまいたくなるほど、隆史以外の物には無関心そうな瞳だった。いや、隆史すらも彼女の眼中には入っていないのかもしれない。視界に入ってはいても知覚しなければ、いないも同然だ。


「死にたいの?」


 死にすがりつくだけの隆史にとって、ただ彼女の言葉だけが邪魔だった。


 端的で、簡潔。


 わずか十字にも満たない彼女の一言一言は、魔法のように隆史をこの世に縛っている。


「気味悪いんだよ…どこか、行けよ!」


「怖いの?」


「何が…」


「死ぬ事」


 くっ…と言葉を失う。隆史は、なぜ自分がこんな少女に気圧されているのか不思議でならなかった。ただただ理由のわからない焦りだけが募っていく。


「何なんだよお前…!」


 苦しまぎれに言い返す。それは、追い詰められた獣が噛み付くのに似ていた。


「――――(かすか)


「…はぁ? 何て言った?」


(かすか)。私の名前」


 隆史は、彼女の言葉を無意識に咀嚼するも。


「ふん…勝手にしろ」


 身を少し下界に傾け、撃鉄から離れていた親指を再び乗せる。挑戦的にすがめすらした。隆史は体の向きを変え、少女を視界の端に追いやる。しかしその行為は、隆史自身でも戸惑いを自覚できるほど無様なものになった。なぜなら少女を完全に視界から抹殺することもできず、かといって、心は彼女をまざまざと見つめ返す勇気もない。


 実際、意識とは反対にちらちらと目が少女を捉えようとしている。気になる。同時に何か、噛んでも噛んでも噛みきれない不安や、飲み込んだ所で戻してしまいそうな、喉が焼けるような焦りが、腹の底の砂時計に溜まっていく。かじかんで引き金の人差し指が震えているのも忘れてしまうほどに。


「これで…おさらばだ」


 引けば、終わりだ。そう割り切った隆史はネオンの奈落へと向かい、眼下の景色一色に脳内を染めあげる。気にする必要はないと、何度も不安に塗り重ねる。七色の光と夜の虚空で、黒とも闇ともつかない、わけのわからない焦りを隠してしまえ―――。

 しかし、


「待って」


 少女は続けた。


「死にたいなら、ちゃんとした死に場所をあげる」


「な?」


 言葉を失う。虚勢で、ぼぅ…と蜃気楼のような彼女を睨みつける。


「貴方は、ここでは死ねない」


「何だと…ん、うっ!」


 言い返そうとした時、ものすごい突風が屋上に吹き荒れた。

 意思を持っているかのような流れに、逆巻く。


「つっ…!」


 瞼を持っていってしまいそうなほどの風に思わず目をつぶり。

 目を開けてみれば、


「…嘘だ」


 そこには最初と同じ、屋上。隆史以外誰もいない。


「あいつ、どこへ…行った…っ」


 ここの屋上のドアはスチール製で、閉める時には響くほどの音を伴う。しかし彼女は、ここに現れる時も、そしていなくなる時も、わずかな物音も立てずに消えた。


「そんな…バカな」


 屋上に残ったのは、隆史ただ一人と、右手に持った拳銃だけ。

 背筋に冷や汗が一筋できる。隆史は、ぽかんと開いた口をようやく閉めた。


「何なんだよ…! …おいおいおいおい…!」


 自らの意思で死ぬ事すら、彼女は否定した。

 …興冷めてしまった。

 あんな少女の言葉で揺らぐほど、意志は弱かったのだ。そんな状態で、納得いく自殺ができるはずがない、と隆史は結論した。


「死に場所をあげるだぁ…? 何様のつもりだ、あいつ」


 わけの分からない。貴女が手に持ってるのはおもちゃなんだよと言われたような恥ずかしさ。やり場のない怒りを覚えながら、高い金を出して買った拳銃を下界に投げ捨てる。そのまま夜に吸い込まれて、消えていった。


「…帰るか」


 出鼻をくじかれたのだ。隆史は、その日の自殺を思いとどまるしかなかった。





 ―――― 弾は残り六発 ΦΦΦΦΦΦ ――――


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