3.3話 猿の王国
東京都、港区。名門 躑躅森大学院附属躑躅森初等部(つつじもりだいがくいんふぞくつつじもりしょとうぶ)。
幼稚園から大学院までエレベーター式、初等部だけで千人以上を抱えるマンモス校。この学校の偏差値は近年、驚異の八十以上を記録した。入学するためのハードルは常人の想像をはるかに上回るほど高く、躑躅森という名の栄誉を得るために全国から我こそはと受験に挑む。ある者は敗れ、ある者は辛酸を舐め、またある者はあまりの現実の厳しさに絶望する。そしてほんの、ほんの一握りの人間だけが人魚の肉よりも甘美な女神の祝福を受ける。幼稚園から始まる受験戦争はまさに血を血で洗う地獄の様相を呈していた。
ちょっとしたイレギュラーがあり長くなったが、『これ』がいつものこの学校の風景であり、僕達の辟易する『伝統行事』である。
この『伝統行事』を目撃した他校の凡夫は嘯く。
『メアリー・スー は実在していた』と……。それも三人。
そのメアリー・スー達は、東京の巨大な迷宮を我が物顔で闊歩し、中の迷える怪物達を侍らせていた。
智也が一度唇を上下に動かせば、有象は恐れ慄いた。
優香が気まぐれで髪型を変えると、無象は憧れ、その髪型をたちまち学校内の流行にした。
そしてサファイアが虚空に向かって微笑むと、有象無象はそれを自分に向けられたものだと信じて疑わなかった。
それはまさしく王か神か。僕達にとってはどちらでもいいことだが。しかしながら、僕は申し訳なかった。決して僕の性格が悪い訳じゃない。だが、それでも尚、周りが『猿』のように見えたことが後ろめたかった。でも、この子達を『猿』という名詞で括るしかなかった。
頭の良さだけが取り柄の僕でも必死で言葉を探したんだ。それでも尚、言葉が見つからなかったのだから、しょうがない。
ここはまさしく、猿の王国に他ならなかった。勿論、国王は僕達だが。
王国なら王国らしく法、いわば『ルール』がある。事細かにあるが、大まかに説明するとこうだ。
ひとつ、『国民』は『国王達』の言うことには絶対に従うこと。
これ、一応言っておくが僕達が定めた『ルール』じゃあない。『国民』たちが自分で勝手に決めたものだ。自分から進んで服従の道を選ぶだなんて、さすがの僕でも失笑を禁じ得ない。ちなみにこの『国民』の中には先生方も含まれている。
ふたつ、先生方は僕達の『行政』に一切口出ししないこと。
これは僕達がきめた『ルール』だ。
学校の中で生徒が幅をきかせているだなんて、最初は当然先生方の一部が黙っていなかった。
無論、その中には『お利口』な先生もいた。僕達に反抗したらどんなことが待っているのか、直感的に予想できたんだろう。
最初はうるさかった先生も、智也が睨みを利かせてくれたおかげで今ではすっかりおとなしい。
ある日、智也がいきなり教室の席の並びを変えた。先生含め、その場にいた子達みんな目を丸くしていたことを覚えている。
智也曰く、「バカが感染る」とのことだった。最初は「そんなひどいこと言わなくてもいいのに」と思ったものだが、席の並びを変え、教室の後ろで僕達三人がみんなから離れて集まっているのはかなり居心地が良かったし、授業にも集中できた。
というわけで、この学校には絶対に破ってはならない不文律がある——。
閑話休題。
校舎五階、巨大な倉庫が立ち並ぶ校舎の一角、ここまでくるとさっきまでの猿叫も嘘のように静かになる。
長い廊下を歩きながら、いつもの位置にあるはずの看板を探していた。一つ寂しくポツリとあるはずの看板。
あった。『初等部五年特別進学クラス』
通称、『五特進』
五年生だけでも二百名以上いる中、十人の天才だけが入ることが許される禁断の花園。
その看板の下の扉をガラリと開け、まだ誰もいない教室にずかずかと入る。
ふと壁に掲げられたコルクボードを見遣る。そこには『五特進抜き打ちテスト結果一覧』と書かれた紙が貼り付けてあった。
『五特進』では、たびたび国数英理社の五教科最高五百点で抜き打ちテストが実施される。
僕達三人の専らの楽しみは、退屈な授業の合間に行われるテスト……とも呼べないような程よい『暇潰し』で三人の点数の多寡を競うことだ。これは僕達三人だけで鎬を削る、狭い世界だからこその楽しいゲームだった。
ところでクラスの人数は十人なのに、なぜ『三人だけのゲーム』なのか。それは……
「やった、あ、違う。一点逃した。」
優香が喜びと悔しさの混じった不思議な声を出した。
「百、百、百、九十九、百。合計四百九十九 。惜しい〜! あと少しだったのにぃ! ケアレスミスかなぁ。」
「僕は四百九十八。智也は?」
「……四百九十六。クソッ。」
その言葉を聞いて優香はあからさまに声色を高くする。
「アハッ アハハッ! やっぱり今回も私の勝ちね! ねぇ智也くぅ〜ん。前回『次は優香がドベで決定だから』とか威勢のいいこと言っていたよねぇ? ねぇ? 言っていましたよねぇ〜?」
わかりやすく煽る優香。今度は智也が顔を赤くした。
「ッるせぇぞ優香ァ! テメェこそ何が『あと少しだったのにぃ!』だ! さっき小声で『やった』って言ってたの聞き逃してねぇからな!」
「あ、あれは……。」
優香が口ごもった表情を見て勝ちを確信した智也は口撃をやめない。
「どォ〜せ口では悔しいって言いながら内心『やった! 今回もなんとか勝てたぁ!』とか思ってんだろーが。違うかぁ?」
智也の言葉は図星だったようで、優香は急に子供じみた態度になった。
「う……ッ! うるさい、うるさい! 智也のくせに生意気!」
「ハァ〜?おいサファイアァ! 優香が珍しく弱点を見せたぞ! お前もなんか言ってやれ!」
こういう時いきなり智也はこっちに話題を振ってくるから困る。
「五百点。」
「……は?」
「優香は四百九十九点。五百点満点さえ取っていれば、智也は優香に勝ってた。だからこれは五百点を取れなかった智也の負け。」
その言葉を聞いて優香の表情がまたパッと明るくなる。
「ほらぁ! サファイアもこう言っているじゃない! はい! 智也の負け〜! 残念でしたぁ!」
「ハァ〜!?サファイアてめぇ裏切りやがったな!」
「別に智也の味方になったことなんて一度もないよ。」
「な……! な……!」
智也は言葉を震わせさらに顔を赤くする。
「素直に負けを認めなさいよぉ〜。智也ぁ〜。」
「だああ! うるせえうるせえ!」
優香が煽り、智也が反抗する。いつもの光景。
そんな光景を尻目に、僕は再度抜き打ちテスト結果一覧を見た。
一位、優香。
二位、僕。
三位、智也。
ここまではいい、ここまではいいんだ。
ここまではいつもの光景。この並び順は当たり前。
だが、紙の一番下部を見る。そこにはクラス十人全員の『平均合計点数』が書かれていた。
平均合計点数、二百十九・三点。
もう一度言う。
『平均合計点数』、二百十九・三点。
僕達三人が頑張ってほぼ五百点を取って平均点を引き上げたのにも関わらず、だ。
僕達の点数を抜きにして、単純計算で残り七人の平均合計点数は百点。一教科あたりたったの二十点しか取れていないことになる。
……別に他七人がバカなわけじゃない。そんなこと思ってもいない。ちゃんと彼らは彼らなりに頭はいいのだろう。こんな学校、在籍しているだけでも国民栄誉賞ものなのに、その中のさらに最奥部の椅子に腰掛けて授業を受け、内容を齟齬なく理解出来るくらいなのだから。
でも解けない。何故。
答えは簡単、ただ、テストが難しすぎるんだ。それはもう『暴力的』と言っていいほどに。
難解な指示文、いやらしすぎるひっかけ、短すぎる解答時間。こんなの序の口。実際のテストに書かれてる悪辣を口に出したら枚挙にいとまが無い。
滅茶苦茶。このテストを形容するならこの言葉が適切だろう。
こんなものを作った人は相当性根がひん曲がっているな、とテストを受けるたびに思う。
たった二十点しか取れない彼らにも結構同情しているんだ。僕。
だが、だがしかしだ。
解けるのだ。
テストの作成者がどれだけ理不尽な内容のテストを作ろうとしても、解けちゃうんだ。僕ら。
ふふ……うふふ……いやぁ、いやね! さっきも思ったけど申し訳ないとは思ってるんだよ。ほんとにさ。
でもさあ! 失笑を禁じ得ないんだよ! マジメ腐った大の大人がうんうん言って夜を更かしながら考えた問題だって、僕達の手にかかればなあんてことはない。一撃さ。
しかもそんな簡単な問題を他の七人は半ベソをかきながら解いても点数は半分にも満たない!
そんな奴らが集まったこの教室が? 国中からせっせと集めた金の卵達の中のさらにエリートが?
入ることができる? 禁断の花園ォ? ちゃんちゃら笑えるね! バカみたいだよ! ほんとにさぁ!
そのうえさらにどんなに頑張っても超えられない壁の向こうにいる僕らを下の生徒達からは崇拝され? 神輿に担ぎ上げられる? 小うるさい先生達も僕達の指先で意のまま?
どんなに! どんなに性格のいい聖人君子でも優越感で頭がおかしくなっちゃうよ! こんなの!
ふふ……んふふふ……! だめだ……。まだ笑うな…… 。僕は四百九十八点。僕より成績が上の優香でさえ四百九十九点。
まだ、まだだ。僕達はまだ上に行ける。下なんか見ていられない。僕達は『三人』で上にいかせてもらう。
ごめんなさい。本当に心の底から謝るからどうか許してほしい。僕はもう耐えられそうにない。
やっぱり君たちは『猿』だ。どいつもこいつも、みぃんな『猿』。
でも面と向かって『猿』と言うだなんて流石に可哀想だから、今だけはまだこの王国の『国民』でいさせてあげる。
だからせめて、その時まで、その時が来るまで、どうか愚かなままでいてください。これは『国王』たってのお願い。
今まで、自分はそれなりに性格がいい子であったつもりだけど、どうやらこの学校は人の本性をむき出しにさせるらしい。正直、自分自身の意地の悪さには呆れるね。でもいいよね。だって僕達は、『国王』なのだから。
「…………イア? サファ……ア? おーい、サファイア!」
はっと目が覚めたように体をびくりとさせる。
「どうしたの? どこか具合が悪いの?」
優香が猫のような顔をしてこちらを伺う。
「なぁんだよお前、ニヤニヤしやがって。気持ち悪りぃ。」
智也も驚いた顔をして僕を心配している。
「……ううん、考え事してただけ。大丈夫だよ。ありがとね。」
「そんなこと言って、なァんか良からぬことでも企んでんじゃあねえのかぁ。お前、いい子ちゃんぶってるけどその実、結構腹黒だってこと知ってんだからなぁ。」
智也のそのセリフに少々どきりとさせられる。
全く。智也はこういう時に限って核心をつくから油断できない。
「もうっ。そんなことないよぉ。」
頬をぷくりと膨らませ、精一杯の嘘をつく。
その顔を見て、智也も、優香も笑い出した。
つられて僕も笑ってしまう。この時僕は、さっきのような野卑な失笑ではない、小学五年生らしい純粋な笑いを浮かべられた。
あれ、僕、確か目的があって学校に来てたはず。僕が朝考えていたこと、なんだったっけ。
そうだ、あの男性だ。僕は確かあの人に夢中になっていて……
ううん、いいや。今ばっかりは。
あの男性はいなくても、二人がいる。
三人でいれば僕は無敵だ。
今はまだ、この二人といられる時間を大切にしたい。
どうせあの男性の家に行くのは明日だ。
明日のことは、明日考えよう。
そうして猿の王国の首魁達は、まだ誰も来ていない教室で笑い合っていた——