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Bathtub mermaid〜浴槽の人魚〜  作者: うしとらよう
第一部
2/5

2話 スパイス、とは?

「お話……ですか……?」

謎の男性からの突拍子もない提案に思わず首を傾げる僕。

「そう。お話」

男性はさらに続ける。

「一人寂しくなった時の最高のスパイスは人との会話だよ。サファイアくん。君は……僕の最高のスパイスになってくれるかい?」

薄明るい月明かりに照らされた男性は、軽く笑いながら体を横に揺らす。それに呼応してバスタブの水もちゃぷり、ちゃぷりと音を立てる。

引き込まれる。まるで海の大渦のように。僕はこの人に夢中になる、止まらないんだ。

「スパイス、ですか?」

僕の脈はさらに激しくなる。真っ暗な浴室、じっとこちらの目を見つめてくるグレーの瞳、薄く照らされる彼の生白い肌、何から何まで怪しすぎる。なのに……

そうだ、宿題だ。

「こっ、この宿題の答え、わかるんですか?」

恐る恐る男性に聞いてみる。

すると男性はにこりと笑い、首を縦に振った。

「じゃあここ、ここの問題、ぼく、わかんないんです。解いてください。お願いします。」

大嘘。本当はこんな問題、そこらへんの花を摘み取るより簡単だ。ここで一つ、この男性を試してみよう。そう思い、ランドセルの宿題を手渡した。

「うん、どれどれ。うわあ、微分法の応用だね。やっぱり難しい問題を解いているんだね、すごいなあ」

そう言いながらも男性はスラスラと問題を解き始めた。やはりこの男性、相当高度な教育を受けている。

「はい、答え。人の宿題やるのって、ほんとはいけないことなんだけどね。さぁ、交換条件だよ。お話しよ?」

やはり話はここに帰結する、か……。だが、俄然興味が湧いてきた。

スパイスか。いいだろう、なってやろうじゃないか。そう自分の心を決め、次の言葉を絞り出そうとした瞬間、智也が僕の肩を叩いた。大方いつまで経っても窓から離れない僕に痺れを切らしたのだろう。

「何やってんだよサファイア! つーか誰だよこの男! 知り合いか!?」

智也は知らない男を警戒したのか矢継ぎ早に質問してくる。

「あんたたち!人ん家の窓なんか覗いてほんとただじゃ……きゃあ!」

優香は窓に集まる僕らを見て駆け寄ってきたが、いきなり可愛らしい声を出した。何事かと思ったが、すぐに合点がいった。

おそらく初めての体験だったのだろう。この位置からじゃ下半身は見えないとはいえ、男の裸を見るのは。こいつも小五の思春期だもんな。

声を荒げる二人を意に返さず、男性は言葉を続ける。

「次々と可愛らしい子が来てくれて嬉しいねえ。お兄さん、話し相手がたくさんいて困っちゃうなあ」

そう言って妖艶に笑うこの男性を、二人はどう捉えたのだろう。智也はこの男を睨みつけ、優香は足を小さく震わせている。

「話し相手……え……?サファイア、あんたこの人と何してるの……?」

優香はさっきまでの勢いも萎え、すっかりこの男性に怯え切っている。

「君は……『ゆうか』ちゃんだっけ?そして君は『ともや』……聞こえていたよ。いい名前だね」

そして男性は続ける。

「お話、しよ?」

壊れたレコードのように同じ言葉を続ける男性。何故、僕たちとの『お話』にこだわるのかが理解できない。

「名前がなんだってんだ!?あんたの趣味には付き合っている暇はない、俺とサファイアは忙しいんだ!勝手に覗いて悪かったな!おい、帰るぞ!」


智也は血相を変えて僕を逃げるように促す。

優香もコクコクと頷くばかりだ。

しかし僕は違った。この人の言う『お話』とやらに興味が出てきてしまったのだ。

僕はなんとかこの人と話を続ける方法を探す。

「でも……智也、この人、僕たちの宿題の答えを知ってるんだよ。この人と仲良くなれれば、きっと勉強で苦労なんかしなくなるよ」

自分でも呆れるほどの苦しい言い訳。だが、それでも話がしたいほど僕はこの人に夢中になってしまったのだ。

「はあ!? 宿題!? そんなもんに苦労するほど俺たち頭悪くなかっただろ!? サファイアお前、馬鹿になったのか!?」

優香も焦ったように続ける。

「そ、そうよ! この人には悪いけど早く帰りましょ!」

その言葉を聞いた男性は寂しそうに呟いた。

「お話、できないの?」

「あ、当たり前だバカ! お前と話なんかするか! いくぞ!」

智也は声を荒げて男性を口撃する。

そしてついに僕は智也に手を取られて窓から引き離されてしまった。

窓から離れゆく最中で後ろを振り返ると、男性は寂しそうにこちらに向かって手を振っていた。

住宅街を通り、息を切らして近くの雑木林を抜け、糊でぴんと張った制服を葉っぱだらけにしながら走り抜ける。

開けた道路に出て、僕たちは立ち止まった。

「ハアッ……スウゥ……ハア…………あんた……ほんっとバカじゃないの!? あんな不審者に捕まってんじゃないわよ! すっごく心配したんだからね!」

優香が僕を叱責する。

智也も当然僕を非難する

「サファイアお前……ほんとお前マジで……危なかったんだぞ……ゼエ……ほんと……マジでさぁ……」

智也は文武両道スーパーガールの優香と違ってあまり運動してないのでまだ息を切らしている。

「ほんと……怖かったあ……」

優香はぺたりとその場に座り込む。

「そんな怖がんなくてもよかったのに……もっと話したかったなあ」

僕が呟くと、智也は堰を切ったように言葉を並べた。

「はあ!?あんなのどう見たってヤバい男だっただろ!ほんとにお前馬鹿になっちまったのか!?お前あの後家の中に連れ込まれても文句言えなかったんだぞ!」

確かに、正論だとは思う。あの男性は何かおかしかった。だが……

「でもあの人、もっと話したがってたのになあ」

「お前、ほんと……いい加減にしろよ!? どんだけ心配したと思って……」

「智也もういいわ! やめて!」

怒る智也に対して優香が口を挟む。

「サファイアなんか知らない! 勝手にあの男に連れ込まれて犯罪にでも巻き込まれればいいのよ! このバカ!」

そう言って優香はずんずんと一人で歩き、去ってしまった。

「……まあ、優香の言うこともわかるだろ? 今日は大変だったな。おやすみサファイア。俺も帰るわ」

ため息まじりに智也も背を向けて歩き出し、僕はついに一人取り残されてしまった。

戻ってもう一度あの男性と話をしようと考えたが、家も近いことだし今日はもう帰ることにした。

ランドセルの肩掛けを握り、一人ポツリ、歩く。

時々後ろを振り返ってみたが、そこには薄暗い静寂が残されていただけだった。

暫くすると、普段目につく住宅街とはかけ離れた造りの家が立ち並ぶ道へ入っていった。そしてその中のさらにことさら大きく、無意味な虚飾を纏った家が目にはいった。

「ただいま…」

体についた葉っぱを払いその家の玄関を開けながら、すでに形骸化した挨拶を口に出す。

返事はない。別に気にしてない、いつものことだ。

給料だけもらえれば満足するような奴らが集まる職についた親が買った、でかいだけで管理のなってないこの家も、無駄に高尚な壁掛けの絵画も、来客用のテーブルに置いた『温めて食べてください』の置き手紙も、気にしてない。別に、気にしてない。

あんなことがあった夜だ。食欲もろくに湧きやしない。

僕の胃袋はテーブルの上の冷めた料理に興味を示さない。そのまま素通りし、僕は二階にある自分の部屋に足を運んだ。

重たいランドセルを運び、部屋の前の横の壁を見やった瞬間、僕は深いため息をついた。

口に出さず頭の中で、「またか」とぼやく。なぜならまた増えているからだ。文章が。

扉の横、大きく掲られたホワイトボードの上部には『お母さんの提案文掲示板』と書いてある。

内心で僕はこれを『お母様の言うとおり』と呼んでいる。我ながらいいネーミングセンスだ。なぜって、このボードには提案文という名の小うるさい命令が事細かに書かれているから。

『塾から帰った後は寄り道しないで帰ることお小遣いを無駄に使ったらいけません家に帰ったらすぐ勉強しなさいロックミュージックは頭が悪くなるから聞いちゃダメお母さんや先生みたいな大人の言うことは絶対ですお母さんの手を煩わせないこと—————』

うるさいうるさいうるさい。こんなの見ていたら気が狂いそうになる。

所狭しと書かれている気色の悪い文から目を背けて扉を開けようとすると、ホワイトボードの縁に付箋紙が追加されていることに気がついた。

そこに書かれている文字を見て悪寒が走る。

『さっさと成績で優香ちゃんを追い抜きなさい。あと智也くんの家と関わったらいけないと何度言ったらわかるの』

頭の中を嫌悪感と絶望感が埋め尽くす。

我が家の神様はついに僕の交友関係にまで掲示板に書きやがったのだ。

大きな音をたて扉を開けランドセルを虚空に投げ、顔を枕に埋める。

枕に染み付いた自分の匂いを嗅ぎながら、今日の出来事を追想し、ある確信に至る。

あの男性。きっとあの男性だ。僕を憂鬱の海から掬い上げてくれるのは。

根拠はない。そう思いたいだけなのかもしれない。だが……僕は……僕は…………そう、まるであの人に恋をしてしまったかのようだ。何も考えられない。

そうだ計画を考えよう。僕は体を起こし、カレンダーを見る。

明日、学校はある。塾も。だから明日は行けないが日曜日の明後日なら……またあの家に行こうと思えば行ける。あの家が魔法のように消えていなければだが……。

しかし……それでも行けそうにない。大切な友人二人に心配をかけるし、母親の目を掻い潜って無駄な外出ができない。そういう決まりになっている。

半ば心の中で諦めつつ、今日高場先生から出された課題をやろうとした。

やはり隙間時間を見つけて課題こなさないと、進学校の生徒は苦しい思いをする。

ほとほと疲れつつランドセルを漁る。

課題、課題……あれ。

無い。

どこにやった? 焦燥感が募る。もし課題が提出期限に遅れたら……それにこんなことでさらに成績を落としたら母親から何をされるかわからない。

今度は頭をフルに回転させる。刹那。

「あ。」

素っ頓狂な声が出た。

一つ思い当たる場所がある。

そういえばあの男性と話す時に課題の紙を渡したままだった。

僕の課題は今、あの男性が持っている……。

取りに行かなきゃ。明後日。

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