1話 浴槽の人魚
『呪い』に抗え
今日の朝の天気予報、でたらめ言ってやがったな……何が「今日の都内は全体的に涼しくなる」だ。
もう日は沈み切ったっていうのに、まだ炎天下の名残が感じられる。
薄暗い路地。塾を出た後の帰り道を飛び交う言葉のすきまを縫いながら歩いていた。
「高場のやつ、ぜってえこの間の当て付けだよな。これ」
智也は額の汗を拭いながらぼやく。
「まだ小学5年に上がったばっかだってのにこんな難しい数学問題出してくんなよな」
学校からの帰り道、薄明るいお月様ははちょっと素行が悪かった僕と智也をさらさら許す気は無いらしい。
この間は智也の癇癪の仲裁に入っただけじゃないか。それをこんな量の補修課題を追加して嫌がらせする高場先生はナンセンスだ。
ブツクサいう智也に対して嬉々として優香は言葉を返す。
「ハア〜?あんたこんな問題もわかんないの〜?やっぱ日々機械のご機嫌とりに勤しんでいるオタクくんにはうちの進学校はあってないんじゃな〜い?」
「う、うるさい!それとこれとは関係ないだろブス!そんな性格してるから失恋してんだよ!なあ!?サファイア!?」
「だから髪を切ったことを勝手に失恋したことに結びつけないでくれる!?そもそも失恋なんてしてないし!そういう自分勝手な妄想を結び付けるからオタクはキモいのよ!そう思うでしょ!?サファイア!?」
サファイア、サファイア、うるさいなあ。僕の名前。親は周囲の反対を押し切ってまで名づけたというのに当の息子はこの名前を気に入ってないらしい。気の毒でならないね。
というか二人ともそんなに顔を近づけないでほしいな……暑苦しい……ただでさえ最近は猛暑が続いているっていうのに……
「まあ二人とも……喧嘩は良くないよ……」
妙に圧迫感のある二人に気圧されて女々しい声しか出せない自分が情けない。
若干引き気味の僕を見て優香はぷいとそっぽを向きオタクキモッと小声で連呼し、
智也は無言で優香を睨みつけていた。
そして僕たちは閑静な住宅街に入っていく。
「……まあこの数学問題は歩きながら解いていこうよ。家に着くまでにはいくらか解けてるでしょ…自信ないけど…まあこんな難しい問題が歩きながら解けたら神様とチェスで引き分けに持ち込めるほど頭がいいって事になるね」
…せっかく長い沈黙を破り僕が精一杯のジョークを挟んだのに無視しないでほしいな。
時々こういったくだらない諧謔を差し込むのも僕の悪い癖だけどさ。
そうして難解な命令文の羅列を口に出してみる。
瞬間——、ある違和感が視界を掠めた。
……ここにこんな形の窓がついた家あったっけ?
小学一年生の時から幾千回も通った帰り道、こんな窓見たことがない。いや、見た「記憶」がない。
「ここの家は最近できたばかりらしいぜ」
違和感に取り憑かれ固まっている僕を見て友也が言った。
「あんたたち何してんのよ。さっさと行くわよ」
優香が急かす。
だが、気になる。あの窓が。
その時、強烈な知的好奇心が僕の頭を襲った。
いや待て、ダメだろ、「ソレ」はいくらなんでも——
「覗いてみようぜ。気になるならな」
僕の心中を察したかのように智也が言葉を投げかける。
その言葉に背中を押されたかのように僕は窓に向かって進んでいく。
後ろで優香が何か喚いていたが構わずに窓に向かって進んでいく。その姿を智也は野次馬のように眺めているだけだった。
窓の桟に手をかけ、背伸びをして中を盗み見ようとする。
もう辺りは暗いというのに明かりは付いていない。
耳を近付けると、微かに水音が聞こえてくる。
そして、途切れ途切れの美声。まるで歌声だ。
もしかしてこの窓の先はお風呂か?しかも人がいる。
よく聴こえないがこの歌声は女性っぽい。そうなるとこれってまずいんじゃないか?
一瞬脳内で逡巡する。もしこの先にいるのが女の人だったら、しかも風呂場を覗くなんていくら小学生でもやっていいことじゃない。
しかもうちの学校は進学校。学校にバレたら進路に確実に響いてくる、し、何より母親が怖い。
急に頭の中は社会的地位を失う怖さでいっぱいになって、さっきまでの知的好奇心はすっかりどこかに飛んでいった。
だが嬉しいことに、窓にはブラインドが掛かっていて中の様子はわからなかった。
何も見られなかったことだし、早く窓から離れよう。そう思った瞬間、窓の奥でガラガラと扉の開く音が聞こえた。
続いて足音。おそらく風呂場から誰か出ていったのだろう。
安堵感。これなら僕の覗きは問題視されない。だって何も見てないのだから。
「なんか見られたかよお?グラビア写真の一つでも見つけたかあ?」
智也が茶々を入れてくる。
続いて喋るのは当然優香だ。
「何やってんのよサファイア!ほら智也、あんたも見てないで止めなさい!」
「へーい。おーいサファイアぁ。さっさと降りてこーい。」
「うん。今行く。」
この窓の奇妙な魔力から逃げたかった僕はそう言って後ろを振り向こうとした。
だが、視線は張り付いたように窓から動かなかった。
ブラインドの隙間から目玉が二つあったからだ。
覗かれていたのは「こちら側」だった。
背中に冷たいものが走り、体は一変、逃げ出す体勢に移る。
その時。
「待って。」
「行かないで。」
待てと言われて待つやつなんかいない。窓の向こうの人には悪いが先に行かせてもらう。
その時、
「頂点の座標(1,2)軸;直線x=1」
その言葉に僕は固まった。なぜなら…
「二次関数の解答だよ。さっき君たちの会話が聞こえたから…あってるでしょ?」
急いでランドセルの中を見る。ファイルから少し飛び出た紙を取り出し、グチャグチャに紙の淵が曲がった宿題を広げる。
あっている。確かに。
窓のブラインドの隙間を再度直視する。
その男性はゆっくり喋りながらブラインドと窓を開ける。
「こんにちは。よくここの道を通っている子だよね?小学生なのに難しい問題解いててすごいねえ。」
バスタブに浸かりながら窓に肘をかけ話しかけてくるその男性は、妙に脳髄に響いてくる声を出す人だった。
脳髄に響く、と言っても、それは自分の頭に甘く心地のいい残響を残す声だった。
長い前髪を顔に張り付かせて、風呂場特有の匂いがするその男性はにこりと笑う。
「ねえサファイア!何やってんのよ!早く降りてきなさい!」
優香がそう言うが、僕はこの男性から離れられない。離してくれない。
「サファイアっていうの?いい名前だねえ、おしゃれだよ。今時って感じでさ」
一呼吸置いて男性は続ける。
「お話、しよ?」
その時すでに僕はこの男性から離れられない感じがしていた。というより、逃げられない感じとでも言おうか。
僕はこの時にはもう手遅れだったのかもしれない。きっと、いや——
その日は頬にかすかに潮風を感じる日だった。