暮れゆく空の下で
『丘の上食堂の看板娘』の番外編ですが、本編を読んでいなくても大丈夫です。
少し手直ししました。ので、ついでに後書きネタを足しました。詳細は後書きに書きますね。
いつまでも一緒だと思っていた。
いつまでも続くのだと思っていた。
あなたと私。そしてそのうち家族が増えて。
この町で、ずっと幸せに生きていけると思っていた。
あなたはいってきますと家を出て。
あなたはただいまと帰ってきて。
毎日毎日当たり前に、それが繰り返されるのだと思っていた。
そう信じて疑わなかった。
それなのに。
あなたは私をひとり残して逝ってしまった。
私しか残さずに逝ってしまった。
今もまだ。私の心に。私の記憶に。
あなたといた日々は残っているけれど。
あまりにもあなたといた日々は遠くて。
あまりにも残された日々は長くて。
少し、辛い。
その日私は師匠のおつかいで馴染みの木工細工店に立ち寄った。顔見知りの販売員の人が奥にいますよと教えてくれる。
「ああ、ミア。ちょっと待ってくれるかな」
奥にいた店主のネウロスさん。そう言ってさらに奥にある工房に入っていった。
待ってる間にここの商品を見るのがとても楽しみで。多分ネウロスさんもそれを知ってて、いつも少しゆっくりめに用意してくれる。
自分じゃ手の出ない、ちょっと値の張る細工家具。
繊細さでは師匠の金物細工も負けてないと思うんだけど、木工細工にはやっぱり独特の温かみがあって。不思議と和む。
ほかではあまり見ないガラスで作った絵窓の棚を眺めていると、奥に透かし彫りの絵が掛かっているのに気付いた。
一枚板に彫りで描かれるのは長閑な町の風景。丘を望む目線の奥、空にだけガラスがはめられてて。
夕焼けから夕闇に落ちる直前の、淡い紫。
そんな色だった。
景色も彫りも素敵だけれど、何よりもその色に惹かれて。
立ち尽くして、眺めていた。
「その絵、いいよね」
いつの間にかうしろに来ていたネウロスさんに声をかけられる。
「はい」
絵を見たまま答えると、弟子の作品、と笑った声がする。
「故郷の景色、だって」
「……景色も、色も、素敵です」
本当に、綺麗な色。
少し物寂しく感じるのは、やっぱり夜に向かう空の印象からかもしれない。
「普段、この色は作ってくれないんだけど。この景色になら、って」
「そうなんですね…」
少しうわの空で、私はネウロスさんの言葉を聞いていた。
ネウロスさんから師匠への荷物を預かって。
おつかいを終えて、仕事も終えて。
家に帰る途中、ふと空を見上げる。
あの色にはまだ早い、茜色。
あのガラスを作った人は、空の色を映したかったのかな。
そんなことを少し思った。
家に帰ってからもあの色が頭から離れなくて。
金物細工だったら。私だったら。
あの空の色をどう活かせるだろう?
気がつくと何枚も図案を描いていた。
そこから何日もかけて詰めて、できた図案を師匠に見せた。
「珍しいな、ミアが実用品以外を作りたがるなんて」
からかうようにそう言われる。
金物細工が本職の師匠。
細工も教わってはいるけれど、いつまでも新弟子のように実用品ばかり作る私を、それでも置いてくれている。
細工は好き。
見るのも、本当は作るのも。
でも同時に、細工にはどうしても私の心が映るから。
だから怖かった。
真剣に見てくれた師匠が、笑って図案を返してくれる。
「やりたいなら作りな」
「はい!」
師匠の了承がもらえたから、次は材料。
次のお休み、ネウロスさんにガラスの製作者を聞きに行かないと。
ネウロスさんにガラスの製作者を紹介してもらえるように頼むと、申し訳なさそうな顔をされた。
「私もずっと頼んでるんだけど。作ってくれないんだよ」
そういえばあのときそんなことを言っていたっけ。
「でも、あの色じゃないと作る意味がないんです」
あの紫色だからこそ、私は細工を作りたいと思ったのに。
ほかの色じゃ代用できない。
師匠とも仲のいいネウロスさんは、多分私が細工を作りたがらないことを聞いている。
だからきっと、こんなに困った顔をするんだろう。
「工房を紹介することはできないけど。私から本人に話はしてみるよ」
謝りながらそう言ってくれた。
いい返事をもらえたら連絡するよと言われたけど、待てど暮らせどネウロスさんから連絡はなくて。
師匠のおつかいで店を訪れたときも、ただごめんねと謝られる。
そのうち私のほうが申し訳なくなって。
残念だけどもう取り下げようと思って、ネウロスさんの店に行った。
店に入ると、ネウロスさんは来客中だと言われたから。いつものように店内を見せてもらいながら待っていた。
あの絵はまだ飾ってあって。
わたしはまたそれを見ていた。
どうしてこんなにこの色に惹かれるのか、私にもよくわからなくて。
細工を作れたら、少しは見えてくるのかもしれないけど。もうそれも望めない。
暮れゆく景色と沈む気持ちが重なって、妙に切なくなりながら、見たこともない町の空を見ていた。
どれくらい見ていたのか。
「それ。気に入ったの?」
不意に声をかけられて、私は驚いて振り返る。
人懐こい笑みを浮かべてこちらを見る赤茶の髪の青年が、そこにいた。
「その絵。気に入った?」
中性的で整った顔立ちのその青年は、綺麗な翡翠の瞳を細めてもう一度聞いてきた。
「絵…というか…色が……」
何となく目が離せずに彼を見たまま答えると、途端に彼はがっかりした顔になった。
「何だ。そっちか…」
つまらなさそうに呟いた声に耳を疑う。
こんな綺麗な色を前に、何だ、って何??
「待たせたね」
思わず食ってかかりそうになった私を、ネウロスさんの言葉が止めた。
ネウロスさんは私と青年を見比べて、ちょうどよかった、と言う。
「ロイ坊。この人がミアだよ」
「ロイ坊やめてってば…」
ふてくされて返しながら、何が何だかわからないままの私ににっこりと笑う青年。
「悪いけど、諦めてくれる?」
「え?」
青年からネウロスさんに視線を移すと、困ったように苦笑されて。
「ロイ坊はそのガラスを作った職人だよ」
「二度と作るつもりはないけどね」
もう、声も出なかった。
何あの男!!!
怒りに任せて早足で歩く。
あのあと、そういうわけだから、とニヤっと笑って。じゃあねぇ、と出ていった。
ホントに何なの?
アレがあんな綺麗な色を作ったっていうの??
信じられない!
とてもじゃないけど信じられない、けど。
もし、本当なら。どうして二度と作るつもりはないなんて言うんだろう?
ネウロスさんには作らないのに、どうしてあの絵には作ったんだろう?
どうして自分の作った色じゃなくて、あの絵を気に入ったのか聞いたんだろう?
自然と足が緩む。
ほんっとムカつく男だったけど。
何故だか気になった。
それから。
あの男が作っているのはわかったんだから、癪だけど探し出して頼むべきか。
それともどうせ一度諦めようと思ったんだし、もう忘れることにするか。
悩んで、悩んで。
どうして私はあの色でなら細工を作りたいんだろう?
からっぽな心が映るのが怖くて、師匠の課題でしか細工を作らないのに。どうしてこんなに作りたいんだろう?
いくら考えてもどっちの答えも出なくて。
何か掴めるかもしれないと思って、あの絵を見せてもらいに行くことにした。
絵を前に、考える。
初めてこの絵を見たとき、とてもこの色が気になった。
夕焼けと夕闇の間の、ほんの束の間の空の色。
特にこの色の空に思い出があるわけでもないのに、どうしてこんなに惹かれるんだろう。
吸い込まれそうというよりも、沈み込んでいきそうな空の色。
茜色の夕焼けから、夜の闇に落ちる、狭間の色。
「また見てるの?」
聞き覚えのある声に、振り返ろうか少し悩む。
「悪い?」
結局振り返らずにそのまま答えた。
「諦めるか諦めないか、決めに来たの」
「諦めてって言ったのに」
少し低くなった声音に苛立ちが混ざるけど。
「あなたが決めることじゃない。私が決めることよ」
そっちに決断を譲るつもりはない。
それ以上は何も言ってこなかったから、私もしばらく黙っていた。
何故かそいつも動こうとしないまま、ふたりで絵の前に立っていた。
息をついて振り返る。
何でずっと人のうしろに突っ立ってるんだか。
「ちょっと質問に答えてくれる?」
本人がここにいるならこの際聞いてやろうと思ってそう言うと、どうにもきょとんとした顔を返してくる。
「質問って?」
「私はともかく。どうしてネウロスさんにまであの色を作らないの?」
何度も頼んでるとネウロスさんは言っていた。話す様子からしてもただの仕事付き合いだけじゃないことがわかる。
なのに、どうして?
そいつは相変わらずどこか驚いたような顔をしながら私を見返して。
それからゆっくり、視線を落とした。
「…捧げる相手が決まってた、特別な色だから」
呟く声は届かぬ願いを祈るようで。
この前私に向けたものとは全然違ってた。
その変わりように少し動揺しながら、続けてもうひとつ聞く。
「じゃあどうしてこの絵には?」
そいつはふっと思い出したように表情を緩め、絵を見上げた。
「……俺にとってこの景色は、その人と同じ意味だから」
その眼差しの先にあるのは、景色ではなくその人で。大切そうに、それでいてどこか辛そうに、翡翠の瞳を細めるその姿に。
―――ああ。この人は同じなんだ。
唐突にそう理解する。
もう傍にはいられない人を、それでもずっと覚えていたくて。
零れていかないように、大事に大事に胸にしまい込んで。
そのままずっと、生きていけると信じている。
かつての私と同じなんだ。
だからその人の為の色をほかに使うと、自分の中のその人が薄れていってしまうとでも思っているのかもしれない。
…そんなことをしなくても。
いつかは失ってしまうのに。
「わかった。もう諦める。無理言ってごめんね」
息を吐いてそう告げると、少し鼻で笑われる。
「あっさり引くんだね?」
「ごねても答えは同じでしょう?」
その程度の熱意だったのかと思われてるのはわかったけど。気持ちがわかるなんて言えなかった。
切り替えるように嘆息したそいつは、初対面のときと同じ、どこか人を喰ったような眼差しを向けてくる。
「違う紫なら作ってあげるけど?」
「いい。あの色じゃないと多分意味がないもの」
即答すると怪訝そうな顔を向けられるけど、そうとしか言いようがない。
「どうして?」
そのままの顔で聞かれる。
そんなの。私だって知りたい。
「…わからないから、作りたかったのよ」
どうしてあの色に惹かれるのか。
どうしてあの色を使って作りたいと思うのか。
私自身、わからないから。
「……作ればきっと、見えるものがあると思ったから」
細工は心を映すから。
出来上がれば、私の心は映されているはずだから。
「…だから、作りたかった」
聞かれて答えただけだけど、何だか私自身も気持ちに整理がついた。
私は私の心を見たかったのだと。
あの色に揺れる自分の心を何故かと確かめたかったのだと。
そう気付いた。
私があの色を使いたいのには私なりの理由があるけれど、作りたくないそいつの気持ちもわかるから。
わかる私に、無理は言えない。
「でもいいわ。あなたにとっての特別を、私が穢す権利はないもの」
だからそう言うと、何だかものすごく驚いた顔をされた。
「何よ?」
「……そんなこと、初めて言われたから」
ぽつりと呟いて、そいつはうなだれた。
「作れなくてごめん」
中性的な顔立ちだからか、しょんぼりと落ち込む姿は何だかかわいらしく見えて。どうにも調子が狂う。
急に殊勝になられても困るんだけど!
「謝らなくていいから。代わりにもうひとつ答えてくれる?」
どうにか立て直そうとちょっと早口でそう言うと、首を傾げて何と聞かれて。結局息を呑む羽目になる。
自分の容姿をわかっててやってるんだろうか、こいつ。
「前にあなたは、自分の作った色よりもこの絵を気に入ってほしかったように見えたんだけど。どうしてなの?」
気を取り直してそう聞くと、思い出すように私を見つめてから、すっと絵へと視線を上げる。
「…さっきの答えと同じ。俺にとってこの景色はその人と同じ意味だから」
焦がれるようなその眼差しに、少しだけ翳りをよぎらせて。
「気に入ってもらえたら嬉しいんだよ」
ここにはいないその人に囁くように、呟いた。
初対面の印象は最悪で。
今もそれが拭えたわけじゃないけど。
仕方ないから。教えてあげる。
「ねぇロイ」
声をかけると、絵を見てたロイが目を見開いて、勢いよく私を見る。
「呼び捨てっ?」
「ロイ坊のほうがいいならそう呼ぶけど」
間髪入れずにそう言うと、ぐっと言葉を詰まらせて。
「……ロイでいい」
してやったり。ちょっとやり返せて嬉しい。
ふてくされたその様子にほくそ笑んでから。
「もうそう話す機会もないだろうから。最後にひとつだけ」
私と同じあなたへ。
もう遅すぎる私から、まだ間に合うあなたへ。
「まだ残せる形があるのなら、忘れてしまう前にきちんと残しておくほうがいいわ」
いつまでも色褪せないなんて。
いつまでも忘れないなんて。
何かが残っているからこそ言える言葉。
「どんなに忘れないと誓っても、形がなければ儚いものよ」
大丈夫。まだあなたは失いきっていないんでしょう?
確認するようにロイを見上げると、翡翠の瞳はただただ私を捉えていて。
驚愕、動揺、そして畏怖。浮かんでは消える戸惑いに、ただ笑みを返す。
私の姿はあなたの成れの果て。
あなたまで、私と同じ過ちを犯さなくていい。
ネウロスさんから明日店に来てほしいと連絡があったのは、それから数日後のことだった。
翌日、言われた通りに店に行くと、ネウロスさんとロイがいた。
なんでこいつまで。
「呼び出して悪かったね、ミア」
どこか嬉しそうなネウロスさん。いえ、と返す前に、にんまりとロイが笑う。
「俺が呼んでもらったんだ」
何を、とロイを見上げると、初めて見る柔和な笑みを向けられる。
「作ったげる」
「え?」
「あの色。作るよ」
話が呑み込めず固まる私に、なんて顔してんの、とさらに笑って。
「……忘れる前に残しておいたほうがいいんだよね?」
少しだけ曇らせて、ぽつりと呟くその顔は。
「だから作るよ。どうかな?」
次の瞬間にはまた笑顔に戻っている。
…ああやっぱり。取り繕うのも上手い人だ。
こんなところまで似てなくていいのに。
そう思ったことは顔に出さず、笑みを浮かべて頷いた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
頭を下げようとした視線の先にすっと手が差し出されて。辿るように顔を上げると、柔らかに細められた瞳と目が合う。
「ロイヴェイン・スタッツ。ロイでよろしく」
「ミア・ヤードレーです」
その右手を握り、私も名乗った。
その日から、ロイと顔を合わせては意見交換をするようになった。
図案見せて説明すると、職人として色々と意見をくれる。
最初の最悪な印象はもうなかった。
飄々としてるけど、真面目で気遣いに長けてて。こっちの言うことはきちんと聞いて考えてくれるロイ。
最初が最初だったから、私も遠慮しなかったのもあるかもしれないけど。ロイは本当に話しやすくて、気を遣わずに一緒にいられた。
ふたつ年下には思えないくらい、周りを見ていつの間にか動く人で。ガラス職人にしては鍛えてある身体は、ギルドの非正規雇用員でもあるからだと言っていた。
最初は師匠に場所を借りて話してたけどそのうちそれじゃ足りなくて、うちに来るかと提案した。ひとり暮らしの女性の家に行くのも、とロイはためらっていたから、そんなつもりがあるならやめとくけどとからかってやる。
「ないけどさ……」
好きな人がいることは知ってるから。もちろんそんなつもりがないことはわかってる。
「私だって。既婚者だし」
「えっ??」
ロイらしくない、素頓狂な声。
そんなに驚かなくてもいいと思うんだけど。
「…ダンナが…いるんだ………」
「……ええ。遠くにいるわ」
もう二度と会えないくらい、遠くに。
それはそれで行き辛いけど、と笑いながら、結局ロイは頷いてくれた。
「ごめんね。うちの工房に来てもらえればいいんだけど、今赤ちゃんいるからあんまり落ち着けなくって…」
ふたりで歩きながら、そう謝られる。
「赤ちゃんって……」
「俺の子じゃないってば」
ちらりと見上げると苦笑された。
「姉の子。ダンナもじぃちゃんたちもデレデレで入り浸っててさ」
見てらんないよと口では言いつつ、とても嬉しそうに微笑むロイ。
「…そう、お姉さんの…」
……赤ちゃん、か。
零れそうになった言葉は呑み込んで。
「ロイだってデレデレなんじゃない?」
「かわいいとは思うけど…って、ミア?」
軽口でごまかすけど気取られた。
私を見るロイが心配そうに眉を寄せる。
「どうしたの?」
…本当に。こんなときばっかり鋭いんだから。
「なんでもないわよ?」
前を見て、笑って。明るく言う。
ロイはそれ以上何も聞いてこなかった。
―――本当に大好きだった。
故郷グレナードで、家族と金物店を営んでいた私。
身寄りのなかったあなたはシューゼから移ってきて町に居着いた。
漁師のあなたは店に仕事道具を頼みに来て。そのうちに、お互い気持ちを通わせた。
幸せだった。
あなたと私。まだふたりだけど。
そのうちに、家族が増えて。賑やかになって。
皆で仕事に行くあなたを見送って。
皆で仕事から帰るあなたを迎えて。
皆で食事をするのだと。
ふたりでそんなことを話しながら。本当に幸せな日々を過ごしていたのに。
あの日、あなたは帰ってこなかった。
夜になっても。朝になっても。
次の日も次の日も次の日も。いつまで経っても帰ってこなかった。
ただ壊れた船の破片だけが岸に上がった。
「ミア?」
ロイの声に我に返る。いつの間にか立ち止まってしまってたようで、少し心配そうな顔で見られていた。
「ごめんなさい」
謝って歩を早めてロイを追い越す。やっぱりロイは何も聞かずにいてくれた。
ロイと作業を始めて一月半。ようやく完成した。
作ったのは両手に乗るくらいの大きさの飾箱。私は針金で外枠を編み、内側にロイに作ってもらったガラスケースを組み込んだ。
外枠は厚みが出て無骨にならないように、本当に細い針金で。一枚板の底から上に向かって徐々に隙間を増やすように編んでいった。
どうしても外枠の強度が落ちる分は、ガラスケースのつなぎ目に金属の補強を入れることで補った。
蓋は補強を飾り切りにして、外枠をつけずガラスのままにした。
紫の透ける銀色の身部分と、銀をまとった淡い紫の蓋部分。
使用に耐える強度もあると思う。
まずは師匠に見てもらう。
外観、内面、編みに手触り。接合部分、開け閉めの具合。
ひとつひとつ入念に確かめた師匠は、まだ表情を緩めずに私を見る。
「…強いて言うなら外枠が軟すぎるが、中のガラスのおかげで大きな変形はしないだろうからな」
それだけ言って、私に箱を返してくれた。
「いい出来だ」
まっすぐ私を見据えて告げ、師匠が笑った。
ここへ来てもうすぐ四年。
細工物を作ろうとしない私に、それでも教えることをやめず、急かさず自分から作りたいと言い出すのを待っていてくれた師匠。
私に向けられる心からの笑顔に、感謝と涙が込み上げる。
「ありがとうございます」
箱を抱えて頭を下げ、どうにかそれだけ口にした。
出来上がったら見せてとロイにも言われていたし、何より自分も向き合いたい。
このまま売り場に並べてもいいと言われたけど、一度うちに持って帰らせてもらうことにした。
自宅に置いてから、ロイの工房へと向かう。
仕事としてガラスケースを発注してからは、何度か工房にも行ったけど。今日は約束もしていないし、仕事の話でもない。
家族と暮らしていると聞いているから、奥の自宅を訪ねるのは気が引ける。工房に行くべきか店から呼んでもらうべきかと外でしばらく悩んでいると、奥からロイが出てきた。
「ミア!」
「ロイ?」
まるで私がいるのを知っていたかのようなロイの様子を不思議に思っていると、一応ギルド員だからね、とロイは笑う。
「気配には聡いから。すぐわかるよ」
そういうものなのかなと思いながら、完成したと報告する。
自分のことのように喜んでくれたロイは、もう少ししたら手が空くから、そのあとで見にいくと言ってくれた。
先にひとりで家に帰って。ロイが来るまで時間があるから、先に自分の細工と向き合うことにした。
寒色なのに柔らかな、夕方と夜の間の空の色。
身部分の細工は下のほうは細かく、上に行く程緩やかに絡ませて、透ける部分を増やしていった。
どうしてこの色に惹かれたのかは、まだピンとこない。
ゆっくり周りを眺めて。蓋の上から眺めて。蓋を開けて中を覗いて、固まった。
底は一枚板。編みも細かい下のほうに外からの光はあまり入らない。
暗い底は夜の闇のように深くて、暖かく見えていた紫が途端に寒々しく思えてくる。
箱の中には空があった。
狭間の紫を通り抜け、夜の闇に落ちる、その過程が。
しばらくそのまま箱の底を見つめ、闇の中に思う。
あの人との思い出に浸る茜色の世界から。
徐々に思い出を失う狭間の世界。
そして今、私が首まで浸かるのは、何もかもなくした闇の世界。
もうすぐ沈みきってしまうから。
すぐ上に見える懐かしいあの色のところまで戻りたくて、手を伸ばす私。
茜色の思い出は、この紫の先にある。
だから強く惹かれたのだと理解した。
扉を叩く音に我に返った。
あのまま呆けてしまっていた私は、慌てて箱を閉めてロイを迎える。
「…ミア?」
私の顔を見るなり目を瞠って、ロイが私の腕を掴んだ。
「なんで泣いてるの??」
「…え?」
泣いてる?
ぺたりと自分の頬を触ると、冷たく濡れた感触で。
「……あれ?」
いつの間に、とそう思って。
思わず目の前のロイを見上げてから、その狼狽した様子に気付いた。
「ごめんなさい、何でも―――」
「ミア!」
強い声と同時に腕を引かれて身をすくめる。
はっとした表情になったロイは、すぐに腕を放してくれた。
「…ごめん。でも、そんな顔して何でもないはないよ」
まるで自分が悪いことをしたみたいに瞳を伏せて小さく呟いてから、ロイはおずおずともう一度私の手を取る。
「話くらい聞かせて?」
壁にもたれて並んで座って。
私はロイにあの人のことを話した。
結婚して二年目に行方がわからなくなって、一年待っても戻ってこなかった。
思い出の残る故郷に居辛く、セレスティアに来たのが四年前。
ここに来てから心は楽になったけど、思い出は零れ落ちていって。
「…何もかも忘れたわけじゃないんだけど、何だかもう、全部夢だったみたいで……」
あんなに好きだったのに。あんなに大切だったのに。
どこにいても、何があっても、覚えていられると思っていたのに。
「……だから俺にあんなことを?」
「ロイはまだ間に合うでしょ」
隣の声に少し笑う。
「ごめんね、ロイの大切な色なのに。こんな気持ちを重ねちゃって…」
「謝らないで」
怒ったような口調で言い切ってから、ロイは息をつく。
「…それに、俺だって似たようなものなんだ」
自嘲気味の声に、ちらりと隣を見る。
遠くを見るように天井を仰ぎ見て、ロイは話し始めた。
「…五年ちょっと前くらいかな。俺さ、もうどうしようもないくらい好きな人がいたんだ」
「あの色の人?」
「そう。あの町に住んでる」
だからロイにとってあの絵とあの色は同じ意味なのだと知った。
「もうホントに好きで好きで仕方なかったんだけど。向こうには想い合う相手がいて、フられた」
内容の割には明るい声で、ロイは続ける。
「それでも俺にとっては大事な人で。諦める諦めないじゃなくて、もうホント特別で。だからあの色も特別にしてた」
仰ぐ瞳が、泣き出しそうに細められる。
「彼女の、瞳の色だったんだ」
私にとって空の色のこの紫は、ロイにとっては本当に好きな人そのものだった。
お互い顔を見ずに前を向いて、しばらく黙り込んでいたけど。
僅かに触れるロイの肩が少し揺れる。
「…夢でもさ、いいんじゃない?」
不意にロイが呟いた。
「え…?」
いつの間にか私を覗き込むように見ていたロイが、ふっと笑う。
「夢みたいに朧気でも。幸せだったのを覚えてるなら、それでいいんじゃないかな」
多分呆然としてるだろう私に微笑むロイは。
「だって、ミアは間違いなくそのとき幸せだったんだよね?」
暗闇の中に、ひとつの星を指し示してくれているようだった。
夜空の中にひとつだけ、いつどこで見ても同じ方向にある星があるという。
幸せだったということさえ覚えていればいいのなら。
それを見つけられればいいのなら。
たとえ頭の先まで闇に呑まれても、私はその星を見つけられるのかもしれないと。そう思えた。
それ以来、私は前向きに細工に向き合うことができるようになった。
自分は間違いなくあの人との間にあったことを忘れていくけれど、それでも幸せであったことだけわかっていればいいのだと。ロイにそう言われて少し気持ちが軽くなった。
ロイと作ったあの飾箱は、買い取らせてもらって家にある。
ロイとはそれからも一緒に仕事をして、あの色だけではなく、いろんなものを一緒に作った。
そして。
あの日、お互いのことを話して、似た者同士だよねと笑った彼と。
自然とお互い人恋しくなったときに会うようになった。
ロイは突然家に来て。
私は工房の前にしばらく立っていると、気付いたロイが出てきてくれて。
仕事と違って待ち合わせも約束もない、私たちの逢瀬。
初めはただ話すだけだったのに、段々と距離が近くなって。
いつからか手が触れて、身を寄せて、唇を合わせ、肌を重ねるようになった。
それでも私たちはただの似た者同士で、ただ互いの傷を知るだけの関係。
ロイには忘れられない人がいる。
私には忘れてしまった人がいる。
だから私たちはそれだけの関係。
来てくれるのが嬉しくても。
傍にいると落ち着いても。
帰ってしまうのが寂しくても。
私たちはただの似た者同士で。人恋しさを埋め合うだけの関係。
ロイの瞳に浮かぶ甘さも。
縋るように伸ばしてしまう私の手も。
私たちには必要ない。
ロイと知り合って五年になるある日。
いつものように突然やってきたロイは、私を見て戸惑うように視線を落とした。
「ロイ?」
「…新年から、中央に住むことにした」
私を見ないまま、ぽつりとロイが告げる。
「一旦職人を辞めて、ギルドに入る」
「ギルド?」
ロイがずっとギルドに臨時雇用されていることは知っていたけど、本職はあくまでガラス職人だったのに。
どうして突然?
「…随分急な話なのね」
動揺を隠してそう聞くと、ごめん、と謝られた。
「……どうしても育てたい奴がいて。俺は今まで正規で雇われてないから、そいつが学校を出るまでにちゃんと教えられる立場になっておかないと駄目なんだ」
正規のギルド員は本部のある中央に住む必要があるらしく。いくらセレスティアは隣だといっても、このまま職人を続けることはできないそうだ。
ロイはようやく顔を上げて、眉を寄せて私を見つめる。
翡翠の瞳によぎるためらいが何を意味するのか、私は気付かない振りをした。
「一旦ってことは、職人に戻るつもりではいるの?」
「…そのつもりだけど…。俺の準備とそいつがギルドに入って育つまでと。多分十年はかかると……」
「…そう。長いのね」
揺れる眼差しにそう言うと、ロイはぐっと息を呑んだ。
「…ミア、俺…」
「でもちょうどよかった」
何か言いかけたロイを遮るように口を挟む。
「私も故郷に戻れって言われてるの」
ロイが続く言葉を失った。
「……ミア…?」
突っ立つロイが私の名前を呟いた。
ごめんね。
あなたからその言葉は聞きたくない。
だから、知らないままでいさせてほしい。
「両親に、忙しくなったから手伝ってくれって言われてて。ロイも中央に行くならいい機会よね」
これは半分本当。
上手に嘘をつくには、嘘の中に本当のことを混ぜればいい。
忙しくなったとは言っているけど、故郷には弟夫婦がいるから。戻れとまでは言われていない。
「ミア」
「私は元々実用品ばかり作ってたし」
これは本当。
「ミア」
「細工よりそのほうがいいし」
これは嘘。
ロイと一緒の細工の仕事、本当に楽しかった。
「それに―――」
「ミア!」
今度はロイが私の言葉を遮った。
口を閉じた私に、困ったような眼差しを向けて。
「……言わせてもくれないんだ?」
震える声でロイが言うけど。
「聞きたくない」
「ミア!」
「だって! ロイはギルド員になるんでしょう?」
ギルド員は基本旅仕事。長期間家を空けて当たり前の仕事。
「帰ってこない人を待つのは、もう嫌なの……」
いってらっしゃいと見送って、何日も何日も帰ってこない人を待つ。
「怖いのよ………」
ロイまであの人みたいに帰ってこなかったら。
ロイまであの人みたいにいなくなってしまったら。
私はもう耐えられない。
うつむく私をロイが優しく抱きしめた。
逃げようとするけど、ぎゅっと抱き込まれる。
駄目。言わないで。
「それでも。俺はミアが好きなんだ」
耳元の優しい声音に涙が溢れた。
聞きたくないって、言ったのに……。
力の抜けた私の身体を支えてくれながら、ロイは続ける。
「…俺の身勝手な理由を肯定してくれて。自分の傷をさらけ出してまで、俺を助けようとしてくれた」
軽々と私の身体を抱き上げて、ロイは近くにあった椅子に降ろしてくれた。
私の前に膝立ちで、まっすぐ見つめて。頭を撫で、涙を拭ってくれる。
「あの日から俺を支えてくれたのはあの色じゃない。ミアなんだ」
拭う間にも次々の零れる涙に唇をつけ、ロイがもう一度私を抱きしめる。
「……一緒に中央に来てくれないか?」
抱きしめ返してしまいたかった。
私も好きだと言いたかった。
―――一緒に行けたらよかったのに。
「…………ごめんなさい…」
「…駄目?」
ぎゅうっと、私を抱く手に力が籠もる。
「俺、こう見えて結構強いから。そうそう怪我したりしないけど」
その腕の力とは裏腹に、冗談めかして言ってくれるロイ。
「…ミアのところに、帰ってくるから」
「…ごめんなさい………」
でも、どうしても怖くて。
いってらっしゃいと見送ることができそうにない。
弱い私でごめんなさい。
あなたを見送る勇気のない私でごめんなさい。
あんな思いはもう、したくないの。
ロイはしばらく私を抱きしめていたけれど、そのうちに私を解放してくれた。
「……俺が職人のままなら一緒にいてくれた?」
一歩下がって、仕方なさそうに聞いてくるロイに。
「そんなの…わからないわ……」
そうだとも違うとも返せずに、私はうなだれる。
そうだな、と自嘲気味に笑って。ロイは深く息をついた。
「……やっぱり故郷に帰る?」
苦し紛れについた嘘だけど、それもいいかもしれない。
セレスティアにいて万が一ロイを見かけたら不安になるもの。
「そうね」
グレナードにロイとの思い出はないけど大丈夫。
あなたと作った飾箱。今度はちゃんと、残せた形があるから。
「ミア」
しばらく黙ったままだったロイが私を呼んだ。
見上げると、どこか諦めたような眼差しが向けられる。
「…十年後、俺が職人に戻ったら。ミアに仕事を頼んでも?」
「仕事?」
柔らかい笑みで、ロイが頷く。
「仕事なら、約束してくれるかなって」
仕事上の約束しかしたことがないと、ロイも気付いていたのだと知った。
笑っているけど翳る瞳に。私も涙が込み上げる。
「待たなくていい。忘れてもいい。…でも、十年後に会いに行くのを許してほしい」
涙の中、声も出せずに頷いた。
年明けを待たずに私はグレナードに戻ってきた。
両親も弟夫婦も温かく迎え入れてくれた。
初めは慌ただしくても、徐々に落ち着く暮らしの中。年が明けても日常に戻りきれない自分に気付く。
あの人との思い出の地で、思い出すのはロイのことばかり。
中央に移ってギルドでがんばっているだろうか。怪我をしたりはしてないだろうか。ちゃんと無事に帰ってきているだろうか。
いってらっしゃいと見送るのが怖かった。
おかえりと迎えるまでの不安に耐えられなかった。
だから私は行かなかった。
だから私はここに逃げてきた。
―――でも、同じだった。
見送らなくても変わらない。私はロイが心配なのだと。
そんな簡単なことに気付かずに、ロイの傍を離れてしまった。
夜、飾箱を覗き込みながら涙に暮れる。
十年後。
ロイが残したその星は、まだ手が届かない程遠かった。
一度だけセレスティアに行って、ロイの実家の工房の前で佇んでみたけど、やっぱりロイは来なかった。
グレナードに戻ってまた日々を過ごす。
ロイと離れてまだ三箇月なのに。
あの人のときと同じ、零れ落ちそうになる思い出を必死に抱え込んで。
十年後、なんて。
届かない未来に思いを馳せる。
茜色から狭間の紫、続く闇。
海岸に座り込んで、海のおかげでセレスティアよりも見晴らしのいいその空を眺めていた。
私にとってこの紫はロイの色。
段々と闇に沈んでいくのが悲しくなって、見上げる頬に涙が伝う。
「……ロイ…」
中央に住むならセレスティアには必ず来る。戻っていつか偶然会える日をまた待とうかと、そんなことを考えながら立ち上がり、涙を拭ったそのとき。
「ミアっ!」
突然かけられた、まだ記憶にある声。
振り返ると、何故かロイがうろたえた顔で駆け寄ってきていた。
……ロイ?
何が起こったのかわからず立ち尽くす。
どうしてここに…グレナードに、ロイがいるの?
「ミア!」
走り寄る勢いのまま肩を掴まれる。
「大丈夫? なんで泣いて…」
「…ロイ…?」
名を呼ぶと、はっとしたようにロイが固まって。少しバツ悪そうに苦笑した。
「…ごめん。驚かせた」
すっと手を降ろして、まっすぐ私を見つめる。
「出てくるつもりはなかったんだけど、ミア、泣いてたから」
「ロイっ」
離れたロイを、今度は私が捕まえて。
そのまま泣き出した私を、ロイは優しく抱きしめてくれた。
今自分がロイの腕の中にいることが信じられなくて。でも伝わる温もりと込められる力は疑いようがなくて。
止められない涙の中、確かめるようにしがみついて、何度も何度も名前を呼ぶ。
「……ごめん。十年後って約束だったけど」
私を抱きしめ返してくれながら、ぽつりぽつりとロイが話してくれた。
「気になって、何回か見に来てた」
これが初めて、じゃなくて…。
腕の中で見上げると、ちょっと申し訳なさそうに眉を下げて。
「…遠目で見て。本当にそれだけのつもりだったんだけど」
片手を離して涙を拭ってくれるロイ。
「…何かあった?」
心配そうなその声に。
「…ロイのこと…考えてたの……」
今度こそ素直に、自分の気持ちを口にした。
多分見送るのはまだ怖いし、ひとりで待つ不安も拭いきれないけど。
あなたの傍にいるほうが、幸せだと思うから。
あなたの傍で待つほうが、安心できると思うから。
まだ。遅くないのなら。
あの日のことを謝って。ここに来てから気付いた気持ちを話して。
最初は驚いた顔をしていたのに、今は満面の笑みのロイ。
あと私が何を言うのか、わかってるって顔をしている。
随分回り道をしたけれど、おかげでもう迷いはしない。
「連れてって」
「ミア!」
本当に嬉しそうなロイに、ぎゅっと抱きしめられた。
読んでいただいてありがとうございました。
本編未読の方にも楽しんでもらえたら嬉しいです。
『丘の上』からの皆様へ。
今回はロイです。時期は三八八年実の月から、三九四年祝の月頃になります。
後半のロイはもう三十歳(!!)。話し方も少し落ち着きましたかね。
①ミアとロイの別離期間がわかり辛かったので、その辺りを少し手直ししました。
②ロイの育てたい奴の就学期間がズレてしまっていたので、ロイの台詞を直しました。短編としては問題はないのですが、『丘の上』としては矛盾が生じるもので…。
ついでにネタ追加。
今回は『ライナス』ネタが多いので、本編のみの方にはわかりづらい裏話も多かったかと。
本編のアリー一人称『/双子の弟』での外注先がネウロスで、ふたりの仕事仲間です。今作中のガラス絵はアリー作、件の絵はククルたちの幼馴染のソージュ作です。
その後の話も。ミアはアリーがガラス絵の製作者だと知って大感激して意気投合します。その後元の工房へ戻り、中央に居を構えるものの、ロイの留守中はアリーに誘われスタッツ家に泊まることもしばしば。そのうちアリーとも一緒に仕事をするようになりそうです。
何度も手直ししてお騒がせしました。