第8話 死の森と追手と死神
森に入ると、囁く声が聞こえてきました。
妖精──いいえ、精霊のようです。
精霊は妖精と異なり、万物──マナから形を得ているエネルギーの塊のようなもので、人間界では台風や火山のような災害、恩恵をもたらす神として、崇められているのも精霊の部類に入る。それゆえ精霊との約束や対応は妖精だろうと慎重でなければならないのです。バイ万物叡智。
『そっちは死の森。危険だけれど大丈夫ですぅ?』
ふいに声をかけられて、私は心臓が飛び出しかけた。
「し、死の森?」
慌てて振り返りかえるものの誰もいない。気のせいでしょうか。そう思った瞬間。
「あれ? 誰もいない……?」
『そっち違う。こっち。目の付け所違います』
『元気です? みんな元気ない、悲しいですぅ』
『笑い声足りません。死の森、危険、死んでしまうですです』
声は私の足元から聞こえてきた。視線を落とすと、|セントジョーンズワート《セイヨウオトギリ》という星型の黄色い花を咲かせる多年草の上に、精霊がいたのだ。
背中には鳥の翼を持ち、顔と上半身は人の形に近く、下半身は鷲の足をした精霊。率直に言って可愛い。どうやらこの子たちは大気の精霊のようだ。愛らしいのだが、話していた内容はかなり不穏当な内容だった気がする。
「死の森? この先はノックマの丘に繋がる森だと思っていたのですが……?」
『合っているです。でも、今は危ないかも? かも?』
『この草、太陽みたいにキラキラしてるですぅ』
『オトギリソウ、首切りです? 危険? デンジャラスですです』
途中からセントジョーンズワート草の話にすり替わっているのは、突っ込んだ方がいいのか悩みどころです。しかし危険というのは、どうにも気になりました。喉の痛みも、この森に入ってから楽になったので、喜んでいただけに気を引き締めます。
「どの道なら安全ですか?」
『あっちですぅ』
『ノンノン、こっちです』
『そっちですです!』
「どっちですか!?」
思わず声を荒げて突っ込んでしまった。大地の精霊は私の反応を気に入ったのか、いっぺんに喋り出して止まらない。
(どうしよう。話が進まない)
なんだか肩の力が抜けたようなホッと吐息を漏らします。都市からも離れて追手の気配もないので、ひとまず脱走は完璧でしょうか。少なくともここまでの頑張りを讃えてもよい気がする──と浮かれていた矢先。
「痛っ!?」
唐突に喉の痛みが再発。私は立っていることが出来ず、その場に蹲って倒れました。前回とは違い、何かに締めつけられるような痛みに、呼吸が上手くできません。これは本当にまずい──。
「あがっ……」
『あわわ、大丈夫です?』
『ゲームオーバー、一巻の終わりです? 苦しい、辛いですぅ?』
『助け必要です? 助け呼びに行きますですです』
大地の精霊たちの声が遠のき、別の声が頭の中に響く。
『まさかクワールツ家から逃げ出すような娘がいるとは。どんな魔法を使ったのか──早く捕まえて実験したいなぁ』
「!」
ゾッとするような低い声を聞いた瞬間、全神経がこの声に抗うなと叫んでいる。
逃亡した私のことをモルモット扱いする口調は、心臓にヒヤリとした何かがあてられるような感覚でした。
『……ふうん。場所はノックマの丘の方か。逃げ切れるとは思えないが、念のために猟犬を放つとしよう。いや、これでは縊り殺してしまうな……』
(猟犬……!)
『これ以上は動くな。これは命令だ』
「!」
声の主が精霊魔術師レムルだと理解するのに、数秒もかからなかった。安堵した瞬間にまさかの展開。思った以上に気付かれるのが早かったようです。
いつの間にか賑やかだった大地の精霊たちの姿はいません。ここが危険になると察したのでしょう。正解だと思います。
(私も、ここからにげ……なきゃ……)
人造人間である以上、創造主に対して絶対服従してしまいそうになります。体に力が入らない。痛くても生き延びるには逃げなければならない。創造主だろうと、私は前世での記憶があり、私は私だと再認識することで、拘束された感覚が消えていきます。
私はよろめきながらも歩道ではなく、森の獣道へと足を進めました。
***
それからの記憶は朧気で、現実味はありませんでした。
豹のような獣が目の前に現れ──襲い掛ったのです。「これが追手だ」と直感した。その証拠に獣の四肢には、ルーン文字の魔法が付与されていたのです。おそらく精霊魔術師レムルが施したもの。一度目は咄嗟に倒れたおかげで回避できました。しかしこのファインプレーが気に障ったのか、獣は身が縮むような咆哮を上げて、突っ込んできたのです。
「太陽」
無我夢中で私の持つ最大の魔法を駆使して、獣にぶつけました。幸いにも私のマナは常人よりも高く作らえているので、強力な攻撃魔法なら何発か打てました。
なによりここは妖精界。周囲にマナが満ちていたのもあり、太陽に似た金色の火の玉は獣を牽制させるには十分でした。しかし攻撃にマナを使うと喉に痛みが走り、呼吸が苦しくなります。
(あらかじめ攻撃できないように呪縛で縛っている?)
豹に似た獣は素早く私の攻撃を躱していきます。無駄打ちを避けるため、逃げながら先制するために、攻撃魔法をぶつける。そうやってサティに木の奥に逃げます。
「はぁ、はぁ……」
どれくらい走ったでしょう。
自分の体から体温を失っていき、指先の感覚はありませんでした。寒くて、痛くて、それでもここで足を止めれば文字通り、私の人生が終わります。
雨も降って来たせいでさらに視界も悪くなり、方向感覚が狂わされ──ここがどこなのか考える余裕もありません。打開策も──ない。
「きゃっ……」
足場が悪く地面がぬかるんでいたせいか、盛大に転倒してしまいました。足の踏ん張りもきかなくなっていて、限界はもう近いでしょう。追手の獣は魔法で多少距離をとっただけで追いつかれるのも時間の問題。もう心が折れる寸前でした。
やはり私ではシンデレラ・ストーリーは無理なのでしょう。苦労をしても足掻いても、救われるとは限らないのですから。
(喉が焼けるように痛い。もう……これ以上、魔法は……)
これ以上は動けない。活動限界というやつでしょう。
獣の足音は迷いなく私に向かって近づいて来る。やはり危険でもミデル王に助けを求めた方が良かったのでしょうか。
獣が肉薄し、大きな牙が襲い掛かった瞬間。
轟ッ!
吹き抜ける風が獣を一瞬で切り裂き、断末魔を上げて倒れた。その練り上げられた魔法の威力にゾッとしました。
(……なんていう強力な魔法)
馬の嘶きと同時に、「ふう」と呟く声が耳に入る。ゆっくりと視線を向けた先には、漆黒の──死そのものが立っていました。
濡れ烏色の外套を纏い黒く艶やかな長い髪、造形の整った顔立ち、白い肌、琥珀色の双眸──外見は二十代後半でしょうか。威厳に満ちた態度と、氷のように凍てついた表情の男が黒馬に乗って私を見下ろしています。
それは白馬の皇子様、といよりは死神という表現が正しいでしょう。彼は手綱を引くと馬に乗ったまま、私の近くに歩み寄ります。この世界で死ぬときは遣いの方が現れるシステムなのでしょうか。
(ああ、でも……獣に食い殺されるよりは……マシでしょうかね……)
「お前が《春の聖女》か」
朦朧とする意識の中で、「人違いです」と言おうとしましたが覚えているのは、そこまででした。ブツリ、と強制的に意識が途切れて──宵闇よりも深い墨色が視界を塗り潰したのです。