第27話 その花の名前は・前編
六つの目の獣は私の頬にすり寄り、瞼を閉じました。暖かくて心音が少しだけ早い。
「サティ、後ろを向いて両手を前に翳して。……振り返ってはだめだ」
「はい」
私はその言葉に従って、六つの目の獣に背を向けて目を瞑りました。両手を翳し、アルバートに代わるのを待つ。後ろで大きな獣の気配が消えて、代わりに衣擦れの音が耳に入った。
「そのまま、真っすぐ前だけを見ているんだ」
「わかったわ」
アルバートの低い声に、振り返りそうになりましたが我慢します。
彼は私を後ろから抱きしめて、マナを大量に放出し始めました。マナは風のように目に見えないのですが、そこにあると強く感じることができました。
「サティ、片方の手を地面に向かって翳せ」
言われた通り片手を地面に向けると、アルバートはもう片方の手を重ねました。それが魔法を使うためだと分かっていても、やはりドキリとしてしまう。マナが溢れる中で、アルバートは唇を開き──魔法の言葉を紡ぐ。
「起きろ、起きろ──冬の花。芽吹け、芽吹け。祝福の鐘を鳴らして」
耳に心地よい声。詠唱というより唄に近い。
私の体を通って大きな熱が迸る。まるで体の中を熱風が通り抜けたかのよう。
いつの間にか手を翳していた私の目の前に、柊のイラギの枝が現れる。
「サティ」
アルバートは私に柊の枝を握らせました。この人と一緒なら怖くありません。
何でもできそうな、そんな気持ちになります。
「オレの言葉を復唱して」
「わかったわ」
柊の枝が金色に煌めき、眩い光を放ちます。
「祝福の鐘を鳴らして、春よ、ここに」
「祝福の鐘を鳴らして、春よ、ここに」
眩い金色の光が私の手から溢れ──大地に小さな芽を生やしていきます。
「AureusVerr」
「アウレウス・ウェール」
ギギギッ!!
黒の塊は金色の光によって溶けて──消滅。その証拠に私たちは外の森へと戻ることが出来ました。夕暮れ色の空、黒々とした木々が立ち並ぶ──東の森。
「緑の佳人、森の守り手、力を貸せ──」
普通、木々が成長するまでに数十年、数百年がかかるでしょう。けれど──淡い若草色の光が集い急成長を遂げていく。
『ふむ、ここからは我らの出番のようですな』
『あら、我が王──ようやく番を得たのですね』
風に乗ってアルバートの眷族たちの声が聞こえた。柊の若枝に集い、死したとされる土地が蘇っていきます。
ヤドリギ、オーク、トネリコ。
ハシバミ、ブドウ、ブナ──シラカバ。
ナナカマド、モミの木、ポプラ。
それらの木々を結び繋ぐは、常に青々とした葉を茂らせるキヅタ。アイビーもまた魔除け──祝福の唄が周囲の死した土地を浄化していきます。黒い塊が灰となって──消滅。
『サビシイ、ナマエヲ、ヨンデ』
ふと私の中に誰かの声が届いた。アルバートへと振り返りますが、彼ではないようです。
「……名を忘れた精霊か」
アルバートにもあの声が聞こえたようです。彼の顔を覗き見ると、酷く悲しそうな──複雑な表情をしていました。なにか知っているのでしょうか。
「名前を忘れたとは?」
「精霊は万物の欠片から生まれた四大精霊に連なるものを意味する。人の想いに引っ張られて、自分の名前を忘れてしまった。故に、あの黒い塊に取り込まれて──嘆いている」
アルバートは悲しそうな顔をしているのに、声は平坦なままでした。これが初めてではないのでしょう。
「どうにか名前を取り戻す方法はないの?」
「……オレにはわからない。ああなった精霊は呪いを吐くだけ吐いて朽ちていく」
残酷な──けれど確実な処置といえるでしょう。温情や慈悲などない妖精界の掟。私は万物叡智の知識を探ります。本当に方法がないのか──と。
「もう一度、黒い塊に触れて名前を探すというのは……?」
「ダメだ。お前への危険度が高い。それに……」
アルバートは途中で言葉を切った。このまま浄化が終われば、精霊はそのまま消えてしまう。私は彼が答えを出すのを待ちました。この先、領土の長としてなにを選ぶのか──。
「緑の佳人、ナナカマドとカエデの枝を」
「我が王、ここに──」
アルバートの傍に緑色の木々が生まれ──そこから美しい貴婦人が姿を見せました。若葉色の三つ編みの長い髪、夕焼け色の瞳、給仕服に身を包んだ姿は、絵本に出てくる姫のようです。彼女はアルバートの前にかしずくと、二本の枝を差し出しました。
「ナナカマドは七回カマドに入れても燃え残ると言われるほど忍耐力があり、女神ブリギッドとその父ダグダに捧げる聖なる木だ」
たしか女神ブリギッドは人間が犯した過ちや失敗を大らかな心で許し、「後悔したまま立ち止まらないように」と導く母だったはず。赤い小さな実を付けた枝、もう一つはカエデの枝。オレンジ色の葉が炎のように揺らめき、燃えているようでした。カエデは季節によって色を変える。カエデの精霊が私に「すべての存在は、それぞれ意味を持っている」と囁きました。
「……直接触れずに、この二つの枝を通して名を探すならいい。ただ危険になったら途中で中断する」
「アルバート」
アルバートの琥珀色の瞳が私を見返す。否定でも鵜呑みにする訳でもなく、彼はできうる限りの最善策を提示してくれたのです。
「出来るか?」
「もちろん!」
私は緑の佳人から枝を受け取り、すぐさま空中にルーン文字を描く。「万物叡智の知識通りにすれば大丈夫だ」と自分に言い聞かせ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、詠唱を開始しました。
「運命を導く女神ノルニル、輪から外れしモノの道を導き給え──調和」
半瞬、真昼にも似た輝きが溢れ、ナナカマドとカエデの枝が急激に成長を繰り返して黒い塊を覆うように包み込んでいきます。
ギギッ!
黒い塊が枝を腐らせるのが先か、黒い塊を覆いつくすのが先か──根気勝負。私はさらに詠唱を重ねます。
「名を忘れモノ、過去に撒いた種の収穫の時来たれり。祝福せよ、汝の名と共に目覚めよ──収穫」
バチバチと、枝が火花を散らし──私の意識はそこで途切れた。
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