春休み初日は一度目の命日
「一から話す」とは弓削に言ったものの、まさか俺の産後の経過が順調だったことや、出生体重が平均よりやや小さめだったことなんかを話していっても仕方がない。
簡潔にプロフィールを述べていこう。
まず、俺の名前は「猿山太志」。女体化してからは「桜」と名乗るようになったが、産まれた時の性別や精神構造も男で、現在母と妹の三人で暮らしている高校生だ。
幼少の頃の俺は、体も小さく気弱だったので周りの子からイジメられることも多かったのだが(と言っても幼稚園のいじめなど玩具を無理に取り上げるくらいの物だ)、小学校にあがったのを機に、会社員でありながら道場の師範をしていた父が俺に稽古をつけ始めると、俺は体の素質があったのか、ゴリラのように体に筋肉がつき始め、元々俺のルックスも人間よりも類人猿寄りだったこともあって、中学にあがる頃にはあだ名もゴリラになっていた。好物がバナナだったこともこの憎きあだ名の一因となっただろう。
道場の稽古は辛くもあったが、終えた後友人らと帰る道は悪くなかった。特に稲生とはその頃からの付き合いで、高校生になった今でも親交が続いている。道場に入りたての頃は奴は整った顔立ちだが体はヒョロヒョロの文科系だった。しかし毎日稽古に通う内に奴はみるみるうちに良い体になっていった。
俺は奴と何度か組み合ったがいつも良い勝負を繰り広げられるライバルとなった。しかしその一方帰り道などで好きな漫画やアニメなどを一緒に語り合える戦友でもあった。
当時の俺はと言えば、虐められるよりイジられる方がよっぽどマシ、という考えの元、イジられたらドラミングを返してやるなど、ゴリラの生態を調べてネタにしたりした。偶にイジりの範疇を超えたような狼藉者もいないわけではなかったが、武道を習う以上、パンピーとの喧嘩はご法度であり(一度嫌な奴をぶっ飛ばした時、父から滅茶苦茶叱られた)、俺はゴリラキャラをネタにすることによって笑いに転じさせ、争いを避けるようにしていたのだった。そのころ太宰の「人間失格」を読み、道化を演じる主人公に痛く共感した事を覚えている。
順風満帆とまでは言わないでも、それなりに充実した生活を送っていたのだが、中学二年の頃、突然父が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。道場は畳まざるを得なくなり、母も仕事に出るようになったので、俺は道場に使っていた時間を家事に使うようになった。とは言え、うちの可愛い妹と分担しながら行っているので、思っていたほど苦痛はなかった。要は慣れなのだろう。父の早い死は家族に多大な衝撃と悲しみを与えたが、日常を経るうちにその辛さに馴染んでいった。
そうして俺は高校にあがり、特に部活にも入らずダラダラ過ごしていたのだった。
以上が俺のプロフィールとなるのだが、今更ながらこれを弓削に言っても仕方がないように思えてきた。ここはやはり、俺が一度死亡した三月のあの日から説明を始めるのが無難であろう。では俺が脳内で回想していたプロフィールは誰に向けての物であったのか……。そんなことはどうでもよろしい。
さて、新元号発表を間近に控えた三月下旬ごろの事。
学年末試験をそれなりの成績で通過した俺は、来たる春休みを目前にして心を躍らせていた。稲生と一緒に新作ゲーム「YOTARO」を予約していたので、春休み一日目はそれを思いっきり遊び倒す計画を立てていたのだ。
そうして、念願の春休み一日目が始まり、その日が俺の一度目の命日となったのだった。
――
夢を見ていた。とても良い夢だ。
俺は妹の五百子と二人っきりで、チバにある有名な遊園地で遊んでいた。俺達は大木の向こうに見える大きな観覧車を見上げながら、わんぱく広場でブランコを漕いで楽しそうに笑い合っている。
妹が汗と共に輝く笑顔を発しながら俺に話しかけてきた。
「次は何処にいく?」
俺は、その笑顔に圧倒されないようにこう答える。
「ジャガイモ堀り体験に行こうぜ!」
妹は輝く笑顔をさらに弾けさせ、ブランコから飛び降りて片手を俺に向けた。俺も妹に習ってブランコを飛び降り、その手を取って緑豊かなドイツ風の田園風景を駆け始めた。
これは夢だ。
夢の中で俺はそう自覚している。だけど、とても良い夢だ。
あの遊園地の収穫体験は、朝早くから受付しておかなければ滅多に体験できないほど人気のゾーンだし、何より妹がこんな笑顔を向けてくれることなど、ここしばらくない。彼女はどうやら反抗期真っ盛りらしく、母はともかく俺との会話は必要最低限のものとなっていた。この前だって、五百子が夜に一人でコンビニに行こうとしたから、一緒に行こうと提案してやったのに「過干渉キモイ」とか酷い事言ってきたし。
俺は亡き父さんの代わりに五百子を支えてやる義務があるんだ。そう思って多少大きめの世話を焼くくらい兄として当然の事なのである。しかし、中学生と言う多感な時期にそれを理解するのは難しいだろう。俺だってその頃は、指先が空いた黒い革手袋とか持ってたし、つまりそう言うことなんだろう。黙って見守っいてやるのが一番良いんだろうな。
とは言え世間並みの兄程度には妹が好きな俺としては、五百子との会話が弾まなくなったことに百抹の寂しさを覚えるのも確かである。
だから今、夢の中だけでも、子供の頃みたいに一緒に話したり遊んだりして楽しむんだ。
そう思いながら俺は五百子と共にチバにある有名な遊園地を駆け巡り、ジャガイモ畑にたどり着いた所で目が覚めた。
……
耳元で目覚まし時計が鳴り響いていた。寝ぼけながらも反射的に右手を音の鳴る方へ振り下ろしたが、バシンと言う音が床に響いただけだった。手に目覚まし時計の感触はなかった。不審に思って目を開けて首を向けると、目覚まし時計はR2D2みたいな鳴き声とアラームを交互に繰り返しながら、布団の回りをすいすい移動している。
俺は昨日、母が同僚から「動く目覚まし時計」を安く買い取って来た事を思い出した。「毎朝殺意で目が覚めるからいらん」とはその同僚の談らしいが、「太志こういうの好きそうだと思って」とあっけらかんと笑う母を無下にすることも出来ず、「折角だし、どんな風に動いて鳴ったりするのか明日の朝に試してみてよ」と意地悪そうに微笑む妹を無下にすることも出来なかった。だってお兄ちゃんだもの。
その時計の、人をおちょくっているとしか思えない動きを見ているうちに確かな殺意が沸いてきたので、狙いを定めて正確に掌を振り下ろし、鳴って逃げ回るしか能のない目覚まし時計の野郎を黙らせてやった。
そうして春休みなのに特に意味もなく七時に起きた俺は(「八時とかにセットしたら、お兄が目覚ましより早く起きるかも知れないじゃん」とは五百子の言だ)、枕元に置いてあったスマホを手に取った。そして、画面に3月X日と映し出されているのを見た俺は、今日この日が待ちに待った新作ゲーム「YOTARO」の発売日であり、春休み第一日目であることを再確認してテンションが上がって来た。
心持ち軽快な足取りで自室を出て階段を降りると、居間には寝間着姿の母がいた。四十代には見えない顔面が不思議そうにムムっと歪んで俺を見据えた。
「春休み明日からだっけ?」
誰のせいだと思ってんだよ。とは言わずに適当に返事を返しつつ、超熟していることに定評のある食パンをオーブントースターに入れると、母は「後は頼んだ」と言い残すと隣室に消えた。保険の外交員をしている母には春休みなど数日しか存在しないので、今日も普通に仕事なのだ。いつもなら既にスーツ姿になっていなければならない時刻なので、ちょっと焦っているのだろう。
まぁ俺も高校生にもなったし、食器洗いや風呂の準備くらいの家事なら安いもんさ。
飯の準備だって最初は戸惑っていたが、焼いて食えるものなら焼いて食えば大体美味いと分かったし、野菜は大抵煮れば美味くなる事も知った。進路選択に主夫を入れても良いかもしれん。どこの俺ガイルだよ。
そんな事を考えながら食卓の皿とコップと新聞紙を片づけてTVを付けると「覚醒テレビ」の占いコーナーがやっていた。画面の向こうのアナウンサーがふたご座の人間に向かって「柑橘系の香りを楽しむと良い」とアドバイスをしているの眺めていると、階段を降りてくる音が聞こえてきた。引き寄せられるかのように、視線がそちらへと向かう。
見よ、アレがウチの妹だ。
枝毛を交えながら奔放に流れるゴキゲンな黒髪が、薄桃色をしたシャツの肩元に掛かっている。いつもはパッチリと開いた目元は寝起きの為かショボショボと瞬きを繰り返しているが、それはそれであざとくないあどけなさを感じさせて可愛い。鼻元は普段なら彫刻のように整っているのだが、花粉の為に赤みがかって、現に今も一度ズビッと音を鳴らしたのだが、なんだか間の抜けた音だったので結局可愛い。形の良い唇は詩人が絶句するレベルで可愛く、テニス部で鍛え上げられたその体型は、見ているだけで健康のおこぼれに預かれそうなほど健康的で可愛い。
つまり何が言いたいのかと言うと、ウチの妹は可愛いのだ。いや、俺の妹が可愛くないわけがないのだ。
「おう五百子、おはよう!」
一日は元気な挨拶から始まる。母相手にはむにゃむにゃ適当に交わしたが、妹にはきちんと行っていく。これは思春期の兄にみられる兆候だろう。きっと俺だけではないはずだ。
「……ふぁあ。むー」
大きな欠伸を一つした後に、超テキトーな返事を返されたが、無視とか「うっせ」とかより上等だ。今日は機嫌が良いのかな?
チンと小気味の良い音がオーブントースターから鳴ったので、俺はパンを取り出してその上にチューブDEバターで「乙」の字を書いていると、出し抜けに五百子が言葉を発した。
「あの目覚ましどうだった?」
冷蔵庫から牛乳を取り出した五百子が、コップにそれをつぎながら質問してきたのだ。どうやら妹は本当に機嫌が良いらしい。朝から兄と他愛もない会話に興じようとしてくれるなんてな! 妹を持つ幸運に恵まれた世の諸兄なら、この嬉しさが伝わるであろう。ビバ俺の妹。
「ああアレな、R2D2みたいな声で逃げ――」
言葉の途中に「おや」と異変を感じた。突然、声が出なくなったのだ。
「――」
慌てて声を出そうとしてみたが、依然として音は出なかった。いきなり金縛りにでもあった感じだ。声はおろか、指先一つ動かせなくなっていた。
テーブルの向こうで五百子が不審そうな目付きでこちらを見ているのが目に入った。
突然体が固まると言う異常事態に心臓と頭がパニックを起こしている。鼓動が無軌道に加速していくのを感じ、命の危険を覚え始めて叫びだしたくなるのだが、それさえも許されない恐怖。段々と、意識までが朦朧としてきた時、まさか本当に死ぬのか。と思った。
五百子の怪訝な表情が、段々と不安そうなものへと変わっていく。
「ちょっと――大丈夫?」
それが、俺がこの世で聞いた最後の言葉だった。
心臓が聞いた事のない音と速度で鳴り続け、なのに意識は眠りに入る前みたいに、消えようとしている。視界も音も遠くに離れていき、完全に見えなくなった。耳や鼻、残りの感覚全てがそれにつられる様に消失し、俺は死んだ。