あの日のように、世界は
世界は毎日滅亡しているのよ。
あなたが眠りに落ちると同時に世界は終末を迎えるの。
そしてね、目覚めたらいつのまにか新しい世界が生まれている。
もしかしてもう気付いてた?
それからね……もしあなたが死んでしまっても、あなたは再び生まれるの。
人は肉体が滅びてもまたこの世界に生まれる。何度でも繰り返し生まれる。
なぜならこの世界に生きているすべての人は途上にあるから……
でもね、この世界から永遠に離れてもう二度と戻ってこない人もいるのよ。
あの日僕の耳元で不思議な言葉をささやいた君は
既にこの世界 ―――血と肉と後悔と苦しみに満ちた――― から消えた
教えてほしい
君は今どこにいるのか
生まれ変わって僕の知らない誰かと幸せに暮らしているのか
『途上』とはどういう意味だったのか
もし君が僕の存在に気付いているなら
この古いカフェの扉をそっと開けて
春の明るい夕日に照らされているこの世界が本当に滅亡してしまう前に
その澄んだ瞳でまっすぐに見つめて
それから……
いたずらっ子のようにパチンと片目を閉じて
あの日のように優しく微笑んでほしい
心から、そう思う――――
もしかすると、私たちの文学は失われた時を求めて放浪しているのかもしれません。
何度も何度も神から引き剥がされて、より強力な唯一神の統べる世界へと否応なしに向かわされている人間達。神を殺した者達が世界を支配する時代となっても、そこは決して神が死んだ世界ではなく、新しい全知全能を自称する、実質的唯一神(インターナショナルな、あるいはグローバルな)の王国。
世界がどこまで未来へ向かおうと、唯一神的思考を唯一神的思考が全否定して新しい全知全能の唯一神的思考(思想・主義)が統べる、その繰り返しから脱することは、このままではできない。もちろん、東洋の島国に暮らす我々もその影響から逃れることは、これからもできないのでしょう。
現代に生きる西欧人の『神を失った悲しみ』とは、人間の言葉で人間に命令する全能の神がたとえ消えたとしても、次々と得体の知れぬ不気味な唯一神(そしてその神もまた人間の言葉で人間に命令する、全能を自称する神)が入れ替わり立ち替わり現れることへの恐れと諦め、を当たり障りのないように言い換えたものなのかもしれません。
もしもその恐れと諦めに戦いを挑むもののみが「優れた文学」と呼ばれるに値するのだとすれば、未来に希望も、確かにあるのかもしれない。
ただ、優れた文学は革新的でなければならない、とか古典的文脈を引き継ぐ保守的なものが望ましい、という議論を始めると、それこそが『正義か悪か』『真か偽か』という二元論を強要する、いくら入れ替わっても本質は何一つ変わっていない唯一神の、思う壺でもあるのですが――――