2
土日を挟んだ、週明けの登校。
期末テストが終わり間も無く夏休みに入るこの時期は、暑さのせいもあって気の抜けた生徒が多い。我がクラスはテスト終了の翌日に、雪ちゃんと言う最高の刺激を与えられたおかげで活気付いていたが、他のクラスはそうもいかない。
テストを返してもらう為だけに通学していると言っても過言ではない時期なので、生徒からはやる気を感じられず、中にはそれが表情や身嗜みに露骨に現れている生徒もいる。
そんな中、俺こと前田啓介は見事なまでの変身を遂げた。
目元に届きそうなほど伸びていた髪はバッサリ切ってワックスでしっかりセット。アイデンティティーのつもりだった黒縁メガネは「あんたが掛けると地味」と家族に一蹴されたので、コンタクトにチェンジ。ついでに充血した目はたっぷり八時間睡眠を取って改善。ドライアイはどうにもならなかったが、それ以外は大幅に上方修正された。
いやはや、恋とは偉大ですね。入学した当初は面倒くさくて速攻で止めたオシャレも、今なら全く苦にならない。
寧ろ拘ると中々楽しいもんで、自分も捨てたもんじゃないなと軽い錯覚を起こしてしまい朝はハイテンションだった。
「お母さん!兄ちゃんがキモい!!」と嘆く綾乃の声で現実に引き戻されてしまったが。
「ハハハ、斬新な朝の挨拶だな」と爽やかに笑って黄ばんだ歯をチラつかせてやったら、尻餅ついたまま後ずさりしていった。可愛い奴め。
そんな妹の反応は少々大袈裟だろうと思っていたが、クラスの反応も似たようなもんだった。つまりクラスの奴らも「うわ!前田がキモい!」と真正面で言ってのけたのである。俺に人権はないのだろうか。
まあ今更こんなことを愚痴っていても仕方がない。俺は他人の反応など気にしていないのだ。気にしているのはたったの一人、隣に座る純情可憐な少女、雪ちゃんの反応だけだ。
「おはよう雪ちゃん」
「おはようございます。あ、髪切ったんですね」
今日も華やかな笑顔で挨拶を返してくれる雪ちゃん。「君の為に切ったんだよ」と言いたいところだが、流石に自重しておこう。
「夏にあんだけ長かったら暑苦しいからね。バッサリ切ったよ」
「そうなんですか。確かにこっちは相変わらず暑いですね」
「本当、暑いったらありゃしないよ。…ところでさ、どう?似合ってる?周りにキモいキモい言われまくってるから不安なんだけど」
「ふふ、とっても似合ってますよ。少なくとも私はそう思います」
「ありがとう!いやー、努力の甲斐あったよ!じゃあさ今度俺と——
「俺と……。なんだって?」
俺の声を遮って背後からドスを利かせた声が聞こえた。振り返るまでもない。何故なら俺の頭がガシッと鷲掴みにされているからだ。こんな握力で俺を掴む人間は一人しかいない。
「よう東野。どうしたんだ?不機嫌そうな声出してさ」
「どうしたんだろうな。さっきまでは気分も良かったはずなんだが」
チラッと雪ちゃんの方を見る。雪ちゃんは苦笑していた。どうやらどうするべきか分からないらしい。そんな姿も可愛い。
「おい前田、一つ忠告しておいてやる。私は過剰防衛は止めるがお前が出過ぎた真似をした時は黙ってないからな」
俺にしか聞こえないよう耳元で囁いた東野は、掴んでいた手を放しそそくさと席に戻った。それを過剰防衛と言うんじゃないですかねと、突っ込んだら殺られちまいそうな凄みがあったので、何も言わず黙っていた。
「茜、どうしたんだろう。前田君のことになると凄くムキになるんです。ごめんなさいね。普段は良い子なんですけど…」
「あいつ俺のこと好きなんじゃないかな。ほら、愛情の裏返しってやつ?あれがあいつなりの愛情表現なんだよ」
適当なことをぶっこくと、後頭部に何か刺さった。先端が尖っているので多分シャーペンだろう。一体誰が投げたんだろうな。
「愛情表現…。なるほど、確かにそう考えると茜らしいですね」
雪ちゃんは笑っていた。この子冗談だと理解しているのかしら。茜らしいって本心で言ってるなら、奴は相当ガサツな女ってことになるんだけど。
「でしょ?ハハハ」
笑い合っていると、もう一本シャーペンが飛んできた。しかし同じ手は食わない。貴様の技は既に見切った!
俺は頭を左に傾けて華麗に避け、ドヤ顔で振り返ってやった。すると鬼の形相をした東野が、今度は俺目掛けて椅子を投げ飛ばしやがった。
「ぐぇっ!」
ガコーンと鈍い音を鳴らして見事命中。俺はぶっ倒れた。若野もそうだが、こいつらのコントロールの良さは何なんだ。バタコさんかよ。球界行けば北別府なんて目じゃないだろうに。
それにしても全く鼻血のストックが足りない。お家芸みたいになってるけど、母が言ってたように俺は滅多に鼻血を流さない人間だったんだ。鼻腔がガバガバになったらどうしてくれる。そんな高校生嫌過ぎるわ。
「朝から何の騒ぎだ……。ってまた前田か。毎朝毎朝いい加減にしろ」
まるで計ったかのようなタイミングでチャイムが鳴り、若野が現れた。若野はこちらを見るなり溜息を吐き、ホームルームを始める。いや、今回はどう見ても俺が被害者なんですけど……。
しかし、傍観者共が俺のことを庇うはずがなく。椅子がない東野はどうしているのやらと一瞥すると、隣の席の干からびたモヤシのような男がオドオドしながら立っていた。これお前の椅子じゃないのかよ。可哀想過ぎるだろ。
一方雪ちゃんの方に目を向けると、雪ちゃんは心配と申し訳なさが入り混じったなんとも言えない表情で、ジッとこちらを見つめていた。リスのような小動物的可愛さがある。百点。
若野がホームルームを終えると、オドオドしながらモヤシがこちらに近付いてきた。俺が意図を察して椅子を差し出すと、まるで「僕は関係ない」と言わんばかりにモヤシは急いで自分の席に戻っていった。
……どいつもこいつもふざけやがって。俺が傷付かないとでも思ってんのか?俺だって怒る時は怒る。当たり前だ。椅子を投げられるほどのことはしてないし、逃げられる理由もない。
ここまで理不尽な仕打ちだと流石に俺も黙っていられない。まずはあの大人しそうなモヤシ野郎から文句を言ってやる。東野は……。東野は先生にチクってやる!
「前田君、大丈夫ですか?鼻血出てるんで使ってください」
怒りに身を任せようとしていると、雪ちゃんがポケットティッシュを差し出した。俺の怒りは聖なる輝きを放つ神々しいポケットティッシュによって瞬時に沈められた。要するに全て許した。可愛いはジャスティス。