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翌日、案の定東野はバリバリ俺のことを警戒していた。
俺の座席の列の最後方に座っている東野は、常に俺が何かしでかそうとしていないか鋭い眼差しで監視している。恐らく、名迫さんに話し掛けようとしただけで突っぱねられてしまうだろう。
しかし、一方で名迫さんは全く俺のことを警戒していなかった。朝俺が着席すると、こちらを見て優しく微笑みかけてくれたり、授業中に俺が落としたシャーペンを拾ってくれたりする。もうマジ天使、このシャーペン食べたい。
彼女の様子から察するに、恐らく東野は昨日の出来事について話していないのだろう。まあそりゃそうか。まだ転校二日目の名迫さんに不安を煽るような真似はしたくないだろうし、自分の過剰防衛に少しでも自覚があるなら伝えることに後ろめたさを感じるはずだ。自覚がないなら奴は鬼かアサシンだ。
それにまだ俺のことをよく知らない名迫さんに昨日の出来事を話したら、咎められるのは東野の方かも知れない。いずれにせよ、俺にとっては好都合でしかなかった。
その日、俺は母の言いつけ通り学校では何もせず、大人しく過ごしていた。それが東野の目にどう映ったかは知らないが、少なくとも悪い印象は与えていないはずだ。向こうも俺が名迫さんに絡もうとしない限りは突っかかって来ないし、勿論俺も自ら東野に絡むことはない。気付けば暗黙の了解で停戦協定が結ばれていた。
それを解いたのは放課後、俺が尾行を開始する時だ。二人は昨日とは違い寄り道せず、まっすぐ帰るらしく早々に校門に向かう。俺もそれに続き、しかし昨日とは違い堂々と歩いた。
何故ならばこの道は俺の帰り道でもあるからだ。俺がコソコソする道理はない。それに今は俺以外にも様々な生徒が下校している。俺一人がコソコソと歩くのは不自然だろう。だから俺は二人の少し後ろに距離を保ち、堂々と歩いていた。
しかし、理屈は通っていてもそれを気に入らない女が前方にいる訳で。東野は後方にいる俺を幾度となく睨み付けて警告していた。
目は口ほどに物を言うと聞くがこれほどまでに説得力のある事例はないだろうね。オマエキライ、コロスと視線が訴えてくるんだもの。ハハハ、コエー。オシッコモレソウ。
ハッ!もしかすると僕ちゃんのこの気持ちも視線越しに東野に伝わっているのかしら。やだ、ちょっと恥ずかしい…
「あんた気圧されてるわよ。もっと堂々としなさい」
不意に斜め後ろから母の声が聞こえた。俺は声がする方に顔を向ける。母は何故か迷彩柄の服を着てサングラスをしていた。軍人かよ。
そんないきなりの登場に驚きつつも「了解」と告げ、胸を張って歩く。
そのまま母と二人で、思い人とその取り巻きの背後を黙々と尾けること十五分。山下さんの家の近くらしい例の交差点に到着した。そこで昨日同様二人は立ち止まり、何やら短い言葉を交わすと名迫さんは左に曲がっていく。
しかし、東野はその場に立ち止まったまま暫く動かずにいた。俺たちはそれに臆さず東野の元へ歩み寄る。奴の大きな溜息が聞こえるほどの距離まで近付くと、東野はゆっくりと振り返った。
「情けなくねぇの。昨日やられた報復に親連れてくるなんてよ」
心底めんどくさいと言わんばかりに東野は再び溜息を漏らした。それにしてもこの格好の母を見てよく親だと分かったな。
「残念ながらこれは私の意思よ。それに報復するつもりなんてないわ。息子のお友達作りに協力しようってだけの話」
「協力…ですか。確かに私もやりすぎたって自覚はありますけど、それでも引き下がるつもりは全くありませんよ」
東野は暗に実力行使を仄めかし拳を握る。
俺自身、母が一体どうやってこの状況を打開するつもりなのか何一つ聞かされていないのでその点は気になった。
「上等上等。遠慮しなくていいわよ。私強いんだから。稽古つけてあげる」
得意げに笑う母は自信満々と言わんばかりに肩を回した。どうやら母もそのつもりらしい。まさか母も戦闘民族だったとは。ちょっと僕の周辺環境野蛮過ぎやしませんかねぇ……世紀末かよ。
「そうですか。それならこちらも遠慮なく。後で、告げ口するとかはやめてくださいね」
その挑発的な態度に苛ついた東野は、舌打ちをして露骨に不機嫌であることをアピールして答えた。
「勿論、正々堂々挑ませてもらうわ」
互いに身構える。しかしどちらも一向に動く気配はない。かといって、俺が動くなんて出来るはずもなく。
俺はこの緊迫した雰囲気に飲まれ、逃げ出したりしないように堪えるのが精一杯だった。
「雪ちゃん、可愛いじゃない。私も惚れそうだわ」
不意に母が耳元で囁いた。俺は動揺しながらも無言で頷く。母はニヤリと口角を上げて言葉を続ける。
「ここは私に任せない。でもここから先はあんたの役目。絶対ものにしなさいよ」
「分かった。……ありがとう」
俺がそう告げると同時に、母が動き出した。
まるで瞬間移動したかのような速さで東野の前に立ち、顎先めがけて豪快に右足を蹴り上げる。しかし東野は予めそれを読んでいたかのように後ろに仰け反りヒラリとかわし、そのまま母を相手にせず俺の元へ走り寄ってきた。
咄嗟の出来事に驚いた俺は、なんとか距離を取ろうと全力で地面を蹴る。しかし、その程度では到底間に合わず、回り込んでいた東野が正面に立ちはだかった。すかさず俺の両肩を掴んだ東野は、そのまま男性諸君の急所目掛けて膝蹴りをかました。
「はうっ!!」
まるで握りつぶされたかのような激痛に耐え切れず、俺はその場で蹲る。東野は躊躇なく、昨日見せた鮮やかな踵落としを決めようと思いっきり足を振り下ろしていた。
「それは狙いすぎじゃないかしら」
しかし母が東野の軸足にローキックを食らわせなんとか阻止。バランスを崩した東野は、尻餅をついて派手に転んだ。
「啓介!走りなさい!」
母が叫ぶ。恐らく、東野は母の予想以上の腕前だったのだろう。状況でそう察した俺は、股間を抑え涙を流しながらカエルの如くピョコピョコと跳び、交差点を左に曲がった。
「待て!」
東野が立ち上がり叫んだ。しかし待てと言われて止まる人間はいない。
「そんな無様な格好で会いに行ったら逃げられるだけだぞ!」
ピタッと俺の足が止まった。言われてみればそうだ。必死に走って追いかけるだけでも気持ち悪いのに、カエル跳び+俺補正が掛かったら脱兎の如く逃げ出すに違いない。今度こそ法のお世話になってしまう。
しかしこの体勢を解除してしまったら立てない。奴の蹴りの威力は尋常じゃなかった。普段の俺ならのたうち回って、人目構わずおんおん叫びまくってるレベル。
そんな蹴りを受けて耐え切れたのは名迫さんへの一途な愛故に違いない。愛してるよ、白雪。
「何やってるの!早く行きなさい!」
再び母が叫ぶ。気付けば二人はまたおっかない攻防を繰り広げていた。しかも恐らく東野が優勢だ。母は防御ばかりしている。
「うおおおお!!!!」
俺は自分に喝を入れるべく大声を出し、幾度となく太ももを叩いた。動け俺の足!立ち上がれ俺!走り出せ!
「ふん!」
そして胸を張って堂々と立ち上がった。その姿勢を崩さぬうちに、足を前に進めて走る。まだ名迫さんはそんなに遠くに行ってないはずだ。間に合う、東野を振り切れ。
痛む股間に鞭を打ち、俺は走った。その前方には、俺と同じ高校に通う生徒の制服が見える。見間違うはずもない、名迫さんだ。
いや、もう名迫さんなんて余所余所しい呼び方は止めよう。これから友達になるんだから。距離を縮めるには呼び方にも工夫が必要だ。だから俺はこう呼ばせてもらう。
「雪ちゃーーーーーーーん!!!!」
俺の声に気付いた少女は、不思議そうな表情をしながら振り返った。俺の存在に気付くと、その表情は朗らかな笑顔へと変わった。
「どうかしましたか?」
「俺と、俺と……俺と!!!友達になってください!!!」
地面にぶつけるんじゃないかと思う勢いで頭を下げた。これが俺にできる精一杯。これ以上はまだ踏み込めない。
……長い沈黙が訪れた。先ほどまでの騒ぎが嘘のように感じられる静寂。返事に困惑しているのだろうか。それともどうやって拒否するか考えているのだろうか。いくつもの不安が頭をよぎる。沈黙は長かった。
やがて二度、ポンポンと優しく頭を叩かれた。それに呼応するべく、ゆっくりと顔を上げる。
俺の目の前には、優しく微笑む雪ちゃんがいた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
俺はこの時の笑顔を忘れることはないだろう。例えどんなことがあっても。