第一話
教室で迎える退屈な朝のホームルーム。
生徒たちは皆、落ち着いた様子で静聴している。外に意識を傾けると教室まで蝉の声が届いていた。
そんな中で俺は机をバリケードにして、恋愛シミュレーションゲーム、所謂ギャルゲーをコソコソと勤しんでいた。
担任の女教師、若野友美は今日もハキハキとした口調でホームルームを熟している。暑いのにご苦労なことだ。
一方の俺はもうすぐヒロインからの告白シーンに入るので、テンションを上げて大量の手汗を発生させていた。夏の茹だるような暑さは、俺の発汗量を更に増加させていく。
そのせいだろう。俺は普段なら絶対にしない凡ミスを犯してしまった。
手汗に気を取られて、ゲーム機を床に落としてしまったのだ。
当然、そこそこの重量を持ったゲーム機はガララと不自然な音を立てる。その音に気付き、クラスの視線が一斉にこちらに集まってしまった。
「何の音だ?」
咄嗟に若野がこちらを見る。目が合った瞬間、若野の疑問は答えに変わり、大きな溜息を吐いた。
「何の音だと聞いているんだ。前田」
若野はドスを利かせた声で尋ね直した。こえーよ。この平和な国、日本の学校という教育機関で聞ける声じゃねーよ。ヤクザとかマフィアの世界だよ。
若野の問いに答える代わりに、俺は視線を下に向けた。足元にはゲーム機が転がっている。しかし、若野に睨まれているので回収は不可能。そのままこちらに歩み寄る若野が先に回収してしまった。
あ、これ詰んだな。いっそ清々しいぐらいに。もう煮るなり焼くなり好きにしてくださいってね。
「全く、朝からゲームとはいい身分だな前田。ホームルームなら許されるとでも思っていたのか?」
ゲーム機を左手に持った若野は、俺の首を腕でホールドして耳元で言った。生温かい息が耳にかかる言い様のない高揚感とは裏腹に、氷のように冷たい汗が背中を伝う。ヤバイ。殺意の波動が伝わってくる。
「ほう、ドキドキメモリアルか。中々いいセンスをしているじゃないか。最も、時と場合を選べばの話だが」
拾い上げたゲーム機を一瞥しただけで言い当てられてしまうとは。流石三十代半ば、ドキメモ世代ですもんね。
「真希ちゃんは天使だよなー。因みに私は瑠依ちゃん派だ」
攻略中のキャラ名まで言い当てた若野は、「うんうん」と少し満足そうに頷いてそのままドキメモを操作し始めた。
グーで殴られることを覚悟していた俺は、体罰を回避できたことに安堵する。しかし奴が執行した懲罰は、体罰なんかよりも遥かに恐ろしいものだった。
『私は、キミのことが好きです。誰よりも…誰よりもキミのことが好きです』
高々と持ち上げられたゲーム機からは、真っ赤な顔で愛を告白するヒロインのボイスが流れ始めていた。しかも最大音量で。
瞬間、ゴミを見るような攻撃的な視線が俺に集まる。それとは別に捨て犬を見るような同情的な視線も集まった。止めてくれ、そういう安い同情が一番死にたくなるから。
「ま、これ以上説教するつもりはないが、一つだけ言っておく。お前はまだ高校生だ。ゲームなんぞでシミュレーションせずに、男なら直球勝負するんだな」
ゲーム機を机の上に置いた若野は、鼻歌を歌いながら再び教卓へと戻っていった。
うるせぇ!三十半ばの独身女に言われても何の説得力もねーんだよ!それに俺は相手が見つからないだけだ。来るべき日に備えてドキメモで特訓してるだけなんだよ!バーカ!
「すまない、前田のせいで遅くなってしまった。入っていいぞ」
心の中で毒突く俺を余所に、若野は次の話題に移っていた。心に深い傷を負った僕ちゃんはもう立ち直れそうにないから寝よう…。おやすみプンプン。
「えー、今から転校生を紹介する。他のクラスもホームルーム中なので決して騒がないように」
と思っていたが若野の言葉にピクリと耳が反応してしまった。転校生?初耳だ。ドキメモに熱中し過ぎて聞き逃していたのだろう。
気にならないと言えば嘘になる。しかし、先ほど非難の的になった身としては、平然と前を向くのは無理がある。
机に突っ伏して寝た振りをしながら、少し顔を上げるのが限界だ。その低い視線で、なんとか転校生の情報を得ようと試みることにした。
教室に俺たちと同じ色の上靴を履いた生徒が入ってくる。スカートを履いているので女子で間違いないだろう。と思った瞬間、ざわめきが起こった。
女子のキャーという甲高い声が上がる。男子のおぉ!という野太い声が響く。なんだ、何事だ。まさかスカートを履いた男が来たとでも言うのか。それはそれで凄く見てみたいが、見たら大事な何かを失ってしまいそうな気がする。
「東京から転校してきました。名迫白雪です。よろしくお願いします」
その透き通るような美声を聞いて、俺は堪らず顔を上げてしまった。するとそこにいたのは、ざわめく理由が一瞬で理解できてしまうほどの絶世の美少女だった。
艶のある長い黒髪にハッキリと分かる二重。それとは対照的な白魚のような肌を持ったその少女は、まさに白雪姫の名に相応しい。名迫白雪。俺はその名前を頭の中で三回繰り返した。
「名迫は七年前までこの街に住んでいたそうだ。しかし、この学校については殆ど何も知らない。それはお前たちが名迫についてまだ何も知らないのと同じだ。だからお互い気になることがあったら遠慮なく聞くように」
若野の言葉を聞いて、俺は即座に右手を挙げ立ち上がった。ここで印象付けなければ遅れを取ってしまう。先ほどまで潰れかけていた豆腐メンタルは、ザオリクを使ったかのように蘇っていた。
「ん、どうした前田」
「質問があります」
「それは私の伝達事項に関してか。それとも名迫に関してか」
「名迫さんに関してです」
「ふむ、まあよかろう。ただ誰かさんのせいで時間があまりないからな。手短に済ませるように」
「彼氏……いますか」
俺の声は一瞬でざわめきを掻き消し、教室に響き渡った。まるで空気が凍ったかのような沈黙が訪れる。
そして返事の代わりに、三本のチョークがこちらに投げ飛ばされていた。それは若野の必殺技、通称愛のチョーク。別名ニフラム。所以は性根の腐った生徒を闇に葬るところからだそうだ。俺はゾンビかよ。
マッハで飛んでくるそれを俺如きが避けれるはずがなく、一本はデコに、残りの二本は鼻の穴に突き刺さった。ズボッと勢いよく飛び込んできたそれは、俺の顔をひょっとこの如く歪ませる。
そしてその勢いに押され、俺は椅子ごと後ろに倒れ始めた。
倒れる最中、こちらを見て微笑む名迫さんと目が合った。それは嘲笑ではない純粋な笑顔、まさに俺が追い求めていたものだった。
「いません」
着地間際に聞こえた美声は、俺の脳内でエンドレスリピートされていた。
『いません』
あぁ、なんて素敵な響きなんだ。かつてないときめき。これが俺のメモリアル。青春はたった今始まったに違いない。最高だぜ。
「えぇ、こういうプライバシーに関わる質問は段階を踏んで、場を弁えて尋ねるように。それと名迫、残念ながら席はあそこだ」
俺は天井の蛍光灯を見上げていた。最早誰も俺に視線を送る者はいない。存在しないものとして扱われているのだろう。そんな俺の元に歩み寄る美少女が一人、名迫さんだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを覗き込み尋ねる。あぁ、なんて優しいんだ。感動の余り涙を流しそうになるぜ。っていうか本当に流れた。ついでに鼻血も流れちゃった。てへっ。
流れた鼻血は真っ白なチョークを赤く染めていく。それを見た名迫さんは、慌ててポケットティッシュを差し出した。
「どうぞ」
「あ…ありがとう」
動揺し過ぎてチョークを抜かずにティッシュを詰め込もうとする俺を他所に、名迫さんは隣の席に腰掛ける。俺は授業の準備を始める彼女をただボーッと見つめて惚けていた。
因みにパンツは見えなかった。寧ろスカートの影と白い太もものコントラストに、熱い思いをたぎらせていた。