密かなるマリーゴールド
密かなるマリーゴールド
とすっ、と唐突に、肩とその下に伸びる腕に重みと熱を感じ、ソファで報告書を読んでいた雪乃の意識が、活字から離された。
重みのする方へ少しだけ首を巡らせれば、こちらへと体重を預け頭を傾けている遠矢がいた。
何だろう、と一瞬疑問符を浮かべる雪乃だったが、前髪の奥にある生意気さを孕んだ瞳が固く閉じられているのを見て、ああ、と納得する。
耳をすませば、くーくー、と微かに寝息のような音が口からもれている。
つまり。
遠矢はソファの背もたれと雪乃を支えにし、眠っていた。
彼が先ほどまで読んでいたのであろうマンガは手から滑り落ち、ぽてり、とソファの上に力なく落とされている。
「すぅ……」
遠矢の規則正しい吐息が、触れてしまいそうなほど近い距離にある。
よほど疲れていたのか、はたまた夜ふかしからくる単なる寝不足か。
決して楽な体制ではないにも関わらず、深い眠りへと入っているようだった。
気のせいだろうか。
普段の騒がしさが失われ、無防備な姿を晒している遠矢は、心なしか幼く見える。
「…………ふぅ」
完全に全身の力を抜き、乗りかかっている遠矢の重さに、雪乃は小さく息を吐く。
別に、重くはない。
たとえソファがなく、全体重を乗せられたとしても、それを支えきれなくなるほどヤワな作りはしていない。
だが。
重さには問題なくとも、これでは行動に制限がかかってしまう。
邪魔だ、重い、と言って立ち上がり無理矢理起こしてもいいのだが、スヤスヤ、と子どものように眠っている遠矢の顔を見てみると、何だかそれも可哀想な気がする。
(まぁ、いいか……)
考えたのち、雪乃は心の中で呟いた。
特に、急ぎの用事があるわけでもない。
たまには遠矢に付き合ってやるのも、いいだろう。
それに、普段ツンデレな彼がちょっとだけ素直に甘えているようにも、見える。
雪乃は小さく笑うと、遠矢の頭をよしよし、と撫でる。
すっかり熟睡している遠矢は、前髪をサラサラと触られているそんな刺激に気付くことなく、微動だにせず静かに雪乃へとくっついている。
「大丈夫か?」
ふと、イッサーの声がした。
声がした方へと視線を向ければ、一体いつからそこに居たのか。
それまで姿を消していたイッサーが、流れる銀髪を煌めかせこちらを見つめていた。
――――大丈夫か。
彼が発した言葉。
それが、何に対しての『大丈夫か』なのか一瞬、わからなかった雪乃だったが、すぐに遠矢のことであると理解する。
「うん、大丈夫。問題ないわ」
突然と姿を現したイッサーの問いかけに、特に疑問も抱かず受け止めた雪乃は、遠矢が起きないように配慮しながら囁くように答えた。
「そうか」
イッサーは短く返すと、向かいのソファへと腰を下ろす。
どうやら、そこで過ごすつもりらしい。
「遠矢は、疲れているのか?」
「ん~どうだろね?」
雪乃は、曖昧に笑う。
雪乃とは違い声のトーンを落とすことなく普段通りに喋る彼は、自分の声で遠矢が目覚めようが、そんなことはどうでもいいようだった。
それどころか、雪乃が大丈夫じゃない、と答えていようものなら、問答無用で遠矢を叩き起こしていたに違いない。
「でも仕方ないから、もう少しだけそっとしておこうかな、とね」
苦笑まじりに呟いて、持っていた報告書を静かにテーブルの上へと置いた。
まだ全部に目を通してはいないのだが、僅かな振動や音で起きてしまうかもしれない。
なでなで。
もう一度、頭を撫でる。
口や態度では困った様子を見せている雪乃だったが、遠矢を撫でるその手はいつまでも優しく、黒曜石の瞳も柔らかい。
「………………」
そんな雪乃を、じっと見つめる目があった。
「……ん?」
向けられる視線に気が付いて、雪乃は遠矢から目と手を離し、視線の主、イッサーへと注意を向けた。
ばっち!と音でも聞こえてきそうなほどの勢いで、視線がぶつかった。
けれどそんなことよりも、雪乃の視界を一瞬で埋め尽くすイッサーの姿に、意識が奪われた。
腰を過ぎるほど長い銀糸の髪が、窓から差し込む太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
笑っても怒ってもいない、凪のような精神状態を宿したまま、中性的な美貌を放ち高貴さすらも漂わせ無言で鎮座しているイッサーを、雪乃はじっと見つめ返す。
綺麗だな、と素直に思う。
まるで、鮮麗された人形のようだ。
そんな雪乃の心情を知ってか知らずか、イッサーも雪乃へと視線を注ぎ続ける。
黒い瞳と金の瞳が、絡み合う。
「………………」
「………………」
沈黙。
お互いに見つめ合い、交錯する視線はひどく互を意識した熱いものが込められているにも関わらず、部屋に流れる空気は澄み切っている。
とても心地よい静寂が、辺りを支配する。
何だか、こうやってイッサーの姿をマジマジと見つめるのが、とても久しぶりなことのように思えた。
――――思って、はた、と気付く。
いや、違う。
本当に、久しぶりなのだ。
前に彼に会ったのは……。
「えっと……。三日ぶり、くらいになるかな?」
最後に会った時の事を思い出し、囁き声を保ったままで問いかけた。
「ああ」
「今まで何をしてたの?と言うか、何で今まで出てこなかったの?」
雪乃は、小さく首を傾げた。
その口調に、心配や不安といったマイナスな感情は一切含まれていない。
純粋に、自分とは関わりのない空白の三日間を把握したいだけだった。
そんな雪乃に、イッサーはさも当然とばかりに、
「呼ばれていない」
さらり、と答えた。
「………………」
いや、まぁそうなのだが……。
想定外の言葉に、雪乃はそれ以上の返答に窮する。
まさか理由が、呼ばれていないから現れなかった、だけだとは思わなかった。
彼は、自在に己の姿をかき消し空気に溶け込む力を有している。
それ故か、姿を消した状態で雪乃の傍にいることが多い。
たとえ姿が見えなくとも、気配で傍にいることを感じ取ることの出来る雪乃にとって、それはさしたる問題ではないし、何か起これば瞬時に助けてくれるのはわかっている。
だが逆を言えば、何もないと平気で数日間会わないということもある。
そこで再び、雪乃はハッとする。
三日間会っていないということは……。
「イっちゃん、ずっと何も食べてないってことじゃないのっ」
声は抑えているものの、驚きと焦りを含んだ口調で言った。
「………………」
沈黙で、イッサーは肯定する。
本来ならば食事を摂らなくても、生命には何の支障もない肉体を持つ彼らだが、日々、甲斐甲斐しく料理を作っている雪乃のプライドが、それを許さなかった。
一日くらいは平気だが、三日ともなると話しが違う。
雪乃はすぐさま冷蔵庫にある材料で作れる簡単メニューを頭の中に思い描き、
「何か作ってくるから、ちょっと待っててっ」
言うが早い。
雪乃はソファから立ち上がった。
そうなると、それまで雪乃を支えとしていた遠矢の身体は当然のように傾き、バフっとソファへダイブする。
「…………ぅっ」
呻き声が、聞こえた。
どうやら柔らかな衝撃が、覚醒を促したようだ。
しかし遠矢の声などお構いなしに、雪乃はそのままキッチンへと駆けて行く。
もはや雪乃に、遠矢の眠りを守るという意志はない。
「……あ、ふぁ~……」
もぞもぞ、と動き出した遠矢が、あくびを一つ。
まだ完全に目覚めていない虚ろな意識の中でゆっくりと身体を起こし、瞳を瞬かせる。
「は、れ?おれ、ねてた?………あ、いっさ~?いたの、か……」
自分が眠っていたことを認識し、イッサーがいるこに気が付いた遠矢は、目を擦りながらぼんやりと銀髪を見つめる。
「ふあぁぁぁ~~」
まだ眠気から開放されていないのか、遠矢は大きく口を開けあくびをする。
「何か知らんが、よく寝たような気がする」
そう言いながら遠矢はソファに座ったまま、ぐぐ~と手足と背筋を伸ばし起き抜け特有の気だるさを振り払う。
「あれ?ゆきは?」
確か隣にいたよな、と落としていたマンガを拾いながら遠矢が言う。
「料理中だ」
イッサーが、答えた。
「料理ぃ~。何で?」
こんな時間に、と思いながらキッチンへと視線を巡らせた遠矢は、冷蔵庫を開け閉めしている雪乃を見つける。
イッサーの言う通り、何かを作ろうとしているようだ。
「ゆき~。今から何を作るわけ?」
ソファから身を乗り出し、遠矢は声を出した。
「ああ、起きたの?イっちゃんに、チャーハンでも作ろうと思ってね」
声に導かれ、ちらり、と遠矢を一瞥した雪乃は、すぐに手元に視線を戻しながら言った。
「え?イッサーにだけかよ……。おれも食うぞ」
「あんたは昼ごはん食べたでしょ」
「寝て起きたら腹減った」
「子どもか」
なんて呆れながらに言い返しつつも、雪乃は突如増えたもう一人分の材料を集めはじめる。
「………………」
「サンキュ~」
己の要求がすんなり受け入れられたことを確認し、満足したのか、遠矢はひらひら、と手を振って体勢を戻す。
すると、じっとこちらを見つめるイッサーと目が合った。
「………………」
彼にしては珍しく、何かを言いたげな、そんな目だった。
「…………何だ?」
遠矢は、訝しげに問う。
「………………」
けれど、イッサーは答えない。
無言で、遠矢を直視し続ける。
「……な、何だよ」
感情を掴ませない金の双眸に見つめられ、黒曜石の双眸に動揺が走る。
怒っているわけでは、ないようだ。
けれど、何かしらの含みがありそうな、そんな視線が遠矢へと絡み付いてくる。
あまりの居心地の悪さに、身じろぎする。
「いや……」
イッサーは、ふぅ、と小さく息を吐くと、ようやく遠矢からつと視線を外し、今度はキッチンの方へと目を向ける。
キッチンでは、鼻歌でも歌ってしまいそうな勢いで雪乃が楽しそうに野菜を切っている。
二人分のチャーハンを作るのに、そう時間もかからないだろう。
出来るまでマンガでも読み直すか。
何て遠矢が思っていると、おもむろにイッサーが立ち上がり、キッチンの方へと歩いて行く。
おそらく、手伝いにでも行くのだろう。
「……何なんだ、あいつ…………?」
先ほど感じた微かな違和感の正体は、結局わからずじまい。
揺れる銀糸を背中に流し去って行くイッサーの後ろ姿を眺めながら、遠矢は困惑しきった表情で呟いた。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
予定では、遠矢くんとののほほん話しになるはずだったのに、途中からイっちゃんが参戦。
タイトルまで、さらっていきました。
マリーゴールドの花言葉 『嫉妬』他




