転生の刻
身体に力が入らない。
頭に靄でもかかったかのように、思考もはっきりとしない。
頬が床に触れているようだが、その温度も固さも曖昧にしか感じ取れない。
ただ、自分が横たわっているということだけは理解できた。
左手を支柱にし、ぼんやりとした頭に右手で触れながら、鈍重な上体をなんとか起こす。
そして気力を振り絞るように、ゆっくりと両目を開く。
「……ここ、どこだ!?」
双眸が映した光景の異常性を悟ると同時、俺は急激に覚醒した。
そこに広がっていたのは、ただただ真っ白なだけの空間だった。
どれだけ目を凝らしながら辺りを見渡したところで、何かしらの形状を持った物体はおろか、地平線すら判別できない。
完全なる無の世界と言っても良いだろう。
目覚めた当初は明順応が遅れているだけかとも思ったのだが、時間の経過と共にその可能性は消え去って行った。
待て待て待て。
俺はなんだってこんな場所にいるんだ!?
心が混乱に掻き乱される。
眼前に広がるのは、現実では決してありえないだろう情景だ。
けれども俺の精神と肉体はかたくなに、今いる場所は夢の中などではないのだと訴えかけてくる。
直前の記憶を掘り起こす。
雨が降りしきる中、執り行われた高校卒業式の帰り道。
俺は三年間連れ添った友人達と別れ、自宅へと続く下り坂を、崖に面したガードレール沿いに一人で歩いていたはずだ。
あまりの冷え込みに、おてんとさまも少しは俺の門出を祝ってくれても良いのにな、などと考えながら、坂道の中程にある丁字路に差し掛かったとき。
そうだ。
そのとき丁字路の影から、突如猛烈な勢いでトラックが飛び出して来たのだ。
俺の記憶はそこで途切れている。
それより先の記憶は、どれだけ頭を捻っても出てこない。
ということは、だ。
「俺、もしかして死んじゃったのか?」
だとすると、あまりにもあっけない最期だ。
痛みだとか苦しみだとか、そういった類のものを全く感じなかったことがせめてもの救いか。
一応の納得を得たことにより幾許か静まった心中でそんなことを考えながら、あまりにも短い自身の人生を嘆いてやろうとした瞬間のことだった。
『その通り。
貴様は死んだのだ』
穏やかでありながら、しかし冷徹さを含んだ静かな声が、どこからともなく聞こえて来た。
年若そうな、だが威厳に満ちた女性の声だ。
「誰だ!」
俺は反射的に叫んだ。
同時に辺りを見回すが、どこにも人の影は無い。
発生源のまるで分からないその女の声は、あたかも俺の意識に直接語りかけてきたようで、僅かだが恐怖すら感じさせる。
『妾はあまねく世界を統べる神々の一柱。
死と再生の神、クレアーティ』
声が、静かにそう告げた。
神様!
それを聞いた瞬間、俺の胸の内に突如ある期待が湧いて来た。
先ほど感じたばかりのはずの恐怖が、どこか彼方へと吹き飛んで行く。
もしかすると、このパターンは。
『貴様に一つの機会をくれてやろう。
これからある世界に転生し、勇者として——』
やっぱりそうだ!
間違いない。
異世界に転生し、勇者として大活躍。
神様から授かった凄い能力で、次々とやってくる強敵達もバッタバッタとなぎ倒し、たくさんのヒロイン達を囲いながら世界を救う!
俺がよく読むファンタジー小説の中でもとりわけ好きなジャンルで、自分を主人公に置き換えた妄想なども毎日のようにしていた。
うっひょう!
さっきまでの絶望が、嘘のような一発逆転だ。
ビキニ鎧の女剣士、寡黙な魔女っ子、褐色肌のアマゾネス、金髪巨乳エルフ、亡国の王女様。
かつて思い描いたヒロイン達が、俺の脳内を次々と駆け抜けて行く。
ああ、今すぐにでも冒険の日々へ!
『——というわけだ。さあ、どうする?』
あっ、しまった。
妄想に囚われて、神様のお話を全然聞いていなかった。
おそるおそる、聞き返してみることにする。
「す、すみません……。
もう一度お願いできますか」
『……』
場に、静寂が訪れた。
うぅ、この沈黙、なんだか怖い。
しばしの時を、俺はビクビクとしながら過ごす。
やがて俺の眼前に淡い青色の光が生まれ、人の形を成す。
それを見た俺の頭の中に、雷を受けたような衝撃が走った。
それは、少女の姿をしていた。
外見的には高学年の小学生か、或いは少し発育の遅い中学生といったくらいか。
肩に届かないミディアムヘアは、新雪を思わせるほとんど純白に近いシルバーブロンド。
サラサラとしつつも柔らかそうで、思わず指を梳き入れてみたくなる質感。
真っすぐこちらに向いている彼女の双眸へと視線を移す。
その瞳の色は、見つめているとそのまま吸い込まれてしまいそうな深い蒼。
先ほどの声と同様に、一見穏やかでありながら、しかし冷徹さを感じさせる眼だ。
言われなくとも本能で理解できる。
この存在こそが、先ほどまで俺に語り掛けて来ていた神、クレアーティ様なのだろう。
とても人間の物とは思えない、静かでいながら尋常ではない威圧感を発している。
彼女の瞳からさらに少し視線を下に落とす。
透き通るような白い肌を、白く染めた北欧の民族衣装のような形状の装束に包んでいる。
そして、再びその瞳へと視線を戻す。
この僅かの間に、俺は眼前の神様に告げるべき第一声を決めていた。
「……結婚して下さい!」
それはまさしく、一目惚れだった。
一時の沈黙の後、クレアーティ様が口を開いた。
「ではもう一度、重要な部分だけを繰り返す」
あれ?
一世一代の覚悟でキメた、俺の大告白は華麗にスルーですか!?
淡々と言葉を発した彼女の表情は依然として、澄んだ湖面のように静かなままだ。
……だが待てよ。
心なしか、彼女の氷の宝玉のような瞳から感じられる冷徹さの度合いが増大しているような気がする。
いや、それはきっと俺の気のせいだろう。
……待て待て。
どことなく、哀れみの念すらもが僅かに混じっているような気がする。
いやいや、それもきっと俺の気のせいに違いない。
そんな俺の流転する心中は余所に、クレアーティ様は再びの言葉を紡ぐ。
「今、ある世界に危機が迫っている。
その世界は巨大な魔の出現によって、本来保たれていなければならない光と闇の勢力の均衡が崩れてしまったのだ。
このままでは、いずれ世界そのものが魔に沈み消滅するだろう。
そこで妾達神は、貴様のように死した人間を無作為に選出し、新しい命と力を与えた上で世界を救う勇者として送り込むことを決定した」
要するに、向こうで勝ち組人生を送れるだけの能力をあげるから、それを使ってその世界も救ってくれと言うことだろうか。
しかしこのとき俺の中では、そんな知りもしない世界に対する興味はすっかり薄れてしまっていた。
今重要なことは、いかにしてこの眼前の美と可憐の化身と恋仲になるかということだ。
だが彼女の次の一言が、俺のそんな思考を揺さぶった。
「その世界の崩壊は、近傍に属する世界——すなわち貴様が生きてきた世界をも巻き込む可能性が高い」
脳の深い部分に冷たい水滴を落とされたような感覚。
その時頭を過ったのは、俺といつも親しく接してくれていた人々の顔。
かーちゃん、とーちゃん、ばーちゃん、じーちゃん、妹、幼なじみ。
それから級友達に、後輩達に、先輩達も。
死んじゃった俺はもう会うことすら出来ないけれど、これからも順風満帆に人生を謳歌して貰いたいと思う人はたくさんいるのだ。
彼らにまで危機が迫っていることを知ってなお冷静でいられる程、俺の精神は頑強には出来ていない。
クレアーティ様に対する未練を断ち切れるのかと問われれば、はっきり言ってそんな自信は毛頭無い。
ここまで強烈に、それもこんなにもあっさりと、他人に心を奪われたのは生まれて初めてのことだ。
俺はこの決断を、この先もずっと後悔し続けることになるのだろう。
だが、しかし。
「……分かりました。
俺、勇者やります!」
僅かな逡巡の後、俺は彼女に決意を告げた。
それが彼女の望むことでもあるだろう。
世界を救うなんて大事に対して、俺なんかが大した役に立つとも思えない。
だけど、そんな俺でも少しでも力になれると言うのなら、喜んでこの身を捧げてやろうじゃないか!
クレアーティ様はゆっくりと俺の右隣に移動すると、そこで振り返り俺と同じ方角を向いて並び立った。
少し肘を出すだけで触れることが出来る距離に彼女を感じ、鼓動が高鳴る。
そんな俺を気に留める風もなく、彼女は視線を僅かに上向けると、その美しくも可愛らしい腕を軽く振った。
するとそれまで何も無かった空間に、まるでコンピュータゲームのキャラクターエディット画面のような映像が淡い燐光と共に浮かびあがった。
大きなタブレットの液晶画面が、そのまま空中投影されているような感じだと言えば良いだろうか。
俺の隣で画面を眺めつつ、彼女は説明してくれる。
「これは貴様達地球の人間へと、出来るだけ希望に沿う形で力を与える為に考案された転生装置だ。
生命体の能力という曖昧なものをいくつかの側面から数値化しており、貴様らが言うところのゲームキャラクターを構築するかの如く設定が行える」
考えてみれば、思い描いた希望をそのまま言葉で伝えるのは確かに大変な手間だろうから、これはとてもありがたい配慮だ。
画面の中央には人の姿を象ったような画図が描かれ、各部位に空きスロットのようなものが存在する。
右隣に描写されているリスト——皮や金属の鎧に両刃の長剣など、中世ヨーロッパ風ファンタジーゲーム然としたアイテムが並んでいる——から選択した装備品類を、このスロットへとはめ込めば良いのだろう。
画面下部の矩形のスロットは、ポーション等の消費物を含めたアイテム全般を放り込む為の、言うなればアイテムボックスか。
画面左には、キャラクターのステータスの略称らしき文字列と、対応する数値が並んでいる。
一番上に残り二百ポイントという表示があるが、これが振り分け可能ポイントで、各ステータスの増減ボタンを押すことによって能力を変化させることができるのだろう。
ステータスのVITはvitalityの略称で生命力、STRがstrengthの略称で筋力だと思われる。
現在各項目に表示されている、二だの三だのの数値が各ステータスの基準値だとすると、最初から二百ものポイントを割り振れると言うのはかなりのサービスだと考えて良いのだろうか。
しばらくの間、俺は画面を見つめながら、どんな感じのビルドにしようかといろいろと思い描いていたが、ふとステータスの略称に分からないものが混じっていることに気が付いた。
分からないことはちゃんと聞いておかねば。
「クレア様クレア様」
右隣に立って悠然と画面を眺めていた神様に、親しみを込めて呼びかける。
「妾の名を略すとは、馴れ馴れしい人間だな」
彼女はそう言うけれど、その顔に不快を示すものは浮かんでいない。
……というか、さっきから表情全然変わらないな。
無表情な今でさえこの世のものとは思えないほど可愛いのに、これで笑顔なんて見せてくれた日には、俺は一体どうなってしまうのだろう。
あ、実際この世のものではなかったか。
まあそれはそれとして、質問を続けよう。
「DEXって何でしたっけ」
左手で画面を指差しながらそう問いかけた俺に、クレア様は即答してくれる。
「dexterity。
器用さのことだ」
ああ、そう言えばそうだった。
なぜか俺、英語の略語ってすぐ忘れちゃうんだよな。
あ、その下のもド忘れしたぞ。
「クレア様クレア様」
右の人差し指で彼女の肩をつつきながら、俺は再び呼びかける。
「妾の身に触れるとは、恐れを知らぬ人間だ」
そう言うクレア様の表情に、今度は僅かながら笑みが混じる。
けれどもそれは、俺が想像していたものとは違って、心無しかとっても邪悪なものを感じさせる笑顔だった。
でもこれはこれですっごく可愛い上に、M心がくすぐられる。
おっと、質問を続けねば。
「AGIって何でしたっけ」
再度左手で画面を指差しながらそう問いかけた俺に、クレア様はまたも即答してくれる。
「agility。
素早さのことだ」
そうだったそうだった。
今まで遊んだことのあるゲームでも、何度か見たことはあるはずなんだけれどな。
いずれにせよ、これでステータスで分からないことは無くなった。
ステータス欄の下には、OKと書かれたボタンが存在する。
各ステータスにポイントを割り振って、初期所持アイテムを選択して、最後にこれを押せばキャラクタービルド完了ということだろうか。
作業を始める前に、念のためこれについても確認しておこう。
「クレア様クレア様」
右手を彼女の華奢な肩へとそっと廻し、抱き寄るように呼びかける。
おお、なんて柔らかい身体なんだ。
ただこうしているだけで、心の中に幸せな気持ちが溢れてくる。
だけど俺のスキンシップに対する、先ほどまでのような反応が無い。
しかも身長差のせいで、可愛いお顔が見えなくなってしまったぞ。
クレア様の顔を覗き込みつつ、俺は尋ねる。
「このボタンは最後に押せば良いんですかね」
伸ばした左手の指先が何かに触れるのを感じるのと同時に、俺の視界は強烈な光に包まれた。
◆
暖かな光に照らされ、俺はゆっくりとまどろみから醒める。
うっすらと目を開くとそこには、雲一つない一面の青空が広がっていた。
頬を撫でる風に含まれる、植物の穏やかな香り。
顔を横にやると、ここが生い茂る森に囲まれた草地だということが分かった。
背中から伝わる柔らかな草の絨毯の感触。
あまりの心地よさにこのままもう一眠りしてしまいたい誘惑にかられた俺はしかし、足下の方に人の気配を感じて視線を向け、瞠目した。
透き通るような白い肌。
新雪のように白い髪。
それは、まさしく陽光の中に浮かびあがった天使。
起伏の少ない身体すら、どんな芸術作品よりも美しく見える。
そこには生まれたままの姿のクレア様が——神様がどんな姿で生まれてくるかは知らないけれど——、寝転がる俺の両足を跨ぎながら、見下すように佇んでいた。
あまりの光景に声を失う俺。
そんな俺と視線が合ったことに気付いたらしき彼女は、その氷の宝玉のような蒼い瞳に若干蔑むような色を加え、澄んだ声音で呟いた。
「散々おちょくってくれたあげくにこの仕打ちとはな……」
よくわかりませんがそんなことより何だかいろいろ全部見えちゃってますよクレア様!
嬉しいですがせめて前くらい隠して下さい!
ついでに恥じらいなんかも見せてくれるとさらに可愛く見えると思いますよ!
そんな俺の心の声を知ってか知らずか、彼女は自身の格好については触れもせず、何やら恐ろし気なことを語り始める。
「貴様が妾の身体に触れていたことで、転生装置が妾をも巻き込む形で作動してしまったようだ。
それも貴様はまだ能力の設定を始めてすらいなかったのだから、当然能力値ボーナスも初期アイテムも一切無しでな。
妾と貴様の置かれた現状は最悪に近い」
見下ろされながらクレア様の話を聞いていた俺は、意識を失う直前に自身の指が何かに触れたことを思い出す。
「やっぱりあれ、ビルド完了ボタンだったんですか!」
やはりあのOKボタンはキャラクタービルドを終了し、俺を異世界へと転送するためのものだったらしい。
そして俺はどうも過失によってそのボタンを押してしまったようだ。
「ごごごごごごめんなさい!!」
とんでもないことをしでかしてしまった。
見下ろすクレア様に慌てて両手を合わせて謝る俺だったが、彼女は特に怒った様子も無く、それどころか、「その点については予め注意を行わなかった妾にも落ち度がある」とまで言ってくれた。
あれ、クレア様、雰囲気は怖いけどもしかして心はとっても鷹揚?
やっぱり天使じゃないか!
俺が改めてクレア様の素晴らしさに感激していると、彼女は「ここからが重要だが」と前置きした上で話を続けた。
「あの装置による初期設定の効果は妾にも適用されている。
つまり、何の力も装備も無い人間が二人、未知なる土地に放り出されたようなものだ」
ああ、彼女がすっぽんぽんなのはそういう理由か。
しかしそれは要するに、この世界を救うどころか、まずは自分達が生きて行けるかどうかすらも怪しくなったと言うわけで。
いや、そんな弱気なことではいけない。
「クレア様は俺が絶対に守ってみせます!」
力強くそう宣言した俺に彼女は「期待はせんがな」と、少し悪戯な笑みを浮かべた。
彼女が時折見せる、神聖でありながらも邪悪さを秘めたこの表情は、やはりとても魅力的だ。
この顔を目にするだけで、自身の全てを彼女に捧げたくなってしまう。
そんなことを考えていた俺は、この世界への転生を決めたそもそもの理由を思い出した。
「そういえば、こんなことになっちゃった俺が、勇者の枠を一つ消費しちゃってるのはまずく無いですかね……」
俺の心配に対してクレア様はしかし、それは特に問題無いと言う。
「確かに特定の世界へ転生可能な者の総量は決まっている。
だがそれは転生時に与えられる強大な力を、対象となる世界がどれだけ受け止められるかによるのだ。
何の力も無い妾と貴様の二人程度、誤差にもならん。
すぐに別の候補が見つかるであろう」
「な、なるほど」
本来自分が担うはずだった仕事を他人に回してしまったことに若干の後ろめたさはあるものの、それを聞いて心の不安が少し晴れた。
そこで俺は先ほどからずっと気になっていたことを、未だに俺の両足を跨いで佇んでいるクレア様に尋ねる。
「ところでその格好、恥ずかしくはないんでしょうか?」
そんな俺の疑問に彼女は、なんだそんなことかと言う風に答える。
「人間如きに見られて恥ずるものなど妾には無い」
う、もしかして俺は異性としてすら認識されていないのだろうか。
だが、続けて彼女は目線をさらに下げて呟いた。
「もっとも、貴様のその汚いモノは隠すべきだと思うがな」
つられるように視線を自分の下半身へと持って行った俺は、そこで自分もまた何も身に付けていないことに気が付いた。
いやん、えっち。