輪廻
手記
もうすぐで日が暮れようかという時分に彼は生まれた。私の子だ。とても泣き声がうるさく、鼓膜を直接くぎやら何やらで痛めつけられている心持ちがした。だが、その時の私にとってそれは嬉しい苦事だった。私の分身が生まれた瞬間、私の心の中で何とも言えぬ喜びと達成感とが混ざり合い、それをどう処理したら良いか分からず、狭い部屋の中を子供のようにはしゃぎながらパタパタと駆け回った。助産師が元気な男の子ですよ、と傍に彼を抱いて寄ってくるまでは、ほとんど我を失っていた。私はまるで豆腐を素手で掴み取るかのような危なっかしく優しい手つきで彼をそっと受け取り、その右も左も分からぬような瞳を妻の顔のすぐよこに近づけた。
「男の子だってさ。」
まだ興奮がぬけず高揚した調子で喋ったせいか、妻は囁くように笑った。その笑顔の中には哀愁とも言えぬさびしさがちらついていた。その時の私はそれに気づかなかった。途端に妻の表情が強張り妻の心臓は働きを失いそして、
死んだ。
妻の死に顔は幸福に満ちていた。窓の外でびゅうと吹いている季節風が杉の葉をさらさらと揺らした。その風が窓の隙間から部屋に入ってきて真白いカーテンを揺らし、そのたびに遮られていた夕日が部屋のなかにこぼれ落ちて、妻の顔をちらちら橙色に染めた。それがより一層、妻の死に顔を美しくした。
後で聞いた話によると、妻はとても子供を産める体では無かったらしい。医者はその事を知っていたが、妻に固く口止めされていたそうだ。私は不思議と妻や医者が私にその事を黙っていたことに対して怒りを感じずにいた。私はとにかく誕生の歓喜と死別の切なさとの二つの壁に挟まれ動けずにいた。私はその空間から必死に逃げようともがき苦しみ、ようやく抜け出した頃には私の心はごみ箱の空き缶のような有り様でくちゃくちゃに潰れていた。
なぜ妻はあんなに嬉しそうにそして満足そうに死んでいったのだろうか、その時の私にはそれが到底理解できなかった。理解ができなかったので自分だけ幸せそうに死んでいった妻を憎たらしくも思った。
時は経ち彼は成人して最愛のひとを手に入れた。結婚式もつい先日に開かれた。とても幸せそうな様子だ。私もその様子を見ていて幸せな心持ちになった。そしてまもなく新しい命が生まれるそうだ。本当に楽しみだ、早く顔を見
この手記の著者はここまで書いてその生涯に幕をおろすことになった。死因は持病の悪化だった。しかし亡骸の顔に苦しんだ様子はなく、実に晴れやかで満足そうであった。
その日一つの生命の灯火が静かに消え、その消えた灯火が移ってきたかのように別の生命に温かい火を小さく灯らせた。それはあの日と同じだった。やがて窓から射した夕日が亡骸の顔を美しく照らした。これもまたあの日と同じであった。