始まりは赤い風船が
ぴしゃりぴしゃり
水滴が規則的に落ちている。今聞こえるのはその音だけど他にはなにも聞こえない。
ずいぶん前からもう逃れる体力は残っていなかった。今身体に感じるのはその水の音だけ。
腕に食い込む紐の痛みはもうない。その代わり腕は痺れたように力が入らない。
空腹感も喉の潤いも一切感じない。今ホントに心臓が動いているのが不思議なくらいに。
ぴしゃりぴしゃり
水の音は続く。
日が当たらないこの部屋では今が朝かも夜かも分からない。ここに監禁されてから何日目なのかも分からない。
1時間?10時間?はたまた1日?3日?1週間?はたまた1ヶ月?
もう嫌だ。私はなんでこんな目にあっているの?なんで辛い目にあわなくてはならないの?
しかし誰も答えてくれない。分かっていながらも問わずにはいられなかった。
これから私はどうしたいだろう。生きた心地のしない今私はどうしたらいいだろう。
ばたりと横に倒れる。手にさらに紐が食い込むがどうしたって事はない。もう安らかに眠りたかった。
だがそこで後ろ髪から心地よい感触がした。軽くだが髪をなびかせてくれませんかる。
振り向くとそこには小さな割れ目がありそこから空気が漏れていた。
なんで空気が漏れているのかなんて理由はどちらでも良かった。ただただその風がとても心地良く、私は今生きているんだという気持ちにさせてくれた。
今はご飯も水も服もななにもいらない。
ただこの風さえあれば私は生きていける。この風が私のすべてでこの風が私の心臓と同じなのだ。
私は助けがくるまで風を浴び続けて待ち続けた。
これが今の私の始まり。
今日は夏真っ盛りだというのにもかかわらずここ最近にしては涼しい日である。いつも五月蝿い蝉も今日は風流を感じさせる。
そんな日だからか外では多くの人が出歩いて久しぶりの快適さを楽しんでいる。
そんな中ある一室で佐竹駆はカレンダーと対峙していた。
「12、13、14……」
指を日にちのマスにあてて一つ一つ数えていく。しっかりと間違えないようにすごい形相でカレンダーとにらめっこをする。
「23、24、25……」
マス目に大きな丸がついているとこれで止まる。
ぷるぷると指を揺らしながら俯いてしまう。
そしてまた気を取り直して最初から数え直そうと思うがこれで6周目であると気づいて指を離した。
赤い丸の中にはしっかりとした綺麗な字で「原稿受け取り日」と書かれている。
その字を見て駆はさらに深く俯いて頭に手あてる。嫌な汗が頬の上を流れていく。
カチカチと時計の音が響いている。11時を長針と短針が表すとハトが軽快に飛び出してきた。
「クルックークルックー……」
15秒程鳴き声が続いてハトは静かに時計の中に入っていった。
それと同時に駆は頭を抱えたまま顔をあげた。 「原稿しあがらねーーーーーー」
これが休日の駆の休日の朝である。
駆はライトノベル作家なのである。
高校1年生の時に趣味で書いた小説を投稿してみたところ審査員の目に止まったのだ。
しかし賞などはまったく狙っていなくて、ただちょっとしたアドバイス頂けたらとそのような軽い気持ちであったため選ばれた時はあまりの出来事に着いていけなかった。
1年ちょっと経った今ではずいぶんと作家としての自覚を受け入れられるようになり現在では4冊の本を出さして貰っている。
だがしかし今のこの状況は少しばかり異なっていて手詰まりを興している。
簡潔にいうと新連載を頂けるようになりその案が何一つ浮かばないまま残り日数が1ヶ月をきってしまったのだ。
さらにいうと今日は寝坊をしてしまいいつもに増して焦りや怒りが込み上げてきたのだ。いつもはこんなにいらいらしていないはずだ。
「でも家でいらいらしていたからって案が出てくるわけでもないしな…」 やっと多少の冷静さを取り戻した駆はベランダを見る。唯一の家の中ではない場所。外とも言えないが気分転換出来るならどちらでもいいだろう。
んーーと腕を伸ばしながらベランダにでる。ここはマンションの6階に位置に位置しているから街の景色がよく見えた。
前にはビルが並び奥にはほんのりと山の面影が残っている。
下を見ると時計をちらちら確認し続けるサラリーマンや楽しそうに猥談をしている女子高生など人が行き来している。
「サラリーマンはこれから電車に遅れて携帯で会社に言い訳を言おうとするけど昨日エッチなサイトを見ていて電池切れで会社に遅刻して怒られるだろうな」
「あそこの女子高生の茶髪の子が学校に着くなり宿題の忘れに気づきあの黒髪の女の子になきつくんだろうな」
駆はそうやって人のこれからの物語を想像するのが好きだ。作家になれたのもそのおかげかもしれない。
なにより今まで続けてきた4冊もここで眺めて思いついたネタも多い。 だから今回も神頼みで来てみたのだがお昼前のこの時間に人はあまりいなく、さっきの女子高生が通ってから人一人通っていない。
今日はハズレらしい。いや実際には今日もだ。ここ最近はまったく当たりがない。自分に自信がなくなるほどに。
「はぁー、やっぱり今までのは運が良かっただけなのかな」
ため息とともにネガティブな発言を吐き出す。 柵にもたれかかり、ぼーっと空を見上げる。ここで一つでも案がでれば暗い気持ちも今日の空のように晴れ渡るだろうに。
空は白い雲一つなくあるのは澄んだ水色と動く赤い斑点だ。
斑点???空に向かってゆったりとその赤い点は上昇していく。
飛行機か!それともまさかUFOか!!
パジャマで目を擦り、もう一度確認する。しかしその赤い点は他愛もない普段からある光景であった。
赤い風船がゆらゆらとその中のヘリウムの力によって飛んでいるだけどあった。
たぶん誰か小さい女の子が離してしまったのだろう。風船は独り淋しくふわふわと昇っていく。 「風船をUFOと間違えるなんて相当まいってるな俺」
口に出すとさらに寂しさと虚しさが込み上げてきた。
また空を見上げる。風船は空の彼方に消えようとしていた。点はどんどんと小さく消えようとしていた。
しかし黒い影がその点をすごい速さで通過した。多分カラスか何かがぶつかったんだろう。影が消えた後にはもう赤い斑点はどこにも見あたらなかった。
「もしもカラスが来なかったらあの風船はどこまで行ったんだろう?日本が見渡せるくらい?はたまた地球を見渡せたのかな?」
生きてもいない風船に感情移入してみたが以外に楽しくて、来世は風船になるのも悪くないなどと馬鹿らしい来世計画を考えついてしまった。
その風船の最後を見てしまったからか妙に親近感を覚えて、とりあえずその儚い命に手を合わせた。なぜだかそのとき向かい風が吹いていた。
数秒後、また赤い風船があった場所に目を向ける。すると今度は赤い斑点でも黒い影でもなく白いひらひらがこちらに向かって舞い降りてきた。 その白いひらひらは何度も風に吹かれて回転しながら駆の元に近づいてくる。
なぜだか駆は柵から身を乗り出すようにして手を伸ばした。10メートル、7メートルと空から下りてくるが届きそうもない。
それでも懸命に手を伸ばす。何が自分をそこまで掻き立てるか知らないがとにかく手を伸ばした。
それは駆の事を無視するかのように駆の目の前を通過した。
だがその時また向かい風が吹いた。そのひらひらは風に乗りながら駆の手の上に綺麗に降り立った。
「よっしゃー、ゲットだぜ」
某アニメの名ゼリフを大声で騒ぐ。
「 やったぜ!一時は届かないと思ったけど諦めずに最後までやってみるもんだな!」
なぜかハイテンションのまま手にあるものを確認してみる。
それは便箋であった。ほんのり桜色の便箋に宛先は書いてなかった。よく見ると便箋の端に糸が付いていてその糸の端には赤い風船のかけらがくっついていた。
たぶんさっきの風船についていたらしく。それを今自分が手にしていると思うと自然とワクワクした。
イタズラか?もしくは海に流す手紙入りのビンみたいな感じか!
誰のとも分からない便箋を開けるのはなんだか罪を犯しているように感じるが中身を見たら誰かだと判断出来るかもしれないしな。
「だから全然中身なんか気にならないんだからね!ただ持ち主を判断する為だけだからね!」
なぜかツンデレ口調の駆は覗いた事がばれないよ……ではなくて持ち主にちゃんとした形で返すために綺麗に封を開けた。
中には便箋と同じ色の手紙が3つ折りでいれてあった。
開いてみると可愛い丸っこい字で埋め尽くされていた。とりあえず読んでみる事にした。
「拝見 これを読んでいる優しい方へ
これを見ているという事は私の飛ばした風船がちゃんと届いたという事になります。なぜこんな事をしたかというと今私は病院で10年以上入院生活をしています。そのため外には出られずに独りで空を見ているばかりです。だから楽しくお話出来る相手が欲しくてこうやって風船を飛ばしました。
だからどうか私の友達になってくれませんか?突然の事で呆れている人もいるかもしれません。でももう一人でいるのは辛くて耐えられません。 どうか少しでも興味を持ってくれた方は下の住所に来てください。
×××県×××市×××
鈴木原病院 605号室
林川 風歌
一気に読み切ったため息を1つつく。まさかホントに出会いを求めてのものだとは思わなかった。
さらにこの鈴木原病院は俺もよく通うところでここから歩いて30分のところにある。
風船の切れ端を軽く握る。なんだかホントにこいつは意思をもっているように感じた。
締め切りは迫っているが今はなぜかこっちの方が優先であるような気がした。そしてこれをする事で執筆の方もうまくいくと、そうやって風船に言われた気がした。
なにより久しぶりに心臓が高調している。この高ぶりを誰が止められるだろうか、いや止められない。
急いでベランダを出て玄関で靴に履き替える。飛び出すように玄関から飛び出した。
とりあえず鍵だけは閉めて部屋の前の通路を走り抜ける。
途中隣の部屋に住む愛想がいいおばちゃんが買い物から帰ってきたらしく正面からやってきた。 「おはようございます」 どんな時でも挨拶は忘れない。ここに来てからまず学んだ事だ。
おばちゃんは片手を頬にあててにこりと笑う。 「おはよう。いつも元気でなによりだよ。それでパジャマ姿だけどもこれからお出かけかな?」 それを聞いて急ブレーキをかける。そして自分の姿を確認する。腕から足まで確認してからUターンをして自分の部屋に戻る。
「ご忠告ありがとうございます」
それだけをいい残してドアを閉めた。
「??よく分からないけどお役に立てて良かったわ。それにしても最近の若い子は元気ね〜」
隣のおばちゃんは手を頬に添えたまま笑顔で自分の部屋に入っていった。
これが佐竹駆の新しい日常の始まりである。