SNSファシズム〜全体主義の警告
SNSによる同調圧力は、疑似的にファシズムの形を取ります。
果たして、私たちは自力でSNSファシズムを防ぐ事は出来るのか。
SNSファシズムカウンターの記事となります。
先日、古賀議員の豊かな子は自衛隊とか行かない発言で、私は、SNS上には正にファシズムの兆候が現れていると指摘しました。
かつて、大衆が自身の自由を捨て、ナチス・ドイツに傾倒していく心理的メカニズムを、エーリッヒ・フロムという心理学者が研究しました。
エーリッヒ・フロムは、その著書『自由からの逃走』で心理メカニズムの仕組みを、権威主義的性格、破壊性、機械的画一として説明しました。
SNS上の古賀議員への非難に際して、それらは色強く出ていたのです。
「古賀議員が何故その発言をしたのかはわからない、でも、自衛隊への侮辱だと思うので非難します」
私はわからない。
けれど、私は非難します。
何だか知らないけれど、周りに合わせて、今、私は怒っている。
そもそも民主主義は、民衆の自由意志を前提に成立しています。
自由意志の根拠である、客観的事実、認識、自由意志による判断。
それらを自由意志の根拠を、大衆の過半が、自らの意志で捨て去り、考える事をやめ、何かに支配される事を望むのなら。
残っている自由意志は、同調圧力の中に葬り去さられ、必ずやファシズムは日本に再臨するでしょう。
何故、自らの目を捨て、自らの耳を捨て、自らの判断を捨て、敢えて、わからない事にまで人々は怒るのか。
そして、その類の決断をしたのは自分自身なのに、何故、わざわざ周りを見て、自分は流れに乗れているのだと安堵するのか。
それら一連の行動は、自由意志を捨てる行為ではないのか。
SNSでの人々の行動は、自由意志を前提とした民主主義を、崩壊へと導く行為ではないのか。
権威主義的性格…自身の目や耳で一切判断などしない。権威ある者の言うことに全面的に従う
破壊性…権威ある者に従い怒り行動する
機械的画一…周りを見て自身が同じ行動をしていると安堵する
自由意志の在り方は、最近私が書いたテーマに深く関わりのある話でもありまして、それは『知性の第一条件』です。
西欧社会の定義してきた人は、常に知性と共にありました。
ブレーズ・パスカルの、人は考える葦である。
オーギュスト・ロダンの、考える人。
知性なくば、ひとに非ず。
しかし、社会に出た経験からすれば、人は、必ずしも知性と共にある訳ではないの事がわかります。
私は『知性の第一条件』で、知性は『自己確立』を前提にして、初めて発現する物だと書きました。
我思う、故に我あり。
我思わず、故に我さえなし。
ありとあらゆる知性の発生には、我の確立が大前提になりますよという物です。
自己確立によって、初めて知性による自身の立場の立脚というニーズは発生するのだと。
自己確立を諦めたなら、知性によって自身の立場を立脚させようなどとは思わないと。
自己確立の機会を失った人には、仮にいくら学んだとしても、真に知性と呼べる物はもう宿りません。
一方で、エーリッヒ・フロムの書いた自由からの逃走は、自由というものは、自由の享受に対しての孤独や責任を受け止めるということが求められるとしています。
その覚悟を持った上で、自由を希求して得た者によって構成される社会こそが、望ましい社会の形態だとエーリッヒ・フロムは主張します。
自由に対する責任や孤独を受け止められない、立場の脆い人間とは、いったい何を指すのでしょうか。
「古賀議員が何故その発言をしたのかはわからない、でも、自衛隊への侮辱だと思うので非難します」
このSNS上で主流の発言は果たして、大衆の自由意志に基づく発言なのでしょうか。
それとも、大衆が自由意志を捨て去り、ファシズムへと傾倒する兆候を指しているのでしょうか。
私はSNSファシズムカウンターとして、一つ指摘します。
わからない事には、感情を動かす必要は一切ない。
何故なら、流れてくる情報に勝手に不安を抱こうが、勝手に不満を抱こうが、結局は、何が起きているかさえ解らないからだ。
わからない、だから怒らない。
わからない、ならば怒らない。
わからない、怒る理由は端からない。
たったこれを実行するで、エーリッヒ・フロムの指摘する破壊性は止まるのです。
仮にそこに自由意志の欠片もなくても、少なくとも、自由からの逃走における、ファシズムへの心理的メカニズムのプロセス、破壊性は消滅します。
例えば高市総理関連の文春報道、私の態度はわからないなーで首尾一貫してまして、それで終わりです。
わからないなら感情の動く要素は欠片もないなー、で終わらせるのが、自然な自由意志を保つ秘訣なのです。
あなたはわからない事に怒って、他人に操られてはいませんか?
そもそも、人々の目となり耳となり、自由意志を補助する役割を帯びるメディアは、古賀議員の発言意図を本当に理解出来なかったのでしょうか?
古賀議員の発言は文脈的には簡単です。
小学生5年生に知識を提供するなら、一面的なものでは無く、包括的な知識を与えなければならない。
あなたにも子供が生まれたのだからわかりますよねと、古賀議員は小泉防衛大臣に指摘します。
その指摘を小泉防衛大臣に無視され、古賀議員は自身の自衛隊に入隊した教え子の子供たちの話を始めましたと。
その後の話がどんな内容になるかは、私が書かなくても、誰にでも予想出来る程度の事なのではないでしょうか?
また、小泉防衛大臣は子供たちと発言していますから、古賀議員の発言が、自衛隊全体ではなく、古賀議員の教え子の話だと、はっきり理解しています。
要は、小泉防衛大臣もメディアも与党議員も野党議員も、古賀議会の発言内容は完全に理解している。
古賀議員の件は、皆が皆、内容を理解している上で、チャンスだから、ただ国民に黙ってやってしまおう。
それだけの話なのです。
自衛隊への侮辱だ。
権威ある人達が言っている事だからと鵜呑みにして、最初から理解する気がないとはいえ、何が起きたかわからないままに、他人に自分の怒りの理由を任せて、ただ攻撃性を発揮する。
そして、攻撃してしまった物だから不安になり、周りの様子を見て、自分と同じなら安堵する。
もし、そんな人が、本当に世の中に居るとしたら、果たして、彼らは自由意志を持っている人と言えるのでしょうか。
民主主義の一員に、自由意志を持たない人々が突如現れ、増え始めたら、我々はどうすれば良いのでしょうか。
また、今回の件では、我々の目となり耳となるメディアの動きも私は気になりました。
メディアが自身のキャリアや、社の風評を意識したせいで、古賀議員を擁護しない所か、真逆の景色を、我々に見せて来たのだとしたなら。
それは、本当に我々の目や耳と呼べる代物なのでしょうか。
私は、このメディアに対しても、SNSファシズムカウンターの一助となる考えが出来ると思ってます。
それは、情報の重さと命の対価によるメディア評価です。
メディアはある程度の閾値を超える価値を持つ情報の報道には、耐えられない構造を持っています。
社の風評、個人の生活、収益、そしてキャリア。
ありとあらゆる報道の天秤には、その人の人生や、企業の命運という命の対価が載せられるのです。
そして、天秤が我が身の命の惜しさに傾いた時、国民の目たるメディアは、その目を歪ませ、国民の耳たるメディアは、その耳を塞ぎ別の言葉を聞かせ、国民の自由意志の補助たる役割を放棄します。
社が安定し、大きくなって、リスクを犯せなくなったから。
キャリアを続けるために、リターンの少ない、大きすぎるリスクには目をつぶるようになったから。
社会が平和になり、ジャーナリズムに命を賭せる人材がいなくなったから。
あらゆる権力がいつか腐敗するように、メディアも腐敗とは無縁ではいられません。
そして、必ずしもメディアが権力に対抗しているとは、限らないのです。
ですから、我々は情報に対しては、ある程度鋭敏であるべきでしょう。
メディア評価の幾つかの指針としては、本来物事をわかりやすくするような中核的な情報を抜く。
簡単にわかるハズの事に対し、何故か、とにかくわからないと言い始める。
一見、権力者を加害していると見せかけて、簡単にバレるような嘘をばら撒く。
こうなったら、メディアはとっくに権力に敗退していると見た方が良いのです。
情報の持つ重要度によって、時にメディアの天秤がいとも簡単に覆る事を、我々は知っておかなければなりません。
では、メディアが権力に敗退している状態で、我々はいったいどのように目や耳を、そして自由意志を、民主主義を保てばいいのでしょうか。
私が前々から言っている事です。
世に不正が蔓延る時にこそ、新聞記者よ、君たちは死ね。
結局、混乱した政治という物は、誰かが死に始めなければ、収まりのつかない物だと私は思います。
混乱した人々は自制が効かなくなっています。
そんなバカな事を言うくらいなら、いっそ死ねと直接言われなければ、正気に戻る事もままならない。
自身の死を身近に置いてこそ、人々の熱狂への奔走は醒める物なのです。
だからこそ、敗戦を経て、人々の熱狂はようやく解け、ファシズムは止まったのです。
そのような世の中では、リスク度外視の傾き者のような人の持つ情熱だけが、人々の自由意志を貫く根源になるのでしょう。
今の日本に蔓延る冷笑の正体は、リスクに対しての忌避行動でもあります。
このような時代において、我々は、一見死にたがりとも思えるようなメディアを探し出し、その価値を認め、逆に安定を求めるメディアとは常に一定の距離を保ち、自身の怒りの理由を他人に委ねないよう、賢くあり続けなければなりません。
自由意志を持つために、知性を獲得せよ。
知性を獲得するために、自己を確立せよ。
人に誇れる知性を獲得したいと思えるニーズは、自己の確立からしか、発生し得ない物なのだから。
──人は考える葦である
どれほど自然や運命に対して無力であっても、人間には自分の置かれた状況や宇宙の広大さ、そして自分自身の弱さについて「考える(意識する)」力があります。
パスカルは、「たとえ人間を踏みつぶす宇宙であっても、人間はその宇宙よりも偉大である。なぜなら自分が死ぬことや、宇宙が自分より優位であることを知っているからだ」と説き、思考すること自体が人間に与えられた唯一無二の尊厳であるとしました。
──考える人
地獄の様子をうかがいながら、人類の運命について苦悩し、思索にふける詩人ダンテ・アリギエーリの姿を表現しています。




