2-5
唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知である。
最初にして至高に至ったとされる、西方世界の歴史において〝最古の術者〟とされる人間の箴言を思い出しつつ……いや、自分に言い聞かせるようにしつつ、フェアルリリムは何とか瞑想に集中しようとした。
体の内に流れる霊力。その流路、結節点、そして勢いを制御することによって増幅し、更に世界を世界たらしめる力と接続して体に取り入れる。
世界晶を経口摂取するのは、あくまで枯れた力を取り戻す効果しかなく、世界との繋がりを深める瞑想こそが容れ物となる自身を拡張する唯一の方法だ。
列島人は当初、乗り込んだ東方で〝仙〟と呼ばれる術者の一種と接触し、何らかの取引を経て体の検査を行ったそうだ。
その結果、仙に流れている血も、肉も、骨も科学的には〝ただの人〟と変わらなかった。塩基配列が〝交配可能〟な程度に列島人と異なる以外の変化はなかったのだ。
結局、それが決定的な決め手の一つとなり、列島人は霊力の観測と実用を諦めたそうであると何かの席でリリムはコウヅキから聞いていた。
「唯一の善は知識であり……唯一の悪は無知である……」
名前を思い出すだけで、甘い感情が甦ってくる男。
あの父に似た優しげな瞳、少し低くて掠れた声、常に気遣って刺しだしてくれる掌。
名前を呼ぶ声は機械からの合成音に被っていても、何となく響きで分かるようになった。あとの二人は板が光らなければ名前を呼ばれたことさえ気付くまいが、自分には完璧ではなくとも分かる。
それは、世界に満ちる霊力を列島人が揺らすことをできないから。
数百年前の古老、没日沈玉のフィーレネイアと呼ばれた賢人が列島に招聘され、今に至って尚も改良され続けている〝翻訳機〟とやらの原案を開発した際に見つけ出した真理だ。
しかし、彼女は微妙な、それこそ熱信に熱信に〝想い人となった〟一人だけを見つめ続けてやっと気付ける、大気を揺らす微妙な波長の差で言葉の違いを見抜いた。
リリム、そう愛称で呼ぶ――何故か列島人は、綴りを末尾から拾うことを好む――彼の声が分かるのは、彼が自分にとって特別だからではないか。
されども、干渉式を練り、世界に爪を立てる者の目的は一つだ。
万能者となること。
次元を超越し、二元論をつま先で弄び、このつまらない世界そのものから解き放たれる。
これこそが幸福であり、自分の至るべき場所だと思っている。
いや、今も本当に思えているのだろうか。
「唯一の善は知識であり……」
本当に? 知識を蓄えることだけがコトを良い方向に運んでくれるか?
コウヅキのことを知るだけで、彼が自分に振り向いてくれるとでも?
ただ一方的に識っていることが、俗人の言う愛とでもいうのか?
それは違うだろうと彼女は考える。
「唯一の善は……」
与え合うことだ。愛とは、即ちそれなのだ。
一人で存在することに耐えられるようになった時点で、人間ではくなったと語った、万能に至った後に〝現世〟に還った唯一の万能者、数寄神喪のゲルトルートは愛に生きて、愛のままに死んだ干渉者の中での奇人。
しかし、彼女が残した血筋は未だに続き、干渉式を高みに至る業ではなく、ただ日々と人々を豊かにする技に堕して西方東部に根付き、豊かな王国を築いている。
散り際に、数多の賢者が彼女を訪れ、何故我々が望んでも叶わなかった万能を捨てたのだと詰問するように問うた。
その全てにゲルトルートは一言。
「愛ですよ、愛」
絶息の間際まで、これだけしか語らなかった。
多くの術者は気が変になったのだだとか、万能に至ることはできても耐えられなかったのだと嘯いたが、そうではなかったのかもしれないとフェアルリリムは考える。かつては自分も同じように歴史書を捲って考えたが、今ならば何故か分かるのだ。
あの優しい声が二度と聞けないとあったならば、自分は今すぐにでも万能になることを望むだろうか? 二元論の向こう側、現実の果てに溶けることを尊ぶだろうか。
今はもう、そう思えなくなっていた。
「唯一の……」
箴言を唱えて精神を落ち着けようとしたが、駄目だった。
今日はよくないなと思いつつ、フェアルリリムは目を開く。
すると、既に自分の部屋は真っ暗になっていた。
「いけない、立ち消えるまでにしようと思っていたのに」
気が付いたら、目の前の香炉には灰ばかりが落ちている。列島から回ってきた、精神集中を助け、同時に時間を計るのに時計よりも無粋でないため好まれている、香炉の上に吊して使う渦巻き型の線香が完全に燃え尽きていた。
これは、もっと長時間の瞑想がしたいと雑談で言った時、コウヅキが贈ってくれたものだ。彼は本国に頼めば、補給品はある程度融通が利くと言ったのでお願いしたが、あの時はよもや彼がそこまで酷い扱いを受けているとは知らず、愚直に甘えてしまったのが今になって羞恥心を擽る。
正に父親が無限の愛を持っていると信じる、馬鹿娘のようではないか。
実際、これを補給箱に入れさせるために、彼は本当に欲しかっただろう何を諦めたのだろう?
素馨の香りがするこれを喜び、抹香臭いと呼ばれることの多い術者なれど、他と違って仄かで好い匂いがすると仲間内で言われたことに喜んだのが愚かすぎて頭が痛かった。
そういえば、世界との同化を高めるために絶食期間であることを言い訳に、コウヅキのことを考えすぎないようにするべく自室に引き籠もったが、彼はどうしているのだろう。
さしものベリアリューズも、あの境遇を知って尚も集ろうとはしないだろうが……。
「でも、リズだし……」
ふと心配になって部屋を出て、世界を軽く揺らす。自分以外では感知できないような薄い薄い霊力の波動は、物体をすり抜けて世界を伝播し、他の霊力に干渉されて淡く返って来る。
列島風に言うのであれば、霊力を使ったアクティブソナーだ。
リリムほどの使い手であれば、隠匿効果のため出力を絞ったそれでも、30m圏内ならば人を識別できる。
隣の客室、その寝台に寝転がっているのはベリアリューズだ。無警戒に大の字を描いて、予備兵装の手斧を枕元に置いて高鼾を掻いている。この感じだとかなり飲んだのだろう。何処かで安く美味い酒を飲めるアテを新しく見つけたのだろうか。
廊下の向こう、探知範囲ギリギリの部屋がコウヅキの部屋だ。このギルドハウスで二番目に上等な客間であり、下級貴族程度ならば貸すのに十分なそこに彼がいるのかは分からない。
ただ、小さくドアが開いていて、内側から光が漏れていた。
術具や蝋燭の明かりではない。コウヅキが書き物をするときに使っている世界晶ランタンの光だ。
気配を消して覗き込んでみれば、思わぬ光景に術師の血の気が薄い顔が一気に紅潮した。
酷く汗を掻いた彼がいたのだ。
野戦服の上を脱いで近くの椅子に引っ掛けて、上体はいつもの肌着だけで筋肉のラインがぴったりと見える。家の中の仕事を能く行い、家畜達を慈しむため重労働を嫌がらなかったが故、鍛えた肉が付いた父と似た体型だった。
しかし、コウヅキのそれはより絞って洗練されている。皮下脂肪をある程度蓄え、その上に筋肉の披甲を纏った肉体は硬さの中に柔らかそうなラインを描き、その相反する二つが同居する美しさを醸し出す。
その彼が顔びっしりに汗を掻いて奇妙なポーズを取っていた。
地面に這い蹲るようにして足を肩より広く広げ、右腕一本で上体を持ち上げている。しかも、よく見れば掌は床についておらず、指先だけで自分を持ち上げているではないか。
フェアルリリムには与り知らぬことだが、これはハイプランクと呼ばれており、体幹トレーニングの中でも特にキツい物だ。肘に体重をある程度預託できるロープランクより更に過酷であり、素人では十秒耐えるところか、この姿勢を維持することさえ困難な者もいるだろう。
外骨格搭乗者は体幹トレーニングに最も重点を置く。
膂力は強力な関節の増幅機構が補助してくれるし、素早さは跳ねるような独得の歩方によって生身での世界記録を容易く飛び越える。
であるならば、兵隊に必要なのはたしかなバランス感覚と体幹だ。どれだけ不自然で辛い姿勢を取ろうとも、揺らがない芯の入った肉体こそが一番の装備。
それを鍛え抜くため、コウヅキは自衛軍時代から鍛錬を欠かさない。
しとどに汗を流し、時折苦しそうな声を漏らしつつも、じぃっと黙って床を睨んでいるコウヅキからフェアルリリムは目を離せなかった。
美しい。そう思ったからだ。
戦うことが仕事ではないはずの男が、家で守られるのが当たり前だと思っている男が鍛えている。
まるで、自分を守るために母の拳から盾になってくれた父のように。
処女を拗らせまくったアゼリアとは違うが、たしかに元来男性は、最後の最後に剣を抜いて娘と息子を守るような強さが尊ばれた。子供を逃がすため女の野盗を数人斬り殺し、死して尚も敵に縋り付いて逃げる我が子を追わせないようにした美談は今にも伝わる。
それを鑑みれば、彼は父親の鑑といえる鍛錬を行っているのではなかろうか。
それにしても、どれくらいあの姿勢を取っているのだろう? かれこれ一分以上続けているが、辛くないのかとリリムは思った。
よく見れば、床を汚さないためか、額を通って顎から滴る汗ばかりはスキンスーツが吸ってくれない故、敷いたタオルの色は変わってしまっている。
それだけ汗を掻く時間を、あの体勢で? と驚いていると小さな電子音が鳴った。
自衛軍の時から愛用している、支給品の腕時計に内蔵されたタイマーが音を立てたのだ。
八分、プランクをやるには異常なほどの時間が過ぎたと。
ゆっくりと腰の裏に回していた左腕が地面を掴み、止めるのかと思ったら、今度はそのまま右手を上げたではないか。
反対側でもやるのかと驚いて身動ぎすると、ギシリと床板がなった。
斥候として人の気配に敏感であっても、全ての集中を要するプランクの最中では気付けなかったのだろう。それでも、音がすれば意識が行く。
『リリム?』
「あっ、そっ、その、そそそそ……」
男性の部屋を意図せずとは言え覗いてしまった罪悪感。鍛えている姿を見られる恥ずかしさも、一種の武人であるリリムには分かった。
『どうか、しました、か?』
しかし、コウヅキはなんてこともなさそうに立ち上がり、彼女からすればもう少し気を払って貰いたい状態を晒しつつ近寄ってきた。
「あっ、いえ……その、ちゃんと、戻ってきたのかと……」
『ああ、リズが、夕飯まで、ご馳走してくれました』
笑顔で報告するコウヅキにフェアルリリムは、明日世界の底が抜けるのではと言う驚愕を覚えた。
奢った? あのツケと借金の塊が? キッチリと?
まだコウヅキから借りた金までは返却できていないようだが、それでも大変なことであるのに違いはなかった。
『おっと、失礼』
言って、呆けて次の言葉を紡げなかったコウゲツが腰のベルトに刺していたタオルを引っこ抜き、顔の汗を拭いにかかった。
それを見てリリムは咄嗟に声を上げていた。
「こっ、コウヅキ! 拭いてあげましょうか!?」
反射的に言って気付く。これはものすごく破廉恥な誘いなのではなかろうかと…………。
セクハラきわきわですわよフェアルリリムさん!!
ということで、湿気がどんどん上がってきました。




