第9話「前線基地」
月のない夜。
雲が厚く空を覆い、星の光すら届かない。
グレンツ砦へ向かう道は、闇そのものだった。
五十名の選抜部隊が、音を殺して進んでいく。
黒い外套が風に揺れる。
足音はない。
呼吸すら抑えている。
レイヴンは馬上から前方を見据えた。
脳内に戦術地図が展開される。
敵の配置。
見張りの位置。
捕虜収容施設の推定場所。
すべてが光る点となって浮かび上がる。
(あと五百メートル)
リリアは隣の馬に乗っている。
その横顔を、レイヴンは盗み見た。
銀髪が闇に溶けている。
赤い瞳は、まっすぐ前を見つめている。
しかし、その手が手綱を強く握りしめている。
西側の森。
部隊は馬を降り、徒歩で進む。
枝を避け、落ち葉を踏まないように。
一歩、また一歩。
やがて、森の端に到達した。
そこから見える——グレンツ砦。
石造りの小さな要塞。
壁の上に、松明の光が揺れている。
見張りが二名。
レイヴンは手を上げた。
部隊が停止する。
ジョルジュとアストリアが前に出た。
「任せろ」
ジョルジュが小さく頷く。
二人は闇に消えた。
静寂。
風の音だけが聞こえる。
やがて、松明の光が一つ、消えた。
また一つ。
見張りが倒れる音すらしない。
完璧な無力化。
ジョルジュが手を振った。
合図だ。
「行くぞ」
レイヴンが立ち上がる。
部隊が砦の死角に向かって進む。
壁に沿って移動。
裏口を発見。
鍵がかかっている。
ジョルジュが魔法で錠を破壊した。
扉が開く。
中は暗い。
一人、また一人と侵入していく。
奥に光が見える。
捕虜収容施設だ。
廊下の先に、牢屋が見えた。
鉄格子、その向こうに人影。
リリアが立ち止まった。
牢屋を見つめたまま、動かない。
牢屋の中に、痩せ細った男性が壁にもたれかかっている。
顔は青白く、頬がこけている。
目を閉じている。
その隣。
床に座り込む女性。
虚ろな目で、虚空を見つめている。
髪は乱れ、服は汚れている。
口が、わずかに動いている。
何かを呟いている。
「父さん、母さん!」
か細い声が漏れた。
震えている。
リリアが駆け出そうとした。
「待て」
レイヴンの手が、リリアの肩を掴んだ。
「まだ敵が——」
その時だった。
けたたましい警報が鳴り響いた。
甲高い音が、砦中に響き渡る。
廊下の奥から、足音。
大勢の足音。
モデルナ軍が殺到してくる。
「罠か!」
リオンが叫ぶ。
「いや、発見されたのか!」
「どちらでもいい!」
レイヴンが剣を抜いた。
「全軍、戦闘態勢!」
兵士たちが武器を構える。
廊下の向こうから、敵兵が現れた。
十名、二十名、三十名。
「迎え撃て!」
激しい戦闘が始まった。
剣と剣がぶつかり合う。
火花が散る。
魔法の光が飛び交う。
「リリア!」
レイヴンが叫ぶ。
「落ち着け!まず牢を開けろ!」
リリアははっとした。
リリアは牢屋に向かって走った。
鉄格子に手をかける。
錠がかかっている。
魔法を集中させる。
光が錠に集まり、バキンと音がして砕けた。
扉が開く。
リリアが牢屋に飛び込む。
父の体を揺さぶる。
「父さん!起きて!」
父の目が、ゆっくりと開いた。
焦点が合うまで、数秒かかる。
「...リ...リア...?」
か細い声。
「そうよ!私よ!助けに来たの!」
父の唇が、わずかに動いた。
微笑もうとしているのか。
その時、敵の魔法使いが廊下に現れた。
杖を振り上げる。
光の弾が生まれる。
一つ、二つ、三つ。
その一つが——
リリアのいる牢屋に向かって飛んだ。
レイヴンの視界に、それが映る。
「避けろ!」
レイヴンが叫ぶ。
駆け出す。
しかし、間に合わない。
時間が、ゆっくりと流れ始める。
光が、空気を裂いて進む。
レイヴンの視界の端で、光の軌跡が線を描く。
その先に、リリアがいる。
彼女の瞳が、光を捉えた瞬間。
赤い瞳孔が、一気に収縮する。
口が、わずかに開く。
声は、出ない。
喉が、息を吸い込もうとして、間に合わない。
顔から血の気が引いていく。
額に、一筋の汗。
体が硬直していて、足が動かない。
父が、娘を見ている。
その瞳に、何かが宿った瞬間、時が動き出した。
父の手が動く。
弱々しく、でも確かに。
リリアの体が牢屋の外に転がる。
光の弾が、着弾した。
爆発。
轟音が耳を劈く。
衝撃波が廊下を駆け抜ける。
石が飛び散る。
煙が立ち上る。
リリアは床に倒れていた。
煙がゆっくりと晴れていく。
リリアが顔を、上げる。
ゆっくりと。
「...父...さん...?」
声が、出た。
震えている。いや、かすれている。
喉が、音を作ることを拒んでいるかのように。
体が動く。
膝が伸びる。
立ち上がろうとして——
足が、ふらついた。
床に手をつく。
冷たい石の感触。
指先に、何かが触れた。
血だ、温かい。
もう一度、立ち上がる。
今度は、成功した。
一歩。
足が、瓦礫を踏む。
石が転がる音。
また一歩。
ブーツの先が、何かに当たった。
見えない。
見たくない。
でも、進む。
また一歩。
視界の端に、倒れている何かが——
父だ。
瓦礫を踏み越えて。
父の傍に、膝をついた。
手を伸ばす。
「父さん」
リリアの手が、父の肩を掴む。
揺さぶる。
一度。
二度。
父の頭が、力なく揺れる。
それに合わせて、口が開く。
閉じる。
まるで何か言おうとしているかのように、しかし声は出ない。
リリアの手が、父の頬に触れた。
まだ温かい。
温度が、少しずつ失われていく。
指先で感じる。
生命が、失われていく。
父の目を見る。
閉じている。
まつげが、微かに影を作っている。
目尻に、しわが刻まれている。
昔、笑った時のしわだ。
もう、開かない。
口が、わずかに開いている。
最期に何か言おうとしたのか。
もう、声は出ない。
リリアの肩が、大きく震えた。
銀髪が、血に染まっていく。
声が聞こえる。
涙に濡れた声。
牢屋の隅、視界の端に母がいる。
壁にもたれたまま。
虚ろな目で、虚空を見つめている。
爆発にも気づいていない。
父の死にも気づいていない。
リリアがいることにも、気づいていない。
ただ、座っている。
人形のように。
「リリア!」
レイヴンの声が、リリアに届かない。
彼女は父の遺体を抱きしめたまま、動かない。
震える肩。
銀髪が、血に染まって赤黒くなっている。
周囲で、まだ戦闘が続いている。
ガン、と金属がぶつかり合う音。
ジョルジュ、アストリアの詠唱。
廊下の奥から、敵兵の叫び声。
煙の中から、人影が現れる。
一人。
また一人。
モデルナ軍の兵士だ。
剣を抜いている。
こちらを見ている。
リリアを、見ている。
距離、二十メートル。
「リリア! 顔を上げろ!」
レイヴンが再び叫ぶ。
リリアは動かない。
嗚咽だけが、聞こえる。
敵兵が、歩き始めた。
一歩。
ブーツが石畳を踏む音。
また一歩。
剣の刃が、松明の光を反射する。
距離、十五メートル。
レイヴンは剣を構えた。
しかし、別の敵兵が目の前にいる。
廊下を進む敵兵。
今度は、走り始めた。
足音がだんだんと速くなる。
距離、十メートル。
リリアは、まだ動かない。
父を抱きしめている。
顔を埋めている。
何も見えていない。
何も聞こえていない。
敵兵の足音が、さらに速くなる。
剣を振り上げる動作。
刃が、弧を描く。
あと五歩——
「リリア!!」
レイヴンが叫ぶ。
目の前の敵を蹴り飛ばす。
駆け出そうとするが、間に合わない。
敵兵の剣が、振り下ろされる。
その瞬間。
キィン、と高い音が響いた。
剣が、止まっている。
敵兵の剣と、別の剣がぶつかり合っている。
リオンだった。
「大佐!リリア様を!」
リオンが敵兵を押し返す。
レイヴンはリリアに駆け寄った。
「リリア!」
彼女の肩を掴む。
しかし、リリアは動かない。
父の遺体を、離さない。
廊下の奥から、また足音。
大勢の足音。
増援だ。
「大佐!」
ジョルジュが叫ぶ。
「敵の増援です!このままでは......」
レイヴンは歯を食いしばった。
リリアの耳元で、低く、しかし強く言った。
「リリア。まだ、母親が生きている」
リリアの体が、わずかに反応した。
震えが、止まる。
「父上は、あなたを守った」
レイヴンの手が、リリアの肩を強く掴む。
「その命を、どう使うべきか考えろ」
数秒の沈黙。
やがて、リリアの手が、ゆっくりと父から離れた。
顔を上げる。
涙で濡れた顔。
赤い瞳が、レイヴンを見た。
その瞳に、多くのものが宿っている。
悲しみ。
怒り。
そして、決意。
「母さんを...」
かすれた声。
「母さんを、助けないと」
視線が、動く。
牢屋の隅、母を見る。
リリアが立ち上がる。
足元がふらつく。
母の元へ、歩く。
一歩、また一歩。
母の前に、膝をつく。
「母さん」
母は、反応しない。
虚ろな目のまま。
リリアが母の体を支える。
腕を肩に回す。
立ち上がらせようとするが、母の体がぐらりと傾く。
力が入っていない。
リリアが必死に支える。
レイヴンが駆け寄った。
母のもう片方の腕を支える。
「行けるか」
リリアが頷く。
「...はい」
短い答え。
母を抱えて、立ち上がる。
母の頭が、リリアの肩に垂れる。
目は開いているが、焦点が合っていない。
廊下の奥から、敵の叫び声。
足音が、さらに近づいてくる。
「撤退する!」
レイヴンが命じた。
「全軍、撤退!母親を連れて脱出するぞ!」
兵士たちが動き始める。
リリアは一度だけ、父を振り返った。
父は、そこに横たわっている。
冷たい石の床に、一人で。
もう動かない。
もう話さない。
二度と会えない。
リリアは唇を噛んだ。
涙が、また一筋流れる。
そして、背を向けた。
(ごめんなさい)
心の中で、呟く。
(ごめんなさい、父さん)
リリアは母を支えたまま、廊下を走りだした。
母の体が重い。
足がもつれそうになる。
レイヴンも母の体を支える。
ジョルジュとアストリアが援護する。
背後から、敵の足音。
追ってくる。
でも、もう振り返らない。
前だけを見て、走る。
母を助けるために。




