第8話「誓い」
バスティオン要塞の門が開く。
帰還した部隊を、兵士たちが出迎えた。
リリアは馬から降りると、よろめいた。
アストリアが慌てて支える。
「リリア様、大丈夫ですか」
「平気です」
リリアの唇が動く。
しかし、その声には抑揚がない。
赤い瞳は焦点を結ばず、どこか遠くを見つめている。
握りしめた手の指が、微かに震えていた。
「部屋で休んでください。必ず、ご両親を——」
アストリアの言葉が途切れる。
何と言えばいいのか、分からなかった。
「諜報部を呼んできます。」
リオンが駆けていく。
レイヴンはリリアの方を見た。
彼女は虚ろな目で、要塞の壁を見つめている。
その目——
レイヴンの胸に、何かが突き刺さった。
(あの目は......)
似ている。
かつて、鏡の中で見た目だった。
執務室。
リオンと諜報部の責任者、ダグラス中佐が入ってくる。
「大佐、報告いたします」
ダグラスが地図を広げた。
「クローデル夫妻の居場所を特定しました」
「どこだ」
レイヴンが身を乗り出す。
「ここです」
ダグラスの指が地図の一点を示す。
アルカディア村から北東、約三十キロ。
「モデルナ帝国の前線基地、通称『グレンツ砦』です」
「規模は」
「小隊規模、約百名。しかし堅固な造りです」
リオンが地図を見つめる。
「捕虜収容施設もあるようです。恐らく、本国への移送を待っている状態かと」
「時間はどれくらいある」
「おそらくですが、明日の夜明けには移送が始まると思われます」
レイヴンは時計を見た。
今は昼過ぎ。
残された時間は、半日ほど。
「大佐」
リオンが慎重に言葉を選ぶ。
「軍事的には、リスクが高すぎます。敵の砦への夜襲は——」
「分かっている。しかし、考えてみろ」
レイヴンが地図を見つめる。
「リリア・クローデルは天然の魔法使いだ。一国に十数名しかいない」
「彼女の戦略的価値は、一個師団に匹敵する」
「もし、彼女が絶望し、戦う意志を失ったら?」
「あるいは、我々を恨み、敵に寝返ったら? 両親を見捨てた軍を、彼女が信頼すると思うか?」
レイヴンの言葉に、リオンは答えられない。
「今、ここで両親を救出すれば」
「彼女は我々を信頼する」
「そして、その力を我が軍のために使ってくれる」
論理的な説明。
「つまり、これは投資だ」
「五十名のリスクで、一個師団相当の戦力を得る」
「それに」
レイヴンが続ける。
「敵が両親を拉致した理由を考えろ」
「リリアを操るためだ。彼女の力を利用するため、あるいは無力化するため」
リオンの表情が変わる。
「つまり、敵もリリア様の価値に気づいている......」
「そうだ。今、何もしなければ、敵は両親を使ってリリアを脅迫する。最悪の場合、彼女は敵の手に落ちる。どちらにしても、我々は彼女を失う。ならば、先手を打つべきだ」
リオンは考え込む。
「......なるほど」
やがて、頷いた。
「確かに、そう考えれば合理的な判断です」
「作戦を立てる。リオン、ジョルジュとアストリアを呼んでくれ」
「...承知しました」
リオンが部屋を出ていく。
一人になったレイヴンは、椅子に深く座った。
(なぜ、こんなに必死になっている)
自分でも分からない。
冷静であるべきだ。
論理的に判断すべきだ。
でも——
リリアの虚ろな目が、脳裏を離れない。
その時だった。
視界が、歪む。
実家の玄関。
荷物を持って立っている。
商社を辞めた日。
「何を考えている」
父の一言。
静也は何も言い返せなかった。
声が、頭の中で反響する。
世界が、ぐるぐると回り始めた。
(説明したい)
(なぜ辞めたのか、話したい)
でも、父は背を向けた。
それ以来、会話はなくなった。
部屋の中。
半年、この部屋から出なかった。
朝。
階段を上がってくる足音。
母だ。
扉の前で、足音が止まる。
カタン、と音がする。
食事を置く音。
「静也...」
小さな、母の声。
(返事をしなきゃ)
(扉を開けなきゃ)
(何て言えばいい)
(どんな顔で会えばいい)
母の足音が遠ざかる。
(明日、話そう)
毎日、そう思っていた。
でも——
ある日。
ついに決心がついた。
部屋を出よう。
父と話そう。
母と、ちゃんと顔を合わせよう。
(今日こそ)
そう思って、窓から外を見た。
雨が降っていた。
久しぶりに外に出るか......
そう思った。
散歩がてらコンビニに弁当を買いに行く。
帰り道、信号を渡る。
トラックのヘッドライト。
(ああ、これで終わりか)
冷静に、まるで他人事のように思った。
世界が回る。
すべてが終わる。
(結局、何も言えなかったな)
(何も、できなかった)
「大佐?」
リオンの声で、レイヴンは現実に戻った。
額に汗が浮いている。
「ああ...すまない」
レイヴンは深呼吸をした。
(自分は、間に合わなかった)
爪が手のひらに食い込む。
(父と話す機会を、永遠に失った)
(母にも、何も言えなかった)
胸の奥が、きりきりと痛む。
(なぜ、あの時)
(なぜ、真っ先に話そうとしなかったんだ)
自己嫌悪。
後悔。
そして——取り返しのつかない喪失感。
(母を、どれだけ心配させたんだろう)
(父は、どんな気持ちだったんだろう)
考えれば考えるほど、苦しくなる。
(もう、永遠に話せない)
でも——
リリアは違う。
(彼女はまだ間に合う)
その想いが、全身を突き動かす。
(両親は生きている)
(助けられる可能性がある)
自分にはできなかったことを、この少女には——
(絶対に、助ける)
それは使命感なのか。
それとも、自分の後悔を埋めようとしているだけなのか。
分からない。
でも——
(同じ後悔を、させたくない)
その想いだけは、確かだった。
「作戦会議を始めよう」
レイヴンは立ち上がった。
部屋にジョルジュとアストリアが入ってくる。
そして、リリアも。
彼女の目には、僅かに光が戻っていた。
地図を囲む五人。
ランプの光が、地図の上に落ちる。
レイヴンが説明を始める。
「グレンツ砦への夜襲を行う。目的はクローデル夫妻の救出」
「時刻は?」
ジョルジュが尋ねる。
「深夜二時。敵の交代直後を狙う」
「戦力は」
「選抜部隊、五十名。魔法使いはリリア、ジョルジュ、アストリアの三名」
リオンが地図を見つめる。
「接近ルートは」
「西側の森を通る。月明かりを避けながら、砦の死角に入る」
レイヴンの指が地図をなぞる。
「見張りの排除はジョルジュとアストリアに任せる。音を立てずに」
「了解しました」
二人が頷く。
「リリアは中央突破。捕虜収容施設への最短ルートを開く」
「分かりました」
「撤退ルートは」
「来た道を戻る。ただし、敵の増援が予想される。戦闘は避けられない」
レイヴンは全員を見渡した。
「これは危険な作戦だ。全員が生きて帰れる保証はない」
「それでも、やります」
ジョルジュが真っ先に答えた。
「リリア様のご両親です。見捨てるわけにはいきません」
アストリアも頷く。
「私も同意見です」
リオンは迷った表情を見せたが、やがて頷いた。
「大佐がそうお決めになったのなら、従います」
レイヴンはリリアを見た。
彼女の赤い瞳には、決意の炎が燃えていた。
「ありがとうございます」
リリアの声が震える。
「必ず、助けます」
レイヴンは頷いた。
(自分は間に合わなかった)
(でも、彼女にはまだ間に合う可能性がある)
その誓いが、胸の奥で燃えている。
「準備を開始します。出発は二十二時」
全員が部屋を出ていく。
レイヴンは窓の外を見た。
西に傾く太陽。
あと数時間で、夜が来る。
夜、月は雲に隠れている。
要塞の中庭に、五十名の選抜部隊が集まった。
全員が黒い外套を纏っている。
武器は最小限。
音を立てないための配慮。
レイヴンが前に出る。
「これより、グレンツ砦への救出作戦を開始する」
兵士たちの顔に、緊張が浮かぶ。
「目的は、クローデル夫妻の救出。それ以外の戦闘は極力避ける」
「了解!」
小声での返事。
リリアが馬に乗る。
その横顔を、レイヴンは見つめた。
強い意志。
しかし、その奥に不安がある。
(大丈夫だ)
レイヴンは心の中で呟いた。
(必ず、助ける)
(絶対に、間に合わせる)
要塞の門が静かに開く。
きしむ音が、夜に響いた。
五十の影が、夜の闇に消えていく。
グレンツ砦への道。
長く、危険な夜が始まろうとしていた。




