第4話「選択」
「詳しく報告しろ」
レイヴンが斥候兵に向き合った。
「村が魔物に包囲されています!住民が取り残されて......このままでは全滅します!」
「他に何か特異な点は?」
「はい......村の中心部で異常に強い魔法の光が時々見えるとの報告が。ただし詳細は......」
彼の視線を辿るように、レイヴンの目が遠くのアルカディア村の方向へ向けられる。
地平線の向こうに薄っすらと立ち上る黒煙が見えた。
「アルカディア村の背後には王国最大の魔石鉱山があります」
リオンの人差し指が地図の上を滑る。
村の印から鉱山のマークまで、一本の線が引かれるように指が移動した。
「敵は村を制圧し、鉱山への道を開こうとしているのでは」
「それだけではない」
レイヴンが続けた。
「村民を人質に取り、我々を不利な条件で戦わせる気だろう。魔法使いがいても、民間人がいれば全力で戦えない」
狡猾な作戦だった。
南門への攻撃で要塞の戦力を引きつけておき、本命のアルカディア村を襲撃する。
「どちらも重要な目標ですが...」
リオンが迷いながらも、はっきりと進言した。
「軍事的に考えれば、要塞の防衛が最優先です。村は...申し訳ありませんが、犠牲にせざるを得ません」
他の士官たちも頷いている。
論理的に考えれば、それが正解だった。
バスティオン要塞を失えば、魔石鉱山地帯全体が敵の手に落ちる。
一つの村を救うために、全体を危険にさらすわけにはいかない。
どう考えても、要塞の防衛を選ぶべきだった。
その時——氷川静也の記憶が蘇った。
現実の視界が溶けるように消え、代わりに薄暗い居間が浮かび上がる。
古い畳、年季の入った茶箪笥、壁に掛けられた家族写真。
そこに写る笑顔の夫は、もうこの世にいない。
ちゃぶ台を挟んで座る七十を過ぎた老女がいた。
静也の隣に座る上司が、営業用の笑顔を浮かべている。
社内ルールでは高齢者へのリスク商品販売には、管理職による面談で投資能力の確認が必要だった。
「おばあちゃん、これは本当に安全な商品なんですよ」
課長の声は優しく響く。
しかし静也には分かっていた。この女性にはもう判断能力がない。
静也は黙っていた。
静也の唇が一度開きかけ、また閉じられる。
指が無意識に握りしめられていく。
手の甲に浮かぶ血管、わずかに震える指先。
すべてが、声にできない内なる葛藤を物語っている。
だが、これでノルマが達成できる。
家族の写真が、静也を見下ろしているような気がした。
老女の家を出た後、上司は満足げに言った。
「氷川。これでノルマ達成だ」
静也は何も答えなかった。
その夜、静也は会社を辞めた。
コンプライアンス違反を自ら告発して。
しかし、数ヶ月後——
同僚からの連絡が、すべてを変えた。
「あの高齢女性の件、大変なことになった」
親戚たちが彼女を責め立てた。
三千万を失った事実を知った息子、息子の妻。
彼らは容赦なく老女を糾弾した。
「何でこんなものを買ったんだ!」
老女は混乱し、自分を責め続けた。
そして——
詳細は聞かなかった。
いや聞きたくなかった。
弱者を食い物にした結果、一人の人間が命を絶った。
(何もできなかった、なぜ止めなかった?告発したら許されると思ったか?
そんなわけないだろ。
彼女がどんな思いでその行動を決断したのか、お前に理解できるのか?
お前が見捨てて、お前が殺した)
「今度は違う。今度こそ……」
「大佐?」
リオンの声で、レイヴンは現実に戻った。
今、目の前にも同じ選択がある。
氷川静也の性格なら、迷わず要塞防衛を選択するだろう。
そして、きっと後悔することになる。
村で死んでいく人たちを、一生忘れられずに。
「すぐに救援に向かう」
レイヴンの口が開く。
リオンの瞳孔が広がり、他の士官たちの表情が一斉に変わる瞬間。
この一言が、すべてを変えてしまうことを全員が理解する、永遠とも思える数秒間。
「大佐!考え直してください!」
リオンが必死に訴える。
レイヴンの肩越しに、リオンの焦燥した表情が見える。
眉間に寄ったしわ、わずかに開かれた口、訴えるように差し出された手。
そして、リオンの後ろに控える他の士官たちの緊張した顔が並んでいる。
二つの視点の間で、立場の違いが鮮明になる。
「要塞を失えば、我々の任務は完全に失敗です!」
「分かっている」
レイヴンの声は静かだったが、その中に鋼のような強さがあった。
「論理的に正しい判断をして、後で一生後悔するくらいなら」
レイヴンは剣の柄に手を置いた。
柄が強く握りしめられ、その瞬間、決意が固まったことが伝わる。
「危険でも、自分の信念に従う道を選ぶ」
「村に住んでいるのは民間人だ。罪のない人たちだ」
レイヴンの瞳に、強い光が宿った。
「彼らを見殺しにして勝利したところで、それは本当の勝利と言えるのか?」
リオンは反論しようとしたが、言葉を失った。
上官の目に宿る、今まで見たことのない決意の炎。
「第一大隊と第三大隊を連れて行く」
レイヴンの声に迷いはなかった。
助けられたかもしれない人を、見捨ててしまった痛み。
たとえ論理的に間違った選択だとしても。
この選択が、運命を大きく変えることになる。
「ジョルジュ中尉、アストリア中尉も同行だ」
「承知しました」
「要塞の守備は?」
「第二大隊で十分だろう。敵の主力は村に向かっているはずだ」
再び脳内の地図が戦略を描き出す。
兵力配分、移動時間、到着予定時刻。
すべてが計算されていく。
「出発準備、すぐに完了させろ」
「はい!」
兵士たちが慌ただしく動き出す。
剣を研ぐ音、馬具を締める音、水筒に水を注ぐ音。
短い動作の連続が、出発への緊迫感を高めていく。
無数の手が同時に動き、一千五百人の軍隊が一つの意志に従って準備を進めていく。
「大佐」
リオンが近寄ってきた。
眉間に深いしわが刻まれている。
「大丈夫ですか?連戦で疲労も...」
その声には、記憶を失った上官への心配が込められていた。
「問題ない」
レイヴンは答えた。
確かに体は疲れている。
しかし、村の人々を救うという目的が、疲労を押し流してくれる。
「それに、これは良い機会かもしれない」
「機会、ですか?」
「敵の真の狙いを知ることができる。魔石鉱山が目的なら、村を制圧した後の動きが見えるはずだ」
「準備完了しました!」
「よし、出発する」
レイヴンが馬にまたがる。
不思議と、乗馬も体が覚えていた。
手綱を握る手に力が込められる。
馬の鼻息が白く立ち上がり、鐙に足をかけた瞬間、彼の目つきが変わった。
眼下に広がる一千五百の部下たちが、指揮官の言葉を待っている。
「全軍、アルカディア村へ向かう!」
一千五百の兵が、要塞から出撃した。
夕日が西に傾き始めている。
村に到着するのは夜になるだろう。
闇の中での戦いになる。
しかし、レイヴンは迷わない。
脳内の地図が、最適な進路を示してくれている。
蹄の音が大地を揺らす。
土を蹴る蹄、飛び散る泥、弾む鐙。
アルカディア村への急行軍が始まった。
果たして間に合うのか。
答えは、これから向かう戦場にあった。
「急げ!一刻も早く村に到着するんだ!」
レイヴンの声が、夕暮れの空に響いた。
今度は、守るべきものがより明確だった。
罪もない村人たちの命。
氷川静也の価値観が、レイヴン・アッシュフォードの行動を決定していく。
オレンジ色に染まった空の下、騎兵隊の影が徐々に小さくなっていく。
蹄の音だけが残響のように響き、やがてそれも静寂に包まれた。
夕日を背に受けた騎兵隊が、地平線の向こうに消えていった。




