第2話「旅立ち」
石造りの天井が目に入った瞬間、自分が別の人間になったことを理解した。
氷川静也としての二十九年間の記憶は鮮明にある。
視線を下ろすと、重厚な軍服に包まれた自分の体が見えた。
その腕は筋肉質で、手には剣だこがついている。
視線を部屋に移すと、整然と並べられた軍事資料、壁にかかる剣、そして窓の向こうに広がる要塞の全景が映り込んだ。
すべてが初めて経験することだった。
「大佐」
扉の向こうから声がした。
低く、しかし敬意のこもった男性の声。
「失礼いたします」
扉が開くと、男が姿を現した。
きちんと整えられた軍服、背筋の伸びた立ち姿。
茶色の髪を短く刈り上げ、鋭い眼光を持つ男だった。
「私です。リオン・ウィルソン副官です。お目覚めになられましたか」
リオン副官。
その名前は初めて聞くものだった。
「ああ」
起き上がりながら答えた。
生来の性格であるこの冷静さが、この状況を受け入れることを助けていた。
「体調はいかがですか?落馬の際に頭を打たれて、昨夜は随分うなされていらっしゃったようですが」
落馬。
その言葉で状況が理解できた。
落馬事故で頭を打ち、記憶を失ったことにしよう。
「すまない、記憶が曖昧だ」
慎重に言葉を選んだ。
リオンの表情が一変した。
「記憶が曖昧と申されますと?」
「君の名前すら思い出せない。私の名前は?」
リオンの顔が蒼白になった。
「大佐...ご自分の名前も?これは予想以上に深刻です」
彼の声は震えていた。
眉間にしわが寄り、唇が僅かに震える。その瞳孔が収縮し、冷たい汗が額に浮かんだ。
上司の記憶喪失という現実が、彼の網膜に焼き付いていく。
「レイヴン・アッシュフォード大佐です。私はリオン・ウィルソン副官、あなたにお仕えしております」
当たり前だが、何も思い出せない。
「私の指揮する部隊は?」
「グランディア王国軍第三師団、総勢三千名です。大佐、これは軍医を──」
その時だった。
けたたましい警鐘が要塞に響き渡った。
「警戒警報!」
廊下を兵士たちが駆け抜けていく。
リオンの顔が緊張に引き締まった。
「敵襲です!」
扉が勢いよく開かれ、若い兵士が飛び込んできた。
「大佐!モデルナ軍の奇襲です!南門に敵影三百!魔法攻撃を受けています!」
三百。
数字だけ聞けば大したことないように思えるが、リオンの表情は深刻だった。
「強化魔法使いは?」
「確認されています!少なくとも四名!」
リオンが振り返った。
「大佐、指示を!」
指示。
三千人の部下を指揮しろというのか。
記憶のない自分が。
氷川静也は戦争など映画でしか見たことがない。
しかし、部下たちの視線が自分に向けられている。
期待と不安が混じった眼差し。
「南門の守備隊は?」
口から自然に言葉が出た。
こうなったらやけくそだ。
勢いとノリってやつだ。
「第二大隊が配備されていますが、魔法攻撃で混乱しています!」
「予備隊は?」
「第一大隊が待機中です!」
レイヴンの頭の中で、何かが動き始めた。
氷川静也の記憶にはない、戦術的思考が浮かんでいる。
──これは何だ?
まるで頭上に透明な地図が展開されるように──南門、東門、敵の位置、味方の配置。
点と線が結ばれていく。
敵三百、味方の位置、地形の高低差。
すべてが立体的に見えている。
神が与えた力なのか?
疑問は一瞬で消えた。今は使えるものは何でも使う。
脳内の地図上で、青い矢印が東側を迂回していく。
「第一大隊を南門に向かわせろ。ただし、正面から突っ込むな」
リオンの目が見開かれた。
「東側から回り込み、敵の側面を突け。魔法使いは分散させるな、一点集中で敵の強化魔法使いを叩け」
「承知!」
兵士が駆け出していく。
「大佐…」
リオンが驚いたような顔で見つめていた。
「記憶を失われても、戦術眼は健在のようですね」
そうなのか?
自分でもよく分からない。
体が、頭が、勝手に動いているような感覚だった。
「魔法使いはどこにいる?」
「ジョルジュ中尉とアストリア中尉は東の守備についています」
「呼び戻せ。敵の強化魔法使い四名に対し、こちらは二名では不利だ」
「しかし東を手薄にすると──」
「陽動の可能性もあるが、今は南門が最優先だ」
レイヴンは立ち上がった。
「私も出る」
「大佐!記憶のない状態で戦場に出るなど危険すぎます!」
リオンが制止しようとした。
「部下を見殺しにはできない」
その言葉を発したレイヴンの口元が、わずかに引き締まった。
唇の端に宿る決意。
それは指揮官としての覚悟だった。
そして何より、氷川静也として。
人の命を軽んじることはできない。
「装備を持ってこい」
「大佐...」
リオンは迷ったが、やがて頷いた。
「承知いたしました」
数分後、レイヴンは完全武装していた。
剣を腰に下げ、軍服に身を包む。
不思議と違和感はなかった。
この体が覚えているのか。
「大佐、準備完了です」
要塞の中庭に部隊が集結していた。
兵士たちの顔に緊張が浮かんでいる。
「第一大隊、配置についたか?」
「はい!側面への回り込み完了!」
「魔法使いは?」
「ジョルジュ中尉、アストリア中尉、到着しました!」
二人の魔法使いが前に出た。
「敵の強化魔法使い四名を最優先で叩け。援護はつける」
「了解!」
「大佐」
リオンが近寄ってきた。
「本当に出られるのですか!?」
「行くぞ」
レイヴンは歩き出した。
記憶はない。
経験もない。
しかし、背負うべきものがある。
三千の部下の命。
それだけは忘れることができない責任だった。
要塞の中庭を上空から見下ろすと、蟻のような兵士たちが慌ただしく移動している。
その中央に立つレイヴンは、混乱の渦の中心にいながら、一人だけ静寂に包まれているようだった。
「全軍、前進!」
要塞の門が開かれた。
戦場に向かう兵士たちの足音が石畳に響く。
レイヴン・アッシュフォードとして初めての戦いが始まろうとしていた。
果たして記憶のない指揮官は、部下たちを勝利に導けるのか。
南の空に魔法の光が踊っている。
敵も味方も必死に戦っている。
その戦場に、レイヴンは足を踏み入れた。
「敵影視認!距離八百!」
「魔法攻撃、来ます!」
炎の弾が空を切り裂いて飛んでくる。
レイヴンは冷静にそれを見つめた。
剣の柄を握る手に、細かい震えが走った。指紋の溝に汗がにじみ、金属の冷たさが皮膚に食い込む。
不安が、神経の末端まで伝わっていく。
記憶を失った指揮官の、最初の戦いが始まった。




