第10話「母」
砦の外に出た瞬間、冷たい夜風が頬を打った。
「リオン、殿を頼む」
「承知しました。お任せを」
リオンが部下数名を率いて引き返す。
剣がぶつかり合う音。
リリアは母を抱えたまま走る。
足がもつれそうになる。
母の体が、肩に食い込む。
重い、でも止まれない。
「森まで逃げ込むぞ!」
レイヴンの声が響く。
背後から、追手の足音。
剣がぶつかり合う音。
しかし、リリアには何も聞こえていない。
母の呼吸だけが、耳に届く。
不規則な呼吸。
ひゅう、ひゅう、と喉が鳴っている。
リリアの肩に垂れた母の頭が、走るたびに揺れる。
一歩、また一歩。
足が地面を蹴る。
母の体が、また肩に食い込む。
「母さん」
か細い声が漏れた。
「もう少しよ、もう少しで」
森が見えた。
暗い木々の隙間。
あそこまで逃げ込めば——
リリアは走り続けた。
追手の足音が、遠くなる。
木々が音を吸い込んでいく。
背後で、爆発音が響いた。
ジョルジュの炎だ。
アストリアの水の壁が展開する音。
敵の叫び声。
やがて、静寂。
追手の足音は、止まった。
月のない夜。
枝が空を覆い、さらに暗い。
リリアは走り続ける。
母の呼吸が、さらに弱くなっている。
リリアが母を抱え直そうとした時、母の頭がずり落ちた。
リリアが慌てて支える。
母の顔を見る。
青白い。
いや、土気色だ。
唇が、紫色になっている。
「母さん!」
リリアの声が震える。
母の手が、力なく垂れ下がっている。
レイヴンが隣に来た。
母の顔を見る。
その表情が、固まった。
「リリア......」
「まってください、要塞まで——」
「......もう、間に合わない」
その言葉が、リリアの胸を貫いた。
「そんな......」
「リリア」
レイヴンが立ち止まる。
振り返る。
「全軍、停止」
兵士たちが立ち止まる。
森の中に、静寂が降りた。
背後から、足音。
リオンが戻ってきた。
息を切らしている。
剣には、血が付いている。
「追手は、振り切りました」
レイヴンは頷いた。
「周囲を警戒しろ。リリアに、時間を与える」
兵士たちが、静かに散開していく。
リリアは、ゆっくりと膝をついた。
母を地面に横たえる。
冷たい土の上に。
母の頭を、リリアの膝の上に乗せる。
「母さん」
か細い声。
母の目は、開いている。
しかし、焦点が、合っていない。
虚空を見つめている。
リリアの手が、母の頬に触れる。
冷たい。
氷のように冷たい。
「聞こえる?私、助けに来たの」
母の目が、わずかに動いた。
リリアの方を向く。
リリアの心臓が、高鳴った。
(もしかして——)
母の唇が、動く。
何か言おうとしている。
リリアは顔を近づけた。
母の息が、頬に触れる。
か細い、途切れそうな息。
そして——
「......誰」
世界が、止まった。
リリアの呼吸が、止まった。
母の唇が、また動く。
「......どこ」
薬物の影響で、意識が混濁しているようだ。
幻覚を見ているのかもしれない。
娘を、認識できない。
リリアの手が、母の手を掴む。
握りしめる。
涙が、溢れ出す。
母の手が、動いた。
ゆっくりと。
重力に逆らうように。
持ち上がっていく。
リリアの頬に、触れた。
冷たい指先。
震えている指。
リリアは息を呑んだ。
母の指が、リリアの頬をなぞる。
涙に濡れた頬を。
リリアは母の目を見た。
母も、リリアを見ている。
母の目に、一筋の涙が浮かんだ。
それが、ゆっくりと頬を伝う。
こめかみを通り、耳の後ろに消える。
母の唇が、わずかに動いた。
何か言おうとしている。
しかし、声は、出なかった。
母の手が、力を失った。
ストン、と。
リリアの膝の上に、落ちる。
リリアが母の手を掴む。
握りしめる。
焦点が、完全に失われていく。
呼吸が、止まった。
胸の上下が、止まった。
リリアの手の中で、母の手が冷たくなっていく。
温度が、失われていく。
生命が、逃げていく。
「母さん」
返事は、ない。
母は動かない。
目は、虚空を見つめたまま。
もう、何も見ていない。
リリアは母の遺体を抱きしめた。
冷たい体。
もう、温かくならない体。
声が、出ない。
涙だけが、流れる。
リリアの肩が、震える。
やがて、言葉が漏れ始めた。
「父さんとは、話せなかった」
「母さんは......」
声が、途切れる。
「私を、認識できなかった」
リリアの手が、母の冷たい手を握りしめる。
「私、何もできなかった」
嗚咽が、込み上げる。
声が、崩れる。
涙が、母の顔に落ちる。
「ごめんなさい」
リリアは母を抱きしめたまま、泣き続けた。
周囲で、兵士たちが黙祷のように頭を下げている。
リオンの拳が、強く握りしめられている。
ジョルジュが目を背ける。
その肩が、小刻みに震えている。
アストリアの頬に、涙が伝っている。
レイヴンは、少し離れたところに立っていた。
リリアを見つめている。
その表情には、深い悲しみと、何か別の感情が混じっていた。
やがて、レイヴンがゆっくりと歩き出した。
リリアの隣に来る。
膝をつく。
リリアの肩に、手を置く。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
リリアは母を抱きしめたまま、泣き続けた。
森の中に、リリアの嗚咽だけが響いている。
月のない夜。
木々が空を覆い、星の光すら届かない。
ただ、闇だけがすべてを包んでいた。




