第七話:二人だけの聖域(サンクチュアリ)
そこは、二人が夢見た聖域であり、絶望が生まれた墓標でもあった。過去と向き合うため、二人は『イカロス』の封印を解く。
2032年7月28日、水曜日。深夜。
東京、湾岸エリア。
ラプラス・ソリューションズ本社ビルは、黒い墓標のように静かにそびえ立っていた。
ミコトと怜はビルの裏手にある通用口の闇に息を潜めていた。
これからやろうとしていることは狂気の沙汰だった。自分たちの過去が眠る、そして得体の知れない「敵」の影がちらつくこの場所に、再び自ら足を踏み入れようとしているのだから。
「…本当に大丈夫なの?」
怜が不安げにミコトの横顔を見上げる。
「ああ」ミコトは頷いた。「俺たちの『アレ』を起動できる場所は、世界でもうあそこしか残ってない」
『旧第7開発ラボ』。
皮肉なことに世界で唯一、神の悪意に対抗できる可能性を秘めた剣は、敵の巣のど真ん中で眠っているのだ。
怜は頷くと、通用口の認証パネルに自らのAtelierをかざした。数秒後、電子ロックがごく小さな音を立てて解除される。
「よし…。監視カメラのループはあと180秒しかもたない。行くわよ」
「ああ」
二人は音もなくビルの中へと滑り込んだ。
ひやりと冷たい空調の効いた廊下。数年前まで我が家のように歩き回っていたはずの場所が、今は敵地のど真ん中だった。
角を曲がるたび警備員の足音が聞こえるたび、二人の緊張は極限まで高まる。
そしてついに目的の扉の前へとたどり着いた。
『Lab:07』。
二人は顔を見合わせる。
「…私が行く」
怜が静かにだが決然と言った。彼女は現役の社員だ。先に試すのは当然だった。
彼女は認証パネルにそっと自らの掌を置いた。パネルが緑色の光で彼女の手のひらをスキャンする。
だが。
[ACCESS DENIED. DUAL AUTHENTICATION REQUIRED]
パネルは無機質な拒絶の文字を赤く点滅させた。
「…なんで…!私のIDはまだ生きてるはずなのに…。デュアル認証って、どういうこと…!」
怜の顔に絶望の色が浮かぶ。ここまで来て入れないというのか。
「…貸してみろ」
怜の背後からミコトが静かに言った。
(…デュアル認証、だと?まさか、俺たちのあの時の設定がまだ…)
ミコトは何かを訝しむように眉をひそめた。だが今は試してみるしかない。
「怜、もう一度だ。二人で同時に認証する」
怜は頷く。
二人は再びパネルに向き直ると、同時にそれぞれの掌を置いた。
『PRIMARY KEY: MIKOTO KAMISU - AUTHENTICATED』
『SECONDARY KEY: REI YUKI - AUTHENTICATED』
『DUAL AUTHENTICATION... SUCCESS. WELCOME BACK.』
心地よい承認の電子音と共に、扉のロックが重い音を立てて外れた。
だがミコトの心は晴れなかった。
(…なんだ?)
一瞬彼の脳裏をよぎった違和感。だが今は考えている暇はなかった。
重い金属の扉が沈黙を破ってゆっくりと開いていく。
中に広がっていたのは数年前とほとんど変わらない光景だった。だがそこにかつての熱狂はない。ただ分厚い埃を被った機材たちが、墓石のように静かに二人を迎えていただけだった。
ミコトと怜はメインコンソールへと歩み寄る。
そしてその冷たいガラスの天板にそっと指を触れた。
その瞬間――。
二人の脳裏にあの、遠い日の記憶が鮮やかに蘇った。
(数年前――旧第7開発ラボ)
「すごいわ、ミコト! これで本当に純粋なシミュレーション環境が手に入ったのよ!」
目の前の大型モニターに表示された『System All Green』の文字に、怜は子供のように声を上げて飛び跳ねていた。ミコトも込み上げる高揚を抑えきれずに固く拳を握りしめる。
数えきれないほどの失敗と、寝る間も惜しんでコードを書き続けた日々の末に、二人の夢――『αグリッド改』の心臓部である新OS『コア』はついに産声を上げたのだ。
「もう会社の連中の金儲けや軍事利用の思惑に、私たちの研究を汚させたりしない…!ここは私たちだけの聖域よ!」
興奮してまくしたてる怜の横顔を見ながら、ミコトはそのさらに先を見据えていた。
(そうだ、怜が守りたかったのは誰にも汚されない二人だけの「研究」。だが俺が救いたかったのは父が愛しそして絶望したこの「世界」そのものだ。)
そのどうしようもない目的の違いに気づかないふりをしながら、ミコトはただ静かに頷いた。
「…ああ。ここからだ、怜」
(現在――旧第7開発ラボ)
ミコトは過去の幻影を振り払うように一度強く目を閉じた。
隣で怜もまた同じように何かを堪えるような表情をしていた。
ここは聖域などではなかった。ただの過去の残骸だ。
「…始めるぞ」
ミコトの静かな声が埃っぽい部屋に響く。
二人はコンソールにそれぞれの『鍵』を接続した。数年ぶりに眠っていたシステムが低い唸りを上げて目を覚ます。
メインスクリーンに浮かび上がる『α-GRID KAI』のロゴ。
ミコトはOSの片隅に、自ら封印していた一つのアイコンを迷いなく選択する。
黒いイカロスの翼。
あの日の絶望と、今の唯一の希望。
「――イカロス、起動」
彼の静かなコマンドにラボの全てのサーバーが一斉に甲高い起動音を上げた。
「目標、怜のAtelierに残されたノイズの痕跡。観測対象、そのコードの源流。――解析を、開始しろ」
スクリーンに黒い翼のアイコンが大きく表示される。
それは二人が夢見た理想郷の象徴ではなかった。
神々の悪意を喰らいその主に牙を剥くために、数年の眠りから目を覚ました復讐の魔鳥。
その翼が今、再び漆黒のデジタルの宇宙へと羽ばたこうとしていた。
あらたなシリーズとして別の世界線の話を作り始めました。
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