第五話:封印を解く覚悟
「あなたが、私を、もう一度『パートナー』として信じてくれないなら」――怜のまっすぐな言葉が、ミコトが固く閉ざした、封印を解かせる。
2032年7月28日、水曜日。夜。
怜のまっすぐな瞳が、ミコトから答えを求めていた。
その一言が、ミコトの脳裏に自ら葬り去ったはずの、悪夢の記憶を呼び覚ます。
(――そうだ、俺は逃げたんだ。)
イカロスシステムの前で崩れ落ちたあの日。父の無念を晴らすというたった一つの希望が、絶望に変わったあの日。
俺はまるで葬式を執り行うように、淡々と全ての痕跡を消し去った。シミュレーションの膨大なログデータを消去し、自らの夢の結晶であった『イカロス』のプログラムに決して開かない鍵をかけた。
父の夢も、自分の理想も、そして怜との未来も。
その全てを、あの黒い翼のアイコンの中に永遠に**「封印」**した。
翌日、研究室で怜に会った時、俺はただ一言、こう告げたのだ。
「――もう、辞めた」と。
理由を問う彼女に何一つ答えず、ただ心を閉ざし、彼女の前から逃げ出した…。
その苦い記憶がミコトの脳裏をよぎる。目の前の怜が咎めるような、それでいてどこか悲しげな瞳で自分を見つめていることに、彼はすぐには気づけなかった。
「…そうやって、また逃げるのね」
怜の声は氷のように冷たかった。
ミコトはハッとして顔を上げる。目の前の怜は悲しそうな顔などしていなかった。数年前のあの日の彼と同じ目をしているのは、ミコトの方だった。
「あなたの言う通り、これは異常事態よ。危険な相手だってことも分かる。でも私が本当に怖いのは、ゴーストなんかじゃない」
怜はミコトの瞳をまっすぐに見据えた。
「私が怖いのは、あなたがまた数年前のあの日に戻ってしまうこと。私に何も言わずに一人で全部抱え込んで、勝手に絶望して、どこかへ消えてしまうことよ」
怜の言葉が、ミコトの心の鎧をいとも容易く貫いた。
彼女はきっぱりと言った。「協力するわ。でも、条件がある」
「あなたがなぜ『アレ』を封印してラプラスを去ったのか。その本当の理由を今この場で私に話して。それができないなら私も協力できない。…あなたが私をもう一度『パートナー』として信じてくれないなら、私もあなたのことを信じられない」
観念したようにミコトは固く目を閉じた。そしてゆっくりと、その重い口を開いた。
「…分かった。話す」
彼はあの夜のことを語り始めた。父の無念を晴らすため一人で『イカロス』を起動し、神の領域に挑んだこと。
そしてイカロスが弾き出した、あまりにも非科学的な、たった一つの答え。
「…『二万五千年以上、過去の世界線においてはその限りではない』…それが俺が見つけた絶対的な『壁』の正体だ。俺はそれに絶望して、お前からも、全てからも、逃げたんだ」
怜はただ黙って聞いていた。
二万五千年。その数字が何を意味するのか彼女にはまだ分からない。だが目の前の男が心を病んだのではなく、理解不能なあまりにも巨大な「真実」の前に一人で絶望していたのだということだけは、痛いほどに伝わってきた。
やがて怜は静かに、だが力強い声で言った。
「…そう。それがあなたの見てきたものなのね」
彼女の声には非難も同情もない。ただ純粋な科学者としての、そしてパートナーとしての信頼だけがそこにあった。
「分かったわ。その『壁』の正体を、今度は二人で確かめましょう」
怜のあまりにもまっすぐな言葉に、ミコトは息を呑んだ。
「怜、お前…。俺の話を、信じるのか…?」
「信じるわよ」怜は当たり前のように言った。「あなたは、そういう人だもの。昔から、ずっと」
その言葉が何年も凍りついていたミコトの心をゆっくりと溶かしていく。
彼はテーブルの上の怜のAtelierに目を落とした。
「怜。お前が見つけたこのノイズ…。こいつはただのハッキングじゃない。俺が絶望したあの『壁』と、同じ匂いがする」
「…!」
「俺のAtelierじゃ尻尾すら掴めない。こいつに対抗するには方法が一つしかない。…俺が封印した**『イカロス』**の力を使うしか」
なんという皮肉だ。
過去の絶望から逃げるために怜との夢ごと自ら「封印」した力。
だがその忌わわしき過去の力を使わなければ、怜を襲う現在の脅威から彼女を守ることすらできない。
「…そして、『イカロス』を、あの『αグリッド改』を再起動するには、怜、お前の鍵がどうしても必要なんだ」
ミコトは全てをさらけ出した。
怜は静かに頷くとミコトに向かってスッと右手を差し出した。
「私の『鍵』はここにある。――あなたの覚悟が、本物ならね」
ミコトはその手を見つめ、そして自らの手を固く握り返した。
こうして一度は壊れた二人の絆は、一つの真実を共有することで以前よりも遥かに強く結び直されたのだ。
あらたなシリーズとして別の世界線の話を作り始めました。
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