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第三話:始まりの波紋

「あなたの頭脳を借りたいの」――たった一本の電話が、止まっていたミコトの運命を、再び世界の中心へと引き戻す。

 2032年7月28日、水曜日。午後。

屋上からオフィスへ戻る途中、ポケットの中の『Atelier』が、着信を示す柔らかなメロディと共に、かすかに振動した。

ミコトは足を止める。ホログラムスクリーンを空間に投影すると、そこに表示されたのは彼の胸を締め付ける懐かしい名前だった。

『結城 怜』

数年間、自ら距離を置いていた唯一の家族。

なぜ、今になって…?

屋上で感じた、あの言い知れぬ悪寒が再び背筋を駆け上がった。彼は唾を飲み込み、震える指で応答ボタンに触れる。

「もしもし」

「ミコト? 私、怜。…今、少しだけ、いい?」

受話口から聞こえてきたのはいつもと変わらない冷静な声。だがその奥に、確かな疲労と科学者特有の知的興奮が混じり合っているのを、ミコトは感じ取った。

「…あなたの頭脳を借りたいの。とんでもないものを、見つけてしまったかもしれない」

「…ゴーストか」

その言葉を口にした瞬間、ミコトの脳裏にここ数週間、自らのログに現れては消える、あの**「幽霊」の残像がよぎった。

「いいえ」怜の声がわずかに震える。「もっと、たちの悪いものよ。…ミコト、もし、『この世界の物理法則を根底から書き換えることが可能な、未知のソースコードが存在する』と言ったら、あなたは信じる?」

怜のあまりにも突拍子もない言葉に、ミコトの思考は一瞬停止した。

彼女はミコトがいなくなった後も『α-GRID』の応用研究を続けていた。その研究用のAIがここ数ヶ月、原因不明の「ノイズ」を繰り返し観測していたのだという。

怜はそのノイズをずっと一人で分析していた。そして、たどり着いてしまった。

そのノイズがただのデータエラーなどではなく、この世界のOSそのものに干渉する、神の領域の「設計図ソースコード」の断片であるという、狂気じみた結論に。

「…まるで錬金術よ。無から有を生み出すようなありえない奇跡の痕跡。私の計算が正しければこのコードを使えば、この世界は粘土のように意のままに作り変えることができてしまう…。そんなの、科学じゃない。魔法よ」

怜の言葉が、ミコトの心の最も深い場所を容赦なく抉る。

それは彼がかつて一人でたどり着き、そして絶望した「壁」の正体と、あまりにもよく似ていた。

「…なぜ、俺に?」

「決まってるでしょ」怜の声に、わずかにすがるような響きが混じる。「こんな馬鹿げた話、信じてくれるの、あなたしかいないもの。…それに、このノイズの出所を私なりに追ってみたの。そしたら、その発信源が…私が今働いている『ラプラス・ソリューションズ』のサーバーのごく一部である可能性が、否定できないのよ」

ラプラス・ソリューションズ――。

その言葉が、引き金になった。

ミコトの中でバラバラだったパズルのピースが、一つのおぞましい形へと急速に組み上がっていく。

世界全体を蝕む原因不明の『発熱』。

自分のシステムを徘徊する正体不明の『幽霊』。

そして今、怜が観測したラプラス・ソリューションズから漏れ出す、世界を改変する『神の設計図』。

これは偶然じゃない。

全てが、繋がっている。

父を狂人へと追い込み社会的に抹殺した、あの「見えざる悪意」**が、怜を、そして俺を、再びその渦の中心へと引きずり込もうとしている。


――動け。

――今動かなければ、父さんの時のように、また全てを失うぞ。


心の奥底で自ら封印していたはずの魂の警報が激しく鳴り響いていた。

何年もかけて灰色の日常の中に築き上げた心の壁がガラガラと崩れ落ちていく。

「わかった。すぐ行く」

彼の声は自分でも驚くほど低く、静かだった。それは諦念を突き破って心の奥底から溢れ出した、冷たい怒りの声だった。

「え、でも…」

「問題ない。じゃあ、大学の近くだった、いつものカフェで」

一方的に通話を切り、ミコトはオフィスに戻る。彼のただならぬ様子に隣のデスクの同僚が声をかけたが、ミコトはそれに目もくれず自らの『Atelier』を掴むと、オフィスを飛び出した。

雑踏の中、地下鉄の入り口へと歩きながら、彼の胸の内には静かで底なしの、冷たい「怒り」の炎が再び燃え上がっていた。

怜はただの被害者ではない。俺とは違う道で世界の真実にたどり着きかけた、もう一人の**「観測者」**だ。

だとしたら、彼女はあまりにも危険な場所に立ちすぎている。

彼に残された最後の宝物。怜だけは、何があってもこの手で守り抜かなければならない。

神々の悪意が、ミコトが自ら封印していた時間の扉を、容赦なくこじ開けた。

あらたなシリーズとして別の世界線の話を作り始めました。

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