第8話:「刻まれた指輪」
アッシュは薄暗い路地裏を抜け、ネストのバーへと足を運んだ。
あの女の依頼を終えた後の定番のルート。
――アルコールと踊りたかった。
バーカウンターに腰を下ろし、無言でグラスを指さす。バーテンダーは無言で酒を注ぎ、アッシュはそれを一息で流し込んだ。
グラスがカウンターに音を立てた直後、隣の席から声がした。
「――隣、いいかしら?」
見れば、艶やかな黒髪が闇に揺れていた。
肌はまるで陶器のように白く、瞳は深紅。
ただ美しいだけでなく、何かが欠けているような――そんな危うさが漂っていた。
「君を拒む理由なんて、俺にはないよ」
「ありがとう」
微笑みと共に、彼女は艶やかに足を組み替えた。
「お兄さんもネストの人間かしら?」
「いや、地上さ。大地が捨てきれなくてね」
「地上……?」
彼女の目がわずかに揺れた。
「……その髪色、まさか――“灰色の男”。
何でも屋のアッシュ?」
「名前をご存知とは嬉しいね」
彼女はグラスに口をつけると、低く囁いた。
「依頼しても、いいかしら?」
『……アッシュ、嫌な予感。
こういうの、だいたいロクなことない』
アリアの声が脳内に響く。
「美人の依頼は断らねぇ主義なのさ」
「――始末してほしい男がいるの」
アッシュは眉一つ動かさない。
「相手は?」
彼女は小さなホロスクリーンを展開し、男の写真を映す。
痩せこけた男の顔。肩に奇妙なタトゥー。
目はどこか空虚だった。
「恋人の仇よ。今日、区画G-3の旧倉庫でマフィアと取引するらしいわ。そこに行けば……会える」
その言葉に、アッシュの目が鋭く細められる。
グラスを持つ手が、わずかに止まった。
「……わかった。引き受けるよ」
* * *
――冷たい床の上、男は仰向けに倒れていた。
薄暗い倉庫の隅で、青白い顔が闇に浮かぶ。
右手には、まだ使いかけの注射器が落ちていた。
脳内にアリアの声が響く。
『死因は薬物過剰摂取ね――自殺?
いやマフィアに殺されたのかもしれないわね』
アッシュはしばらくその場に佇む。
その光景を……ただ見つめていた。
* * *
再びバーへと戻る。
女は同じ席にいた。
煙草に火をつけ、静かに煙を吐いていた。
「依頼は失敗したよ――
だが……あんたの望みは、叶ったぜ」
「どういうことかしら?」
「駆けつけた時にはもう冷たくなってた」
女は目を細め、グラスの中で氷を転がす。
「そう……」
アッシュはわずかに目を伏せた。
「恋人の仇、なんかじゃねぇんだろ。
そいつが、あんたの恋人だった――違うか?」
女の指が止まる。
煙草の先から、灰が静かに崩れ落ちる。
「どうして、それを……?」
アッシュの左目がわずかに光る。
瞳孔の奥で、義眼の輝きが微かに走った。
「俺の目は、嘘を見破っちまうのさ」
アッシュはわずかに口元を歪めた。
それは、皮肉でも嘲りでもない。
ただ、哀しみを知る者だけが浮かべるような――小さな笑みだった。
「嘘だってわかってたのに、どうして?」
女のまつ毛がかすかに震える。
赤い瞳が揺れ、その奥に沈んだ何かが、一瞬だけ浮かび上がった。
「女の嘘には付き合うさ。
特に――あんたみたく哀しい目をした女の嘘はな」
彼女は、静かに言った。
「……彼は、もう壊れていた。クスリで、心も体も。
私の知っている彼は、とっくに死んでいたのよ。
だから……私は殺すことで、彼を解放したかった。
私自身も……ね」
アッシュは黙ってジャケットのポケットを探る。
「ヴィヴィアン……あんたに渡すもんがある」
「……どうして私の名前を――」
アッシュは、ポケットから細いチェーンを引き出し、そこにぶら下がった指輪をそっと外した。
金属に……“Vivian”と彫られた細い文字。
擦れてぼやけかけたそれが、確かな愛情の形を証明していた。
「最後まで、ずっと肌身離さず――大事そうに、首から下げてたよ」
ヴィヴィアンの手が震える。
やがて彼女は静かに顔を伏せ、泣き崩れた。
周囲の喧騒は遠ざかり、音のない静寂だけが、彼女を包んでいた。
* * *
数時間後、店を出るアッシュの背中に、アリアの声がまた響く。
『依頼失敗したからタダ働きでいいって……
あんた、ちょっとお人好しすぎるんじゃない?』
少し間を置いて、彼女は静かに続けた。
『――でも、あの人、救われたかもね』
アッシュは、応えない。
ただ、煙草に火をつける。
火の粉が闇に消え、灰が肩に落ちた。
アッシュは黙って歩き出す。
足音だけが、静寂の中に消えていった。
――See you in the ashes...