第82話:「ARIA」
アッシュは壁際の影に身を潜め、荒い呼吸を押し殺した。
額を伝う汗が頬を滑り、義手の先がわずかに震える。
『ちょっと、聞いてる?
このままじゃ勝てないって言ってるのよ!』
「……いつ死んだって構わねぇよ」
掠れた声が漏れた。
口角がわずかに歪み、瞳の奥で燻る光が揺れる。
「俺はな……“死に場所”を探しに来たんだ。
負けてもいい。死んでもいい。
――それでようやく、楽になれんだよ」
アリアの声が一瞬、途切れた。
次に返ってきたのは、冷たい合成音だった。
『……なら協力できないわ。システム、強制カット』
ピシリ――神経接続が断たれる音が響く。
頭の中の光が消え、身体に“重さ”が戻った。
「おい、アリア!」
呼びかけても応じる声はない。
代わりに、廊下の奥からコツ、コツ、と金属の足音が近づく。
――ゼノだ。
「……ちっ。いいさ、一人でやる」
アッシュはホルスターからコルト・パイソンを抜き、六つのシリンダーにナノマシン弾を込めた。
冷たい金属の感触が、心を静めていく。
息を殺し、物陰から飛び出す。
「喰らえ……!」
銃口が火を噴き、轟音が狭い廊下を震わせた。
白煙の中、弾丸が一直線に駆け抜け――だが。
「――そんな弾は、僕には届かない」
ゼノの刃が閃く。
甲高い金属音が遅れて響き、弾丸は空中で真っ二つに割れた。
蒼光を宿した義眼が、冷ややかに細められる。
「……三度目の正直、ってわけにもいかねぇか」
アッシュは苦笑し、銃口を下ろした。
その瞳には、諦念とも覚悟ともつかない影が宿る。
「ははっ……いいぜ。殺せよ」
ゼノは無言で左掌を掲げる。
蒼光が凝縮し、空気が震えた。
――プラズマレーザー、発射寸前。
その刹那。
『今よ――しゃがんで!』
アリアの声が脳内を突き刺した。
アッシュは反射的に身を沈める。
次の瞬間、蒼光の奔流が頭上をかすめた。
壁が焼け崩れ、爆風が吹き荒れる。
破片が頬を裂き、赤い血が滲む。
『閃光ジャマー! 今すぐ投げて!』
アッシュは懐から銀の球を取り出し、ゼノへ投げつけた。
ピピピ――ッ!
眩い光が炸裂し、廊下全体が真白に染まる。
ゼノの義眼が一瞬、ノイズで覆われた。
「……ぐっ!」
アッシュはその隙を逃さず、床を蹴る。
煙と閃光の中を滑るように退き、近くの部屋へ飛び込む。
肩で息をしながら、低く呟いた。
「……協力しないって言ってたくせに、急に口出しとはな。どういうつもりだ?」
アリアの声が戻る。
その響きには、怒気と悲しみが混ざっていた。
『……あんたに死んでほしくないのよ。悪い?』
アッシュは煙草を取り出し、火を点ける。
紫煙がゆらりと揺れた。
「ずいぶん勝手なやつだな」
『そうね……私の中の“ゲノムデータ”ってやつが、そうさせるのかしら?』
アリアの自嘲が、静かに脳内を流れた。
アッシュの意識の底で、博士の言葉が甦る。
* * *
「……君は“アリア”の力を全く引き出せていない」
「“アリア”の力を使えば、本来君はゼノにも劣らない。君たちの意識は、まだ同調していない」
「“アリア”は君の妻と娘の遺伝子をもとに設計された。――君専用の存在だ」
* * *
『私はずっと悩んでた。“私”って何なのかって』
アッシュは煙を吐き、わずかに笑う。
「……関係ねぇよ。
お前が俺に生きてほしいのは、“お前自身”の意思だ。データなんか、どうだっていい」
『……アッシュ』
その声は、今までで一番柔らかかった。
ノイズ混じりの震えが、まるで涙のようだった。
アッシュは火の消えかけた煙草を床に押し付ける。
「お前はアリア。――他の誰でもねぇ」
拳を握る。血と油が混ざり、じんわりと痛む。
その痛みが、生きていることを教えてくれる。
「死んでもいいなんて言っときながら、抗ってる。
――俺は、怖ぇのかもな。死ぬのが、よ。
わりぃ……手、貸してくれ」
小さな笑みに、かつての光が宿る。
心の奥に、熱が灯った。
『ふふっ……それなら、上等じゃない』
アリアの声に、陽の光のような温度が戻ってくる。
まるで、“彼女自身”が笑っているかのように。
「俺は俺。お前はお前だ。
……他の誰でもねぇよ」
アッシュは壁に背を預け、ジンの形見である銃を見下ろした。
照明の光がパイソンへ反射し、まるで新しい始まりを告げるように輝く。
「さぁ――勝ちにいくとしようぜ」
二人の火が重なり、炎となった瞬間だった。
――Burn the past, change the world.




