第18話:「嘆きの隣街」
――地上・四番街・拠点。
目を覚ましたアッシュは、天井をぼんやりと見つめた。
「……ふぁあ。……おい、ジン。
アイツ、どっか行ったのか?」
返事はない。部屋の中はしんと静まり返っている。
アッシュは、寝起きの体を引きずって椅子に腰を落ち着けようとした。
その瞬間――
「おい!誰かいないか?」
乾いた声とともに、ドアがノックされた。
「……あ?」
ドアを開けると、そこにはまだ幼さの残る顔立ちの青年が立っていた。
「……誰だ?」
「俺はトウマ。隣街から来た。
……あんたの噂、聞いたんだ」
トウマの声は震えていた。
だが目だけは、強く何かに縋っていた。
「母さんが、病気で……もうすぐ死んじまう。
頼む、助けてくれよ。
ワクチンさえあればいいんだ。
取りに行ってくれ……!」
アッシュは眉をしかめた。
「……お前、いくつだ?」
「十六。でもそれがどうしたよ。
俺はもう子供じゃない」
「そうか……で、金は?」
「……ない。でも、なんでもする。
あんたのためなら殺しだってする。
だから、お願いだ!」
沈黙が落ちた。
アッシュは一つ息を吐いて、トウマを見下ろした。
「子供じゃねぇって言うなら――
なんで自分でなんとかしないんだ?」
「……っ!」
「ガキが……話にならねぇな」
「っ……あんただって知ってるだろ!」
トウマの声が、堰を切ったように荒れた。
「ワクチンはネストで非合法に仕入れるか、アークで多額の金を払って買うか、盗むしかねぇんだろ!」
少し間を置いて、彼は静かに続けた。
「アーク行くには、ネストの隠しルートか地上からハッキングしかねぇ。……そんなの、俺には無理なんだ」
アッシュはしばらく黙っていた。
「大人だって言うなら、自分の力でなんとかしろ。
それが出来ないなら……金を用意しな」
冷たい声だった。
「帰りな……
自分の無力を、人のせいにするんじゃねぇよ」
* * *
――隣街。
スラムの外れ、ひび割れたレンガ作りの家。
玄関先に、息を切らしたアッシュが立っていた。
『ここが……トウマの家よ』
アリアの声が静かに響く。
扉を開けると、そこには小さな遺体と、泣きじゃくる少女がいた。
少女はトウマの妹だろう。
その傍らで、トウマは膝をついて、母の冷たい手を握っていた。
アッシュは一瞬だけ、硬直し目を細めた。
それから、いつもの無表情に戻る。
「……なんでだよ」
トウマの声は、かすれていた。
「なんで助けてくれなかったんだよ……!
母さんは……死んだんだぞ!」
アッシュは黙ったまま、部屋を見渡す。
「……死んだのは、お前が弱いからさ」
「……!」
トウマは跳ねるように立ち上がり、アッシュの胸倉を掴んだ。
「ふざけんな……帰れよ!何しに来たんだよ!」
『違うわ!アッシュは⋯⋯』
アリアの弁明が脳裏で虚しく響く。
アッシュは何も言わない。
そして……その手を思い切り振り払った。
トウマの体は壁に叩きつけられるように倒れる。
兄の元へ妹が駆け寄る。
「……俺が憎いか? なら、恨むんだな」
アッシュはトウマを見下ろし、淡々と言った。
「その恨みを握って、いつか殺しにきな。
……それくらい強くならねぇと、妹は守れないぜ」
トウマは何も返さなかった。
涙も怒声も、もはや出てこないほどに、ただ、俯いていた。
* * *
帰りの道すがら。
アリアの声が、静かに語りかける。
『間に合わなかったからって……
憎まれ役まで買う必要あったの?』
アッシュは答えず、歩き続ける。
『……あんなに、苦労して手に入れたのに』
ポケットに手を突っ込み、冷たいワクチンの錠剤を取り出す。
指先でそっと触れ、しばらく動かせずにいた。
街のざわめきが遠くから聞こえる。
「嫌なもんさ――弱いってのは」
……その言葉は、まるで自分に向けられているようだった。
錠剤を指の間で滑らせて砕く。
パキッ、と小さな音が響いた――
その欠片は風に舞う埃のようにこぼれ落ちた。
――アッシュの背中には、どこか寂しげな影が揺れていた。
――See you in the ashes...