第9話:「仮面の殺し屋」
――地下・ネストシティ、廃棄区画。
赤錆びた鉄骨と、剥き出しの配管。
冷たい空気が静かに吐き出され、廃棄区画に満ちる。足音が止み、一瞬の沈黙が、鋼のように重たく降りた。
――その中心に、二つの影。
一つは、灰の色を纏う男。
もう一つは、黒き殺気をまとう仮面の男。
ナイフが閃いた。
アッシュは右手の義手で鋭い軌道をいなし、金属が金属を撫でるように軋む。
カン、と高く跳ねる音。
義眼が敵の重心の崩れを捉え、次の動作を先読み。仮面の男の蹴りが、コンクリートの床を裂くように空振りした。
「自己紹介くらいしようぜ。仮面の下はお子様か?」
問いと同時に、アッシュは流れるように身をひねり、カウンターの拳を殺し屋の腹部へ叩き込む。
鈍い息が漏れた。
男は仮面を脱ぎ捨て、笑う。
「……ここでなら、俺にも勝ち目はあるだろ。
あんたを殺すために、この二年――裏社会で地獄をくぐってきたんだぜ」
仮面が床に落ちると同時に、義眼が微かに光を放った。
『識別成功。――カイ=グリード。
旧サンデルロ・マフィア構成員ね。
二年前に消息不明となっているわ』
「……俺が依頼で潰した組の」
「俺を思い出したか?
あの日、若いってだけで“生かされた”んだよ」
カイがナイフを逆手に構え直す。
一瞬の気配、そして床を蹴り、間合いを詰めた。
無音の連撃。
アッシュは右腕の義手でそれを受け流し、左手でカイの肩を押さえる。
だが、次の瞬間――カイの膝が跳ね上がる。
アッシュは顎を逸らし、紙一重でかわす。スライドするように後退。
「……やるじゃねぇか」
「俺を生かしたこと、後悔させてやるよ。
組織の仇、討たせてもらう」
殺気の牙が、間合いのゼロ距離で突き立つ。
ナイフがアッシュの喉元を狙って一直線に。
――だが、アッシュは微動だにしない。
次の瞬間、すっ……と首を傾け、殺気の軌道をまるで踊るように滑らかに外す。
すかさず義手がカイの手首を掴む。
金属が軋み、ナイフの動きが空中で止まった。
「――だが、無駄が多い」
低く、短くつぶやいた瞬間。
義手の肘が跳ね、カイの顎を砕いた。
カイの身体が一瞬、浮く。
その懐に一歩踏み込み、アッシュは左の拳を胸元に叩き込む。
続けざまに腕を捻り、肩ごと床に叩きつけた。
ドンッ!
肉と鉄の衝突音が、廃棄区画に反響する。
しかしカイも、ただの復讐者ではなかった。
転がりながらナイフを拾い、寝た姿勢のまま脚を横薙ぎに振る。
アッシュは即座に跳び退く。
ほんの半歩、ほんの数ミリ。
だがその一瞬に、カイは立ち上がっていた。
「……まだ……あんたまでは……遠いのか」
再び距離ゼロ。
パンチ、回し蹴り、ナイフ、義手。
殴打、跳躍、受け流し――すべてが刹那。
交錯する身体と気配の応酬のなか、アッシュは一度だけ目を細めた。
――あの頃とは違う。
怒りに任せて突っ込んでくるだけの、ただの“鉄砲玉”ではない。
修羅場をくぐって磨かれた動き。意識と身体が噛み合っていた。
壁を蹴る。
アッシュの右足が反動を生み、身体が回転する。
高速の横蹴りが――真横からカイの側頭部を打ち抜いた。
視界が、跳ねた。
カイの身体が、壁に叩きつけられる。
「……くそ……まだだ、俺は……!」
膝を折り、崩れながらも、彼は立とうとしていた。
「……また、俺を殺しに来い」
アッシュは低く言うと、静かに歩み寄り、手刀を後頭部へ。その一撃で、カイの瞳から力が抜け、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
――沈黙。
ネオンも届かぬ地下の闇。
そこに残ったのは、アッシュの微かな呼吸音だけだった。
彼は落ちた仮面の残骸を拾い上げ、それをカイの胸にそっと置く。
脳内にアリアの声が響く。
『どうして殺さないの? また狙われるわよ』
背を向けるアッシュの足取りは、どこまでも静かだった。
「こいつの生きる理由が、俺になるなら。
……それも悪くないさ」
灰色の足音が、冷えた廃墟にコツリ、コツリと鳴り響く。
――静かな、終わりだった。
けれど、それは、新たな“生”の始まりでもあった。
――See you in the ashes...