虚無へのメッセージ
空はただの色だった
雲はただの形だった
風はただの動きだった
僕は、ただの虚無だった
歩く理由はなかった
止まる理由もなかった
呼吸するのは習慣だった
心臓が動くのは、機械と同じだった
笑わない理由もなく
泣かない理由もなく
ただ、感情がどこにもなかっただけ
残すものは何もない
思い出も、名前も、声も、痕跡もない
僕が消えても、世界は変わらない
空白は空白のまま
意味は意味を持たないまま
存在は、ただ存在していただけだった
――僕は虚無そのモノだった。
生きるのにも死ぬのにも値しない人間だった。
そんなしょうもない人間が明日自殺する。
かすかにカーテンの隙間から漏れる光が、僕の影を濃く映していた。
両親が服毒自殺してからもう3か月が経つ。特に感情はない。ただ時間だけが流れている。
両親が運営していた飲食店は相続してすぐに壊した。あの広すぎる厨房を見るたびに二人の死体が頭の隅でちらつきそうで鬱陶しかったからだ。
厨房を片付けている最中、腐ったスポンジのような匂いが鼻に残って少しだけ吐き気がした。でもそれも単なる生理現象だった。悲しみとは違う。
今は実家の二階の部屋でリモートワークのフリをして生きている。パソコンの画面には意味のない数字が並び、無意味な会議の通知だけが鳴る。適当にスタンプだけ押してそっとパソコンのモニターを消した。マウスが自動で動く設定にしてあるからこれでも大丈夫なのだ。僕が死んだ後も仕事しててね。
まぁ、誰も僕に興味がないし僕も誰にも興味がない。それが分かるだけで死ぬ理由として十分だった。
もちろん、死ぬなら首吊りが一番だと思っている。失敗する確率が低く、静かに終われるからだ。
痛いのは嫌だし誰かに見つけられるのも面倒。
定型で完璧に確実に終わらせたい。それだけだった。
首吊りが安牌過ぎてどうして両親が服毒自殺したか理解できない。あんなの苦しいだけなのに。
……あぁ、両親がなんで自殺したかって? さぁ、僕にも分からん。遺書もないし。
借金はない。なんなら僕が不動産と預金諸々相続するときに相続税300万円近く払わされたよ。配偶者だったら控除大きかったのに、相続人が僕だけだったから無駄に高いんだよな。
これといって知人間にトラブルがあったとか店の売り上げが悪かったという話も聞いていない。だから余計に謎なのだ。
人間ってああ醜く死ねるもんなんだな、とちょっと感心したよ。本当に苦しそうに死んでたもん。でも、悲しみとか憎しみとかなーんもなかったね。登記怠いなぁとか、実印作ってなかったから作ってから印証届け出しなきゃなぁとか、実務的なものばかり頭の中に浮かんでいたよ。
……僕は親不孝者か?
文句ばかり垂れ流しているが、別に親と仲が悪かったわけじゃない。仲が悪かったら18歳くらいで家追い出されてるだろう。
両親とも自由放任主義であった。とはいえやりたいことがあればお金は大体出してくれた。おかげでそれなりの大学も行けたし、ゆるゆるホワイト企業に入ることもできた。倫理観が欠けていたって傍からバレなきゃ何ら問題ない。
さて、明日死ぬから今日は早めに寝るか。自殺はかなり体力使うからな。
23時に寝るなんてセンター試験以来かもしれない。死ねると思うと楽しくてしょうがないな! 今の僕は遠足前の子供と大差ないかもしれない。
*
翌日、どんよりとした曇り空だった。
晴れていても雨が降っていても僕からすればどちらでもよかった。けれど、曇りというのは都合がいい。余計な光もなく暗すぎることもない。ただ無表情な空の色が、僕の気分とちょうど釣り合っていた。
コンビニに寄るついでに紐を買うつもりだった。最初は適当な麻紐でいいかと思っていたが、やはり耐久性を考えるとホームセンターの方が確実だった。失敗するのは面倒だ。生き残ってしまうのも余計な手間が増えるだけだし。
外に出ると、空気は冷たくて乾いていた。季節が進んでいることを感じたが、それが今年の何度目の秋なのかはすぐには思い出せなかった。どうでもいいことだ。季節が変わろうと、僕の中には何も残らない。
歩きながらすれ違う人々の顔をぼんやりと見た。誰もが何かに向かって歩いている。仕事だったり、買い物だったり、家族のもとへ帰る途中かもしれない。けれど、彼らが何を考えているのかには全く興味がなかった。彼らが幸せでも不幸でも、僕の人生には何の影響もない。
ホームセンターに着くと、店内は無駄に明るく、人工的な照明が目に刺さるようだった。工具売り場の奥、ロープが並んでいる棚の前で立ち止まる。
白いナイロンロープ、麻紐、登山用の丈夫なロープ。選択肢は多かったが、必要なのはただ「切れないこと」と「簡単に結べること」だけだった。クレモナロープ14mmとか言わないから。
耐荷重のラベルを確認する。100キロでは不安だった。念のため、200キロまで耐えられる太いロープを選んだ。手触りは少し固く冷たかった。問題ない、むしろそれくらいでいい。
レジで会計を済ませると、店員は特に不審そうな顔をすることもなく機械的に「ありがとうございました」とだけ言った。僕も何も言わず、軽く会釈して店を出た。
これで必要なものはすべて揃った。
帰り道、自動販売機で缶コーヒーを買った。特に飲みたいわけではなかったが、手が自然に小銭を投入していた。ボタンを押す感触が妙にリアルで缶が落ちてくる音だけが鮮明に耳に残った。
缶コーヒーを開け一口飲む。苦味は薄く、ただの温かい液体だった。味がどうでもよくなったのはいつからだろうか。いや、そもそも「味わう」という感覚を最後に意識したのがいつだったかも思い出せない。腐っても両親はバリスタの資格持ってたんだけどな。味という官能を楽しむ能力は子供には引き継がれなかったようだ。
コーヒーを飲み干し、自販機横のゴミ箱に捨てた。身体が覚えているルートで家へと歩き出す。
家に着くと、玄関の空気が外よりも重たく感じた。
……気のせいだろう。ここには誰もいないし気配なんて存在しない。ただ壁と床があるだけの空間だ。オカルトには興味ない。
二階の自室に戻り、買ってきたロープを袋から取り出す。改めて手に取ると思ったよりも固くて無機質な感触があった。でも、それが逆に安心感を与えた。確実に役目を果たしてくれるだろう。
天井を見上げる。梁はしっかりしている。子どもの頃、父親が「この家は丈夫に作ったんだ」と言っていたのを思い出す。だから何だ、と思う。その丈夫さは僕の死のために役立つだけだ。
ロープを結び、何度か強く引っ張って確認する。
問題ない。十分に耐えられる強度だ。
椅子を一つ中央に置き、その上に立って高さを確認する。首にロープをかける動作も、ただの手順として淡々と進めた。特別な感情は湧かない。ただ「これで終わる」という事実だけが、静かにそこにあった。
ふと、遺書を書くべきかと考えた。
まぁ読む人はいないけど、困惑させたいから書こうかなぁ。だって、このままじゃ両親が自殺したから後追いしたみたいな筋書きにされちゃうじゃん。……5%くらいは合ってるけど、自殺の理由が統計として取られるのは上位3つまでだからな。
変なこと書いても専門家はなぜか見抜いちゃうから詩でも書くか。初めて書くけど。
Wordを開き、思い立ったことをつらつらと書く。
途中「これは果たして詩なのか」と思うところはあったが、詩じゃないと言われてもいっか。その頃には死んでるし。
スマホを机の上に置き、電源を切った。誰からも連絡は来ないとわかっているのに、それでもわざわざ電源を落とした。静けさを確認するためだったのかもしれない。
部屋は薄暗くなり、外から微かに夕方の気配が差し込んでいる。時計の針の音だけが規則的に鳴っていた。
僕はロープを首にかけ、深呼吸もせずにいつも通り立っていた。これが最期の瞬間だという実感もなかった。一つの行為として終わらせるだけである。
冷たいロープに首が圧迫される感覚。首の脈動がより強く感じられる。
なんだ、今更生きていたいのか? 生きていたって意味がないということくらい小学3年生の時から知っていただろう。
これは単に一つ消えるだけだ。それにプラスに働く意味で消える。
会社は余計な社保を払わなくて済む。労働人口が一人減ったとて誤差の範囲。……一人っ子だから僕の一族は完全に途絶えちゃうけどね! そんな事例いっぱいあるし、戸籍を重要視するなんて日本だけなんだから! どうでもいいね。
何の躊躇いもなく、椅子の背もたれを蹴り飛ばした。
椅子を蹴った瞬間、すべてが終わると思っていた。
けれど、現実は違った。
――首が焼け付くように痛いのだ。
ロープは思っていたよりも硬く、冷たさと粗さが喉元に食い込む感触。ピタリと締まるわけではなく、微妙にズレた位置で首の皮膚と肉を無理やりねじり潰していく。気道は完全に塞がらず、かすかに空気の通り道が残る。中途半端な圧迫が、逆に最悪の痛みを生み出している。
呼吸ができない。
いや、呼吸しなくていいはずだった。そもそももう必要ないはずだったのに、肺が勝手に空気を求めて膨らもうとする。でも、入らない。鼻腔から喉へ、冷たい空気が少しだけ触れてすぐに途切れる。空気の「気配」だけが、皮肉なほど鮮明に残る。
耳の奥で、秒針の音がはっきりと鳴る。
カチ、カチ、カチッ。
たった一秒が、永遠のように引き延ばされていく。
1秒目。
首にめり込むロープの感触は冷たい金属のように感じた。実際にはただの繊維でできているはずなのに、硬くて鋭い刃物のように思えた。
喉の奥がギュッと締め付けられ、声すら出ない。ただ、内側から押し潰される感覚だけが鮮明だった。意識はまだはっきりしている。おかしい。こんなに痛いはずじゃなかった。首を吊るだけで静かに意識が遠のいていくと思っていたのに。なぜまだ考えている? なぜ、こんなに痛い?
エアコンの生温い風が慰めるように僕を撫でる。何の意味も成さない。
まだ考えられる余裕があることに気づく。その余裕が、むしろ余計な思考を呼び込む。
――しくじったか?
その考えが一瞬だけ脳をかすめる。焦りではない、ただの事実確認。失敗という事実だけが、冷たくのしかかる。
2秒目。
目の奥が圧迫される。視界の端がジワジワと暗く滲んでいく。けれど、視界の中央だけはなぜか異常に鮮明だった。
部屋の隅、薄暗い壁紙のシミが見える。その形が妙に気になってくだらないことを考える。
――あれ、前からあったっけ?
どうでもいいはずのことが、どうでもいいまま頭に入り込んでくる。
カチッ。
秒針の音だけが現実を突きつけるように響く。耳鳴りも始まった。キーンという高音が、頭の奥で釘のように刺さる。音が、音じゃないものに変わっていく感覚。
3秒目。
身体が勝手に動き始めた。足がバタバタと暴れ、無意識に生きようとする反射が働いている。生きようなんて思っていないのに、身体は勝手に抵抗する。膝が空中で無様に跳ね上がる。意味のない動きだとわかっているのに、止められない。
喉の奥で変な音が漏れる。ガラガラ、ゲフッという音。声にならないただの空気の摩擦音。唾液が喉に詰まる。飲み込もうとしても、もうその機能はうまく働かない。
舌が勝手に前に押し出され、口の端からよだれが垂れる。滑稽だな、と思う。冷静にどこか他人事のように。
4秒目。
意識が薄れてきた。視界はさらに狭まり、今度は視界の中央すら曇っている。目の前がモザイクのようにぼやけ、何を見ているのかすら曖昧になっていく。
父と母の顔が一瞬だけ浮かぶ。あの死んだ時の、苦しそうな表情。そうか、こういう感じだったのか。今なら少し理解できる。いや、理解したところで意味はない。理解しても、どうにもならない。
それでも、まだ死なない。苦しいまま、意識だけが中途半端に残っている。
5秒目。
鼓動が頭の中で反響する。ドクン、ドクン、という低い重低音。心臓はまだ動いている。それが逆に憎たらしい。この心臓が止まってくれればすべて終わるのに。生きている証拠は苦しみの延長線上でしかない。
冷たいロープの感触は、皮膚の痛みを通り越して、内側の骨に直接響いているようだった。喉の奥で何かが潰れる「感覚」があった。音かどうかはもうわからない。ガクガクと首が痙攣し、頭が無意味に揺れる。
――まだか?
本当に、まだか?
6秒目。
思考がグチャグチャになり始める。言葉にならない断片が頭の中で跳ね返る。
冷蔵庫の中、空っぽの棚。腐ったスポンジの匂い。子供の頃に見た青空。缶コーヒーの苦味。何も意味を持たない映像と音が、バラバラに流れていく。
カチッ。
秒針の音だけはなぜか鮮明だった。まるで僕がまだ生きている証拠として意地悪に鳴り続けているようだった。
7秒目。
意識がほとんど消えかけている。視界は真っ暗で、音もほとんど聞こえない。ただ、痛みだけがわずかに残っている。痛みすらもはや「痛い」と認識する余裕もなく、ただ存在しているだけの感覚。
最後に浮かんだのはくだらない思考だった。
――そういえば冷蔵庫、空っぽだったな。
意味のないくだらない思考。それが僕に残された最後の「何か」だった。