○第四十九話○扉を開けてくれた貴方へ
ーー殺せ。殺せばいい。でも、殺せなかった。体が動かなかった。躊躇したわけではない。きっと、そうではない。
「あなたらは……」クロウスが、呆然と呟く、
ハウエルが振り返った。笑った。
「すみませんね、いつもいつも。……おばさん」
「ええ。迷惑かけられているわ……」
クロウスは見た。
「おい……そいつが七番通りの殺人鬼ってのか?婆さん」
「お姉さんと呼びなさい」
老年の女性。ボサボサの髪の男性。やいやい騒いでいる。クロウスは興がそがれる。これでは、まるで自分が見せ物になっているかのようだ。
「なんだこれは……ハウエル……?こんなにぞろぞろと引き連れて。遠足じゃあないんだぞ?」
「馬鹿。俺も知らねえよ。こんなことになるなんて、つゆほども思っちゃいなかった……。ただ、解るさ。あんたを、許せないんだと」
一斉に、彼らの目がクロウスを突き刺す。厭悪の籠った目だ。
一人の男が前へ出てくる。自警団の、カジだった。
「七番通りを舐めるなよ、クロウス。お前がどうこうできるほど、俺たちはヤワじゃねえんだ」
「そうだ、妻を返せ!」「七番通りを返せっ」「息子の仇!」「鬼畜めッ」「信じられない男だっ」
口々に言うのを、雷を落として黙らせる。二、三人が爆ぜる。血霧と化す。しん、と沈黙が去来する。一人が逃げ出した。もう一人も逃げ出す。わっ、と、蜘蛛の子を散らすように、数人を残して、ほうら、みんな逃げ出した。
ーー何しにきたんだ、こいつら。載せられた馬鹿どもが。
クロウスは呆れたように笑う。
「興が削がれた。もういい。先にお前たちから殺してやる。力も能もない、舞台をかき乱すだけの馬鹿どもめ、貴様らのせいで私は不死身となったのに、せっかくその喜びに浸っていたのに、下らん。
そもそも、蟻が何匹集まったところで何ができる?こいつらギルの魔力の十分の一もないぞ?
どうあがいたところで……お粗末だよ、ハウエル。こんな尻切れトンボのような最期になるなんて、期待した僕が馬鹿だったのかもしれない」
「馬鹿はあんたよ。団結した力というものを、貴方は舐めすぎだわ」老齢の女性が言う。さっきの出来事に動じていないのは見上げた根性だが、クロウスの耳には虫の羽音にしか聞こえない。
「ーーハっ。どこがどう団結しているんだ。少し脅かしてみればすぐに戦意を喪失する。貴様らの唯一と言っていい手段である神風特攻もこれではそよ風だぞ、ハウエルよ」
ハウエルは答えない。動じも、しない。骸骨の数は先と明らかに減っている。
「ああ。もう減らず口も叩けなくなったか……お終いだ。貴方は好敵手でしたよ。本当だ……だからこそ、こんな終わり方は、残念だ」
そう言って、クロウスは一歩を踏み出す。
ーー踏み出せない。
どういうことだ?何かを動かそうとしても、動かそうと力を込めることはできる。でも、壁を押すみたいにびくともしない。瞬きするのも、まるで流砂にはまったみたいに体力を要する。
「よう……助かったよ。オマエが口だけで、手は動かさずいてくれたおかげでな」
「なにーー?」
急いで魔力展開を発動する。
(なんだーー?自分の周りに、鎧のように、薄い薄い鎧のように粒子が舞って、張り付いて、自分がしようとした動きと逆向きに動いている。これはーー?)
「そうだよ。骸骨は不死身だ。あんた……首を切り離せば奴らは動けなくなる。でも、それだけだ。死んだりしない……いくつか、木っ端微塵にしちまったな」
まさか、『細かい粒子となった死者たちが、自分の動きを必死に制限しているのか』。まさか。どうやって?動けるのか?奴らに個の概念なんてものがあるのか?もはや粒の塊となってしまって、他の塵芥と一緒になってしまって、それでも、尚。
「いや……あり得ん。どこから、そんな魔力をーー」
クロウスは言うと同時に見た。散らしたはずの人間が、戻って来ている。なんて半端な奴らだ、しかしーー。一度戦意を喪失させたはずの奴らが、また。それらが、恐ろしいほどの魔力を放出している。あれは、魔力でなく、生命力そのもの。轟轟と水飛沫散る滝壺のように、己の限界の何歩も先を、絞りだしている。
骸骨が群がる。視界が塞がれる。
開いたままの口に手がねじ込まれる。声が出なくなる。
何も、見えなくなる。
ーーどうして、ここまで出来る。
ーーどうやって?どうして?何故?
奴の言葉が、浮かび上がって来た。
(でもね……違うんですよ。貴方が相手にしているものは、目には見えない。だけど、もっと、比べ物にならない、巨きいものだ。きっと、貴方では勝てないものだ)
懐かしい顔が、甦って来た。
(いつか必ず……貴方に報いが来る)
「レェェベェルカァァァッッ!!」
怨嗟を残して、墓標が完成した。
※ ※ ※
※ ※ ※
クロウスは闇の中にいた。もはや五感らしい五感はなかった。あの世か、と思ったが、違った。自分の一部、魔力だけがそばにいた。魔力の他に、何かがあった日はなかった。
クロウスーー玄野の歴史は、敗北の歴史だった。彼は秀才だった。基本的に物事は人並み以上にできた。しかし、努力がとにかく苦手だった。小学生で神童と呼ばれ、中高で秀才と呼ばれ、二十超えたらただの人。何者にも成ろうとしなかったから、何にも成れなかった。それだけだった。この世は努力だけは誰にでも出来るなどと嘯いているが、それは違う。それには才能がある。努力できることにも、確かに才能がある。彼らは勝手に神格化され独りにされる自分とは違う。同情される。愛される。だから成功するし、周りにたくさん人がいる。理解される。
この残酷な方程式から逃げたくて、僕はゲームにふけった。
レベルカは努力家だった。ゲームの世界であっても、その方程式は、人が人である限り、無くならなかった。
ああ、サラ。思い出したよ。あの時の、レベルカが言った言葉。
「貴方は、必ず報いを受ける時が来るから、覚悟しときなさいよ」
あの婆あとよく似ていた。だから彼女の声は癇に障ったんだ。
いや、それよりも、あの時。クロウスが、魔獣を瀕死のレベルカに差し向けた後、驚くべきことに彼女が魔獣どもをほとんど捌き切ってしまった後、私は本気で殺すつもりがなかった。尊敬してすらいたのだ、彼女を。
「大丈夫ですか?何に襲われたんです?」
だいたいその辺のことを、言ったと思う。私は、今初めて、彼女が襲われていることに気付いたかのように言ったはずだ。そして、近寄って、手を取ろうとして……振り払われて。
あの台詞とともに……あの顔をされた。
抑えきれなかった。気がつくと。手に長い髪の毛が巻き付いていた。血の色をしていた。
これが俺の業だ。これを背負って、生きなければならないのだ。
恐らく、生まれた時から、それは。
サラ。どうして負けてしまった。俺とともに、この業を背負っていてほしかった。本当だ。本当に、サラを倒した人間、あの男。老齢の女と同じくらいに憎い、憎い。憎い憎い憎い……が。
独りになりたくない。誰かをもう見下すのも、実力の差も、何も、そこにいるだけでいいんだ。憎みたくもない。誰かそこにいてくれ。居るだけでいいんだ。頼む。誰でもいい。僕を、誰でもない誰かにさせてくれ。
魔力、それだけだった。私の願いに応えるのは。私を守るように、鎧のように、厚く、濃く、そして、薄く。
ーーでも、無理だ。当然の結果だ。生まれてからの、きっと、業だ。報われなきゃあ、いけないよな。
ーーもう、止まることはできないのだ。
ーー俺は、こうあることしかできない。
ーーレベルカ。
※ ※ ※
「ーークロウス?」
違和感があった。
「ギル、喋るな」
分かる。俺でも分かる。なにか、必死な形相をして喋らんとしたのを、手で制した。
白い十字架があった。パイプにも届こうか、と言うほどに巨大な。あれは墓標だ。俺が、いや、クロウス自身が作りだした墓なのだ。その中心から、あり得ないくらい濃い……。
「いや、総量自体は変わってないのか……?」
これ以上魔力が増えるなんてことはあり得ないはずだ。クロウスは死なない。もう死んでいるから、死なない。俺はこの墓に、永遠にクロウスを閉じ込めておくつもりだった。それが、出来ると思っていた。
「動いています」
「ギル。よせーー」
「言わせてください。クロウスが、身動きが取れないはずの、あの墓で一歩も動けないはずの奴が、今動いています」
「……冗談だろ?」
「……」ギルは答えない。
「冗談じゃねえよ……」
肉眼で見える。まるで骸骨が自発的に道を譲るみたいに、クロウスは何をするでもないのに、歩いているだけなのに、骸骨をかき分けてやってくるのだ。
奴の周りがまるで炎の周りの蜃気楼のように歪んでいる。魔力はその濃さから、魔力のみで、もはや視覚的にも影響を及ぼしていた。奴自身が、炎なのか。
「あれは」
呆然と呟いたのはリップスだった。
「ーー『〇・五センチの、魔力展開』」
※ ※ ※
初めて使ったのはリップスだった。あの時は、特殊な状況だったからこそ、あれほど範囲の狭い魔力展開か功を奏したわけだが、今回はそうはいかない。クロウスは今の状態でも十分大きな範囲での魔力展開ができる。しかし、あえて範囲を極めて狭く、密度を高くしたのは、魔力展開の本来の用途である索敵としての効果を期待したものではなく、魔力という物質そのものを極限まで密度を高くしたことで、他の物質がその空間に入り込めなくなる、ということだった。
そう。攻撃は彼に届かず、骨の粒子でさえも。
「もう、いい加減にしろよ」そうハウエルは言った。クロウスは歩き始めた。
「させるかっ」大勢がクロウスの前に立ちはだかったが、もはやクロウスは振り払いすらしなかった。歩いているだけでーー。
「くっそ、近づけねえ……拳がーー届かねえ」
まるで磁石が反発するかのように、クロウスの肉体を屠らんとしたリップスの拳は中途で止まった。クロウスの進行を体で止めようとするも、弾き飛ばされる。他の、誰も彼も、同じ、足首さえ掴めない、誰もクロウスを、止められない。
まさに万事休すだった。
「クロウス」
「もはや、ゲームもクエストもどうでもいい。俺は貴方に勝ちたい。決着をつけよう、ハウエル」
「クロウス、一騎打ちだ」
スケルトンは言った。
「なに?」
「ここで、この大勢の立会人のもと、一騎討ちをしよう」
そう言った。
※ ※ ※
「ハウエル……」ギルは、血の味と共に言った。無力な自分が情けなかった。この取引は、ほぼクロウスが権利を握っていると考えていい。クロウスには圧倒的な権力があるからだ。ハウエルは苦し紛れなのだ、と察した。どうにかこの何百人を殺されないよう、知恵を巡らせている……でも、クロウスの反応はーー?
「奇遇なことに、俺も全く同じことを考えていた。ハウエルよ……、断れば、立会人を皆殺しにすることも、ね」
ーーなに?……ということは、断らなければ、周りのみんなは殺さないで済んでくれるのか?甘い希望に縋りそうになる。良くないことだ。どうにか、打開策を捻り出さなければ。
「分かった、わかったよ……クロウス。方法はーー?」
なかった。どれだけ策を練っても、そもそも触れ合うことができないという前提条件の壁があまりにも高すぎる。不可能だ、勝つことなんて。
そもそもーー。
「そうですね……、決闘方法は、名乗り上げで。シンプルに、ね」
こいつの前に立っているだけで、意識が飛びそうだ。いくらなんでも、魔法を長く使いすぎた。クロウスの圧力もあるが……、もう限界だった。もういいじゃないか。良く頑張ったよ俺は。
「じゃあ、俺の名から」
遠く聞こえる。決闘どころか、卒倒しそうだ、俺は。立っているのがやっとなんだ。もう平衡感覚も、保てないのだ。
ーーああ。倒れてる、俺……。
ーー無理だ。
「俺は、クロウス」
声が聞こえる。
ーークロウス?
「ただの、クロウス」
ーークロウスッ!!
ーーああ、ああ、俺は、お前が殺人鬼だからとかじゃない……。
ーー敗けたくない、お前に……。
ーー畜生。
「貴方の名前はーー」
ーー勝ちたい。
※ ※ ※
「リオネス」
また、声がした。どこの声だろうと思った。知っている声だった。心の奥底に、大事なものとして秘めている声だった。
「ーーリオネス?」
支えられていた。その背中を。振り向くとーー。
「……リオネスッ!?」
「あ、お久しぶりですね、ハウエル」
無邪気に笑う旧い友人がいた。俺より頭ひとつ分背が高くなった彼女は、少し肌色は悪いが、とても生き生きとして見えた。
リオネス。神名を拝した近衛騎士団団長。そして、つい先日、クロウスに斬られ亡くなったはずの。
そう。『起きた』のだ。