○第二十九話○手遅れ
呼吸が荒くなる。
視界が涙以外の理由で滲む。
駆け寄る。跪く。
そして。
ーー誓って殺してやる。
「誓って殺す」やっとの思いで出たはずの言葉は。絞り出すようにして出たはずの言葉は。
なによりも『正常』で。いっそ、今までが異常なんだって、そう思えるくらい。
クロウスを甘く見ていた俺は、甘かった。異常だった。あいつは、駆除すべき怪物だ。
俺はフーミルを抱き抱えながら、言った。クロウスは、もうすでに居なくなっていた。
思考が加熱するのはたった一瞬のことだった。代わりに、肉体が打ち直される抜き身の刀のように熱くなって、代わりに水に入れたように頭は冷えた。
俺はフーミルの飛び出た腸をお腹に戻してあげた後、手を拭くための布で傷の入ったお腹を縛った。
「ーーッッ」俺は息を呑む。
『じわじわ』じゃない。布を当てたそばから、どす黒く染まっていく、まるで紅花の染料のように。止血の仕方なんて、俺にはわからない。でもこのままじゃ、失血死する。フーミルは、白目を剥き、口の端から泡を吹き、痙攣しながら、浅い呼吸で喘いでいる。まるで。……(悪いように形容したら悪化してしまいそうで形容し難い)
「クソッ。クソッタレ、畜生……」
俺の非力な腕では運べない。無理にずるずる引っ張っても、俺の腕が抜けるし、それよりもフーミルの傷を悪化させてしまうだけだろうしああ、クソッタレッじゃあ、どうするんだ!?
ーーじゃあ、どうするんだ俺は?考えろ。
全力で頭を回す。ギルは?他のギルダーは?誰かを呼びに行くしか。
「間に合わないーー」
だめだ出血がひどい。やれない。
じゃあ、どうする?
「……」
じゃあ、どうすればいい。
「…………ッ」
じゃあ、フーミルは死ぬのか。
ハエが集り、蛆虫が集り、かつての俺のように。
俺はフーミルを玄関前まで引きずったところで、その鮮烈な予兆が、想像が脳を貫いた。俺はそれを振り払うべく叫んだ。
「おい、誰か……、おい!誰か!?いないのか?いるんだろ?居てくれ!!『全部やる!』俺はどうなったっていい!!この子を助けてくれっ」
情けない叫びがパイプの中を反響する。
自分には何もできないんだ、と自白しているようなことだった。非力さ、無力さを。しかし、そんなことはどうだっていい。心底どうでもいい。大事なことは、彼女に誰かが来てくれること。
「……」
こだまだけだった。帰ってきたのは。悲痛な。魂を打つこだま。俺はひざまづいて、両手を床にあてて、
「リオネス……頼む。助けてくれ……」
と懇願する。きっと、誰も来ないのに。
「……あ」
……。
……どこからか。
どこからか、大勢の足音が聞こえた。人間のものではなかった。小太鼓を、打ち鳴らすような音。それは黒く灰色の壁のような、しかしよくみると一匹一匹が重なり合った群れ。
ーー火鼠の大群である。
「ーー逃げたんじゃなかったのか!?」
貴族種の火鼠が先導している群れだった。彼らはフーミルの下に体を滑り込ませる。俺は左手の小指を外して貴族種にあげた。すると、みるみるうちに火鼠全体の魔力が膨れ上がるのがわかった。
「全部やる。ーー取り敢えず、ギルドまで運ぼう。排水口に向かうぞ」
火鼠は鳴いて答えると、火を噴いて加速し始めた。
※ ※ ※
ギルド『アルバトロス』の治癒術師であるミシェルは、ギルドテントの中で、束の間の休息、と椅子の背もたれに体重を預けて、深く息を吸った。茶菓子が棚に直してあったが、今はそれを食べるのすら億劫だった。
「ほんと、これからどうなっちゃうんだろ」
「んなこと、考えなくてもなるようになるわよ」
「何言ってんだよ。僕たちの大事な話だぜ?」
「あんたが考え尽くしたって無駄よ」と断定される。深いため息が降りる。眉間を揉む。今はこいつと喧嘩できるだけの体力も精神もないようだ。
「ああ、もう」
「どうにでもなれって感じー?」
「そーじゃない、でもーー」
「でも?」
「……」
レベルカの甘ったるい返答に、ミシェルは幼く見える丸っこい鼻を指で挟み、眉間に持っていく。ちょうど、豚みたいに見える感じだ。
「団長が辞めて、もう一日。そろそろどうするか決めないといけないわね」
急に現実味のある話を持ち出されたせいで、まどろみに浸っていたミシェルの頭は叩き起こされた。しどろもどろになりながらも、ミシェルは言った。
「呼び戻さないの?一時の気の迷いとかじゃない?ギールとか、その、気分屋だからしょっちゅうどっかいくし」
「団長はそういう人じゃないわ。それより、本気だったわ。あの人は。見たらわかるもの」
「そんな事ない、そんなーー」理屈は必要がなかった。否定をできればよかった。そういって、レベルカが頷いてさえしてくれればそれで良かった。ただ、レベルカはそんなミシェルの弱みを、責めるでもなく、受け入れるでもなく、どこか遠いところを見ていた。
「ねえ、レベルーー」
「ーー地震?」
「はえ?」
ふと、突拍子もないことを言ったレベルカに、素っ頓狂な声をあげたミシェルは、神経を澄ませた。たしかに、なにか太鼓が鳴らされるような、質量を孕んだ音が聞こえる。が、でも。
「なに……近づいてくる」
その言葉を聞いて、ミシェルはすぐさま立ち上がり、魔力を出来るだけ纏った。その音は、どんどん大きくなり、ギルドテントが軋み始めるまであった。ああ、どうしよう、こんな時に。先に茶菓子、食べておけば良かったなー。なんて、益体のない言葉すら浮かぶ余裕もなく、
「ーー来るぞ」
ーー来る。
ドアが破られそうな勢いで開けられ、中から出てきたのは。
「急患だ!急患なんだっ!!腹部に致命傷がある。頼むッッ」
ーー今にも泣きそうな顔をした、スケルトンであった。
「ーーえ」
スケルトン?任務の対象。逃げたはず。どうして?しかも、抱えている少女は、あの時の。何故?ミシェルは一瞬状況を理解しかね、困惑こそしたが、すぐに治癒術師の顔になり、それからの判断は非常に早かった。固まっているレベルカに檄を飛ばす。
「救急だ!ガラコ持ってきて!手余っている人も全員!」
「ーーわかった」
弾かれたようにレベルカは立ち上がると、車輪のついた移動式の担架みたいなものを引いてきた。取り敢えずフーミルをそれに乗せる。スケルトンはすぐさま遠ざかり邪魔にならぬよう、彼らの顔を見ることもせず、顔を伏せった。
フーミルの容体を一目みて、ミシェルは歯噛みする。スケルトンは我慢が効かなかったのか、ボソリと質問した。
「どうなんです、フーミルは」
「……厳しい。今は厳しいとしか」
「……ッ。分かりました」
容体は非常に悪かった。脈が弱い。出血しすぎている。何かスパッと、鋭い刃物で切りつけられている。内臓がいくつか傷ついている。大腸はまさにそれが激しい。呼吸も浅い。
ーーつまり、時間がない。早ければ、十分後にも。一刻も早く、治癒をせねば。
「誰か治癒をしないと」レベルカがそばにより、囁く。
その通りだ。生命魔法を行使しなければ、今の医療技術では、確実にこの子は死ぬ。ギルドテントのギルダーは全員で応急処置にあたっている。しかし、問題は、ギルダーおよび治癒術師が、ほとんど居ないことだった。
「僕がやります」
応急処置をしながら、ミシェルは言った。今、ギルドは大事な任務に大多数が駆り出されていて、人数が少ない。まともな治癒術師は自分しかいない。その自負から、生まれた一言だった。
「本当か!?」
スケルトンがほとんど叫んだ。その一瞬後に、興奮を抑えて口をつぐみ、落ち着いた声音で言った。
「生命魔法は傷ついた自分で行使するものだ。治癒術師は魔力を与えるだけ。本人が生きていないと治癒はできない。時間が無い」
スケルトンはかなり生命魔法に精通しているらしかった。その通りだ。応急処置については全く静観を保っていたが、生命魔法の話は通じるようだ。
「分かっています」
深く、息をつく。失敗は許されない。自分そのものを無色の魔力に、透明人間になる感覚。これを集中して、高い次元で維持して、そして、彼女の魔力機関……ここでは額の丹光から、お腹の丹田に当てて、循環させる。誰も、早くやれなどとは言わない。一瞬の気の迷い、散りが、患者の命の分け目になることを、彼らは知っていた。
それでも、ミシェルは焦ってしまう。生命をかけた患者への生命魔法の行使は、これが初めてだった。どこまでいっても、ただの怪我の治療と、生命のかかった怪我の治療では天と地ほどの差があった。手が震える。情けない。焦るごとに、ミシェルの額には汗が滲み、同時に魔力の色も濃ゆくなっていく。
早く。早く。
「ーー大丈夫だ」スケルトンがつぶやいた。それは、ほとんど自身に言い聞かせるような、か細い声であったが、いくばくか、ミシェルの力になった。
ーーいまだ。
最も気力が充実したその時、意を決してミシェルは治癒をしようと彼女の体に手を当てる……。
彼女は痛みのうめき声すら上げない。本当に、限界なんだ。
大丈夫、今、救ける。
ミシェルは魔力を流し込もうと、ありったけを……。
ーー。
ーーー。
ーーーーーそこで止まった。
「ーーそんな」
「……どうした?」スケルトンが緊張を隠しきれない声音で聞いた。彼も同じく、限界なのだ。
身体の熱が、さーっと引いていった。手が震えて、力が抜けていく。そんな、こんなこと、今まで、一度だってなかったのに。だって。
「生きようとしてない」
「なんだって?」
「この子は、生きようとしていない。死のうと、しているんだ」
絞り出した声が、これほど弱々しく響くのは。
本当の意味で限界だから。本当の意味で、打つ手が、もう何一つとして残ってはいないからだった。




