○第二十八話○四回目のノック
※ ※ ※
「ハウエルさんは、このあとどうするんですか?」
「え?あ……ああ、そうだなー」
いつのまにか本名呼びになったフーミルは、今度は床だけでなく、上の方の、窓だとか天井だとかを掃除し始めた。もちろん俺も手伝おうとしたが、やったところでやはり、まったくの足でまといとなってしまって、「椅子に座っておいてください」と諭される始末だった。にしても、俺が持っている掃除道具は箒くらいのものなので、たくさん不便なことがあるはずなのに、彼女は当たり前にそれらを、布を濡らしたり棒に巻きつけたりして、即席の掃除道具をつくって解決していくのだ。恐ろしい子である。
「あて」
鉄製のドアの取っ手に手をかけて、フーミルは何かしびれたように痛がった。
ーーーーーー、あれ?
「私としては、もしクロウスが出てきてしまったとしても、もう敵討ちなんて考えてほしくないですけどね。そりゃ、憎いのはそうなんですが。もう……誰にも先に死んでほしくないので」
「その気持ちは嬉しい。ありがとう。……しかしだな、止まらないとこの地獄は終わらないんだ。クロウスの目的がわからないことにはーー」
「目的なんてないんじゃないんですか?楽しいからやってるだけ、みたいな、狂ってるから」
「俺も初めはそう思ったけれど……。どうも、何かあるんだよな。クロウスは、生粋の快楽殺人者というわけでないことは、俺が会ってそう思ったんだから、確かだと思いたいんだがーー。
俺の他に誰もクロウスの本性を見ていないわけだしな。
だから、あいつには目的があって、条件があって、その中で最も最善の策を採って、その結果クロウスが『快楽殺人者だと思わされている』のかもな」
クロウスは、条件を破壊してまで楽しむことはなく、限られた状況の中で精一杯楽しもうとしている。もし前者であれば、俺とフーミルは死んでいるし、王国は存亡の危機。しかし、クロウスもタダでは済まない。恐らくは、共倒れとなることだろう。
いつのまにかゴミ袋の口を結んでいる。掃除はもう終わったらしい。家は脱皮してしまったみたいに色が真新しくなっている。建てた時は、こんなだったのか。一年もここで暮らしてはいないが、だんだん変わっていくので、汚くなっているのに気づけなかった。時間は、経っていたのだ。あの時から、ずっと。
(あなたは、生まれてくるべきではなかった)ずっと前に煤けた記憶が、まだ熱を持っていた。それはじくじくと燃えて、俺の脳にこだました。
あの時から。ずっと。
「そろそろ私も帰りませんとね」さらっとフーミルは言った。実にさらっと。きっと、言葉以上の意味が込められていて、それを抑え込んでいる。だから、俺もこれ以上、引き出してはいけない、と思って、さらっと言った。
「……そうか。わかった。掃除、ありがとうな」
「……はい」
どうして、たった二文字でここまで伝わってくるのだろうか。なんだ。それだけか。拍子抜けというか、それで、その反応で、当たり前だが、当たり前なのだが、でも。俺には痛いほど分かるのだった。そうだ。まだお礼を言っていない。もはや、なんに対してのお礼だったかすら、忘れた。俺が思い出すのは遠い過去ばかり。きっと今それを言ってしまえば、彼女はきっと行きたがらなくなる。でも、
(ーー格好『よがって』んじゃない、俺)
今は、言いたいのだ。俺は、今なのだ。
「フーミル」
「?」
「俺もーー」
コンコン、と聴き慣れた音が水を差し、俺はずっこけた。その拍子に、入れ歯が取れた。
(いや……またかよ)
「あら、また新聞」
どうせ音のした方、玄関の向こう側には、あの憎たらしい面したしょんべん野郎がよこした手紙を届けに、あの憎たらしい面した鳩がいるわけだ。俺は卓の下を転がっていった入れ歯を屈んで取る。そして、立ち上がった拍子に頭を打った。
「あて」
フーミルはそれを尻目に玄関に寄る。頭が当たり揺れた卓から、何か紙のようなものが落ちていた。入れ歯を嵌めながらそれに目をやる。理由はなかった。ただただ、ふと。
それはギルの手紙だった。ある一文に目がいった。『理由はなかった』。
『全く、休刊日に働かせるとは、王子も人使いの荒いことです』
「ーーあれ?」
今日、休刊日だったよなあ。なのにどうして。
『どうしてーー』
その時である。
ざくっ。ザン。
ブシュ
ぶしいいい。
ぶしいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
「 あ…… え? は 」
いいいいいいいいいいいいいい
パキッ
ぐぱあ みぢみぢ
いいいいいいいいいいいいいい
『その音は』
「え? ああーーえっえ、 え?」
ぐしぐし
グシャッ いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
『形容し難い音だった』 ゴト
いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
ドサ。
『』あえていうなら
この非現実を 現実的にいうなら。
あえていうなら
『白衣で体をすっぽり覆ったクロウスくらいの背丈の人物が、フーミルを片手剣らしきもので左胸から股間部まで袈裟斬りにし、倒れた彼女の下腹部から夥しい量の血と、桃色の腸が飛び出す音だった。』
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