#2
高校二年――2
「どっかいかんか?」自分でも驚くほど滑らかに口が動く。
「いいよぉ。どこいく? ちょうどゲームにも飽きたところなの」
天羽は筐体を一瞥し、頬を柔らかく膨らませた。
「せやなぁー……。川は?」
「いいねぇー。よぉし、川にレッツゴー!」
天羽の鮮やかな黄色のシャツには、なんだかわからない英単語が白縁の黒文字で書かれていた。退色したデニムのスカートには、実用的意味のまるでなさそうなレザーのベルトが巻かれている。そこから伸びる細く白い足の先では、簡素なサンダルが楽天的な水玉模様に包まれていた。
美由紀は肩まで伸びた髪を一歩ごとに自分の背中にぶつけている。僕はその様子を三歩引いたところからじっくり眺めていた。軽やかな毛髪は、重力を無視して、今にも舞い上がりそうな気がした。
デパートの出口で、天羽は急に足を止めた。髪に見とれていた僕は、危うく彼女の背中に覆いかぶさるところだった。天羽は僕に振り返り、自分の腰に手をあて、ポーズを作った。
「いーけない。おやつを忘れてたね」
「……そんなん要るんか?」
「何事にもおやつはいるのよぉ。知らなかった?」
天羽がいたずらっぽい笑みを浮かべて言う。よくわからないけれど、僕は照れくさくなって、視線をはずしながら「そないなルール、まったく知らへんわ」と言った。なぜこんなにもどぎまぎしているのだろう? 天羽に潜む影を確かめるのではなかったのか? 僕は自分に対してひとりごちた。
僕たちは食品売り場まで戻った。女子と寄り添うように歩く、という状況を誰かに見られやしないかとひやひやしたが、隣に居るのが同学年の男子に抜群の人気を誇る美由紀であったため、多少見られたいような気もした。思春期の心は不安定であやふやだ。
「どれがいい? 私はポテチにするよ」
「僕もポテチがええな」
「えー。つまらないよ、それじゃあ」責めるような口調で美由紀は言う。
「そんなん言われても困るわ」
「レディファースト、だよ」
彼女は左肩で僕の右肩を押してきた。女の子の匂いがふわりと鼻腔をくすぐり、鼓動が速まる。
「よし、ほな、チョコチップクッキーはどうや?」声が裏返りそうだった。
「いい選択ですねぇ。本案は美由紀委員会を通過しましたぁ」
天羽は子供のように笑い、か細い手でポテトチップスの袋とクッキーの箱を持った。途中、オレンジジュースを二本追加し、レジに向かった。お金を払おうとした僕を、「おやつが要るって言ったのは私だからね」と天羽は制した。
僕たちはようやくデパートを後にした。
空は不気味なほど高く、鳥の群れも戸惑いを隠せないようにふらついている。カマキリの卵のような入道雲が南の山々を取り囲んでいた。太陽は無神経に輝いている。さっき飲み干したジュースがどんどん汗に変わっていく。
「暑いね」額に右手をかざしながら天羽は言う。
僕は猪名川に向かおうとしていた。デパートの南側には県道が走っており、そこを越えたところに東西に広がる堤防が築かれている。堤防の一部からは河川敷に下りる道があり、さらに進むと潜水橋で対岸まで通行できるようになっていた。
「ねぇ、川って楽しい?」堤防にたどり着いたとき天羽は言った。
「せやなぁ。僕は楽しいと思ててんど……。なんせ涼しいのは間違いない」
「いいね」天羽は嬉しそうに歯を見せた。
雲はますます大きく、重くなっていた。僕たちは堤防の道を歩き始めた。
「キツネノマゴ」
そう言って天羽は堤防脇にしゃがみこんだ。僕は花の種類なんて向日葵と朝顔ぐらいしか分からないので、「ほー」とオールマイティな相槌を打った。
「君も暑い?」天羽は楽しそうにキツネノマゴと呼ばれた小さな赤紫の花をつついている。僕は堤防の道に現れた逃げ水がゆらめく様を見ていた。
暑さを余計に感じてきたので、あきらめて天羽に視線を移した。彼女の背中にはブラジャーの線が露骨に浮き上がっており、僕は汗で湿った彼女の細い背筋に目を奪われた。背中に妙な視線を感じたのか、天羽は立ち上がりこっちを向いた。
「ごめんね。いこうっ」
美由紀はとても自然に僕の手を握ってきた。どちらも汗ばんでいた。女の子の手はもっと柔らかいものだと思っていたが、天羽の手は小さくて薄くて細かった。そこまで考えてから、僕は焦りだした。何を考えているんだこいつは? しかし、悪い気はしなかったので、なすがままにさせておいた。もう、周りの目は気にしないことにした。覚悟を決めて彼女の手を少し強く握った。それを感じ取ったのだろう、天羽も握り返してきた。
「手つなぐの好きなの」
「わかった」
「わかった、かぁ。武田君て面白いねぇ」
天羽は僕の目を見ていた。僕はそれに気づいていたが、前を向き続けていた。彼女とちゃんと目を合わせるのは今ではないと思った。天羽のペースに飲み込まれてしまいそうだった。
ちくしょう、あっちもこっちも暑いやんけ逃げ水め。
僕は遠くに焦点を定め、「なにが?」と答えた。
「いろいろとね」
「なんじゃそら」僕はここで天羽と目を合わせた。自然に振り向くには、今だ。
彼女の細まった目はまっすぐに僕を刺していた。デパートでの陽炎が夢だったかのように、力強かった。気負いしてしまい、僕は目をはずした。やはりまだダメだ。
美由紀は手をつないだまま、僕の前に回った。左手に下げていたスーパーの袋を僕の右手に握らせる。
「競争っ!」
天羽は僕に袋を持たせ、くるりと背を向けて堤防の道を走り出した。後ろ髪が順光を浴びて、宝石のように輝いていた。追いかけるべきなのだろう、と思い僕もダッシュした。無意識に天羽を気遣っている、というか彼女のペースに巻き込まれている自分に気がつき、苦笑した。天羽はサンダルをぱたぱたと鳴らしながら堤防を駆けた。下手くそな走り方だった。手が振れていない、足が伸びきっていない、重心が定まっていない、まるでなっていなかった。僕はすぐに追いついた。
「お前、もっと上手に走れへんの?」
「せ、精一杯」
美由紀はあごを上げて、息も絶え絶えといった様子で答えた。僕は吹きだした。
「な、何よぉ。ひどいなぁ。私だって本気を出せば、もっと、もっと上手に、はし、走れるんだからぁ!」
「今、精一杯って言うたばっかりやんか」
僕は久しぶりに面白くなった。最近、毎日同じことの繰り返しで嫌気がさしていた。
六月に三年生が引退したため、僕たち二年生が部活のイニシアティブをとらなくてはいけないのだが、どうもモチベーションがあがらなかった。
七月、同級生が二人辞めた。異口同音に「そろそろ入試勉強せなあかんから……すまんな」と言った。ただでさえ少なかった部員は五人になった。紅白試合はおろか、他の部から助っ人を借りなければ公式試合にでることすらできない。秋には新人戦があるが、出場できないだろう。
実質的にはすでに廃部状態だ。
練習に参加する部員も二三人。今日は、僕と一年生の田中だけだった。部長である僕が辞めたら彼も心置きなく辞められるかもしれない。
しかし、僕は無理を承知で新人戦に出ようとしていた。負けたっていい。出ることに意義がある。僕がサッカーを続けてきた証明にしたい。
「背筋を伸ばして、あごを引け」
「こ、こうね」
大分良くなった天羽のフォームを見て、僕は満足した。「サッカーの新人戦、頭数足りへんねん。お前出るか?」もちろん冗談だ。
「いいね。何でもこい!」
美由紀はダッシュした。僕が指導した姿勢はもろくも崩れ、元の無様な走りになっていた。練習に出てこない奴らより本当に天羽を出してやろうか、心意気が一番大事だ、僕はそう思った。まるで、自分に言い聞かせているように響いた。心意気。心意気を失っちゃダメだ。
「天羽! ファイト!」僕は後ろから叫んだ。
僕たちは河川敷まで駆けた。照りつける太陽は痛かったが、それにも増して流れる汗が心地よかった。
「いい気持ち」
僕の心を代弁するように天羽が言った。先ほどとは異なり、空はその無実さを前面に出したかのように青かった。遠くの山では空との間に浅葱色の境界線が引かれ、美しい景観を演出していた。
一方、入道雲はどんどん成長しており、すでに全天の三分の一を占めていた。
河川敷は萌黄と黄で構成されており、著しく芳しい。猪名川と河川敷の間は雑木林で隔てられていた。僕たちは、だだっ広い河川敷に立ち、川の上を抜けてきた少し冷たい風を受けながら、林を眺めていた。堤防から潜水橋へと続く道路を通れば簡単に川まで着く。ゴールは目の前。胸がぐっと少し狭くなる。
天羽との時間を少しでも長引かせたい。
僕は道路ではなく、林を横断する道を選んだ。舗装もされていなければ、獣道すらない。行けるのかどうかもよくわからない。
「道沿いに行ってもええねんけど……冒険せんか?」
「いいねぇ」
僕は天羽が了承することを分かっていた。漠然とした勘に近いものだが、僕は、やり取りの中で徐々に天羽美由紀という人間を理解し始めていた。彼女は僕の申し出を断らない。僕をがっかりさせるようなことはしない。
多分、彼女は何かにおびえている。僕があばこうとしている天羽にとりつく陽炎。
緑の河川敷を歩き、林の前に来た。僕の倍はあると思われる胴回りをもった木々が鷹揚に生きている。一望しても林の奥はようたる有様で、光を拒んでいる。一歩間違えればこの世には帰ってこられない雰囲気すらある。
一方、僕たちが立っている河川敷の原っぱとの境目では、鮮やかな新緑が太陽の光を透過させ、そこに見える陰影はバロック美術のように美しい。飴をちらつかせて拉致する誘拐犯と対峙しているようだった。天羽は僕の隣で目を大きく開いて林を眺めていた。多少怖じているのかもしれない。
「行こか」僕がそう言うと、美由紀は僕の手を強く握って「よし」と言った。
薄暗く湿った空気で満たされた林の中に僕らは足を進めた。
天羽と少しでも長く時間を過ごしたい。
気持ちが硬い形をとり始める。
川というゴールなんか要らないのに。スタートだけあればいいのに。
ちくしょう。天羽に惹かれているんだろう。それならそれでいい。
素直になろう。僕は大きく一歩踏み出した。
現在――2
来る。僕は脳から全身に指令を送った。全ての稼動部で筋肉の収縮音が鳴る。大の字に寝転んでいた僕の体は、起き上がりこぼしのように一気に立ちあがった。いつ止むともしれぬセミの慟哭は、ぴたりと急に終わりを告げた。さわさわとたなびいていた足元の雑草も周りの木立も揺らぎを止め、写真のように動かない世界が出来上がった。
僕は顔を少し上げ、青空にたった一つだけ浮かんだアンパン型の雲を見据えた。十秒ほど、全てのものはネジを巻くことを忘れてしまったかのように動かなかった。
雲の端が揺らいだ。その数秒後、ごうという音とともに、上空から突風が吹きつけてきた。ともすれば地面に膝を突きそうになるほどの下降気流。
僕はこれを待っていた。
(続く)