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下降気流の啓示  作者: 小豆沢Q
1/2

#1

現在――1


 恐ろしく穏やかに晴れた日は、町で一番広い河川敷に行く。ここは野球場ほどの面積があり、あるところには背丈ほどの高い草が生え、またあるところでは地肌が覗いている。夏になればところどころに黄色の花(名前は知らない)が咲き乱れ、芳しいにおいを放つ。それは川のせせらぎと絡み合い、周囲に清涼を感じさせる。まるでビートルズのコーラスみたいだ。この場所を通るたびに思う。自然のジュークボックスは、ときにI’ll be Backであり、ときにHelpを奏でた。

 五年前、初めてこの場所を見つけた日。その日も今日と同じように、恐ろしく穏やか(・・・・・・・)に晴れた日だった。



高校二年――1                                                                           

 朝から部活に行き、センタリングからのシュートをみっちり昼まで練習した。帰りがけにはデパートの地下にあるゲームセンターで五〇円のジュースを買う。夏休みの間中、高校二年生の武田和也が行ういつもの儀式。激安自動販売機の前で、僕は炭酸飲料を一気に胃に流し込んだ。

 空になった缶を備え付けのゴミ箱に投げ捨てる。からん、という乾いた音が耳に入り込んできたのと同時に、咽喉に焼けるような感触が走り、耳の奥がじんと音を立てた。僕はのどで液体が沸騰している様を想像する。満足感が食道から神経細胞を通り、脳に到達する。

 刺激的な時間を堪能した後、僕は自動販売機から離れ、一階に上がる階段に向かった。そのとき、五メートル程離れたところに設置してあるクレーンキャッチャーの前に、天羽が立っているのが見えた。僕の足は自然と止まり、彼女から目が離せなくなった。

 なぜだろう? いつもそうだ。天羽美由紀はいつだって、僕の視線を釣り上げるだけ釣り上げてリリースしてくれない。それは、僕が彼女とほとんど話したことがないからなのか、彼女の細い足に魅力を感じるからなのか、他の誰よりもとび色に染まった瞳のせいなのか。

 何の問題もない――と僕が一方的に感じているだけかもしれないけど――高校生活の人間関係の中で、僕が唯一言いようのない異質さを感じるのは、天羽の近くにいるときだった。彼女は全てに対し一線を置いて接している(と僕は思っていた)。

 親友の鈴木にしたって、クラス委員長の山本にしたって、彼らは天羽のことをごく普通の女子と思っている。むしろ、快活で明るいとすら感じているらしい。

 僕は孤独を感じる。誰かと会話していて、天羽の話題が俎上にのぼったとき、孤独を感じる。とても不安で、クランプを起こしそうになる。僕が間違いで、彼らが正しいのか、僕が真実で、彼らが誤っているのか。それとも、どちらも正解で、どちらも誤解しているのか。このことを考え出すと、僕のちっぽけな脳みそがざわめいて、眩暈を感じる。容量オーバー。

 僕はゲームをしている天羽を見て決心した。今日こそそれを確かめてやるんだと。


 ところ狭しと立ち並ぶゲーム機は、無機質な音と質感を辺りに撒き散らしていた。僕は隘路をすり抜け、クレーンキャッチャーを挟んで天羽と相対した。彼女は僕が近づいてきたことにも気づかず、相変わらずクレーンを陽炎のような目つきで見ていた。

 僕が異質さを感じるのは、彼女が時折見せるこの表情だった。目線は確かにどこかを向いているのだが、焦点が定まっていない。

 汗が一筋、背中を流れ落ちた。

「天羽」

 天羽は、はっとしたように僕の方を向いた。もうすでに、瞳は人間らしさを取り戻している。

 普段は隠しているから、誰も気づかないんだ。鈴木も山本も。

 天羽はいつも学校でみんなに見せている笑顔を僕に向けた。

「武田君かぁ。びっくりした」

 天羽は左手を自分の右胸に当てた。彼女の爪には人工的な艶があり、マニキュアを塗っていることがわかる。そんな僕のいぶかしげな様子に気づいたのか、天羽は「これ?」と言った。

「マニキュアつけてんのか?」

「そうよぉ。可愛いでしょ?」天羽の手が僕のほうに伸びてくる。

「いや、よう分からへん」

 僕は少し笑って、どういう風に答えれば最善なのか分からない質問に答えた。天羽もそんな僕を気遣ったのだろう、顔をほころばせ、自分の爪をまじまじと見つめた。

「そうだよねぇー。ちょっと早いかなぁ」

「僕がその可愛さに気づくとき、お前はもうおばあちゃんなってるわ」

「どういう意味?」少し首を傾けて尋ねる姿は、精工に作られた人形のようだった。

「死ぬ間際に悟りが開ければ分かるやも、ちゅうこっちゃ」

 天羽は首を傾けた姿勢のまま一秒固まり、ゆっくりとにやけながら口を開いた。

「最悪ー」



高校一年――1


 天羽は一年前、僕が高校一年生の夏に千葉から転校してきた。僕と親しい友達とは、都会の、しかも関東の女というものを、学校近くにある肉屋のお嫁さんしか知らなかった。天羽が転校してくることを担任から聞かされたとき、程度の差こそあれみんな興奮した。

 彼女は初めて教室に姿を現すと同時に、僕たちの期待に百パーセント応えてくれた。落ち着き、大人びた物腰。洗練された顔立ち。無機質な共通語。天羽は田舎者が胸の中で描く都会人を体現していた。

「はじめましてぇ。天羽美由紀と言います。千葉から転校してきました。兵庫に来たのは初めてなので、みなさん色々教えてくださいねぇ」

 天羽には語尾をこもらせる癖があった。それが少しコケティッシュに感じられたのか、当初一部の女子には敬遠された。しかし、一週間もしない間に、天羽は全てのグループと上手く接する術を覚えていた。そして、二週間と半日でクラスの一員として認められた。

 僕は彼女の中にある陽炎に気づいていたので、少し距離をとっていた。最初にあれを見たのは天羽が転校してきた次の日だった。

 多くの学生がそうである(と僕は思っている)ように、僕は学校に自分だけの秘密の場所を作っていた。僕の場合は、技術室の奥にある四畳程度の物置だった。ここからは校舎と塀の間にある二m程の小道が見える。

 そこには実に様々なものがやってきては消えていく。立小便をしにきた上級生、授業で使う植物を採取しにきた生物の先生、散歩を楽しむ猫、鳴声を練習しにきた雀。僕は彼らの様子をこっそり眺めて楽しんでいた。

 あの日は天羽美由紀がいた。

 放課後、僕は部活動が始まる前に物置に寄った。財布を無くしたのだ。可能性がある場所はもうここしかなかった。物置のパイプ椅子の周辺をあらためるため、扉をあけた。なんということはない、部屋の真ん中に財布はあった。どうやら、この場所は本当に誰も近寄らないらしい。

 僕は財布を取り、大事にポケットにしまった。ぞわぞわしていた胸元が嘘のように静まり返った。サッカー部の部室に向かうため、物置のノブを握ったところで、小道にたたずむ天羽の姿が窓から見えた。

 不意に目を奪われてしまい、僕の体は動かなくなった。つばを飲み込む音が体中に響く。何をしている? 天羽は高い塀の方を向き、今にも壁に崩れかかりそうだった。僕がそう思うと同時に彼女はふらつき、右手を塀についた。僕は声を出すこともできず、天羽の動きを観察していた。何か言わなくては、とも思ったし、このまま眺めてもいたかった。

 この小道は、技術室と僕のいる物置からしか見えない。今、技術室には誰もいない。物置にいるのは僕一人。つまり、今、世界中で僕一人だけが天羽美由紀を見ているのだ。じっとりとした夏の夕方、僕は汚く暑苦しい物置にいるにもかかわらず、そこから動けなかった。いや、動きたくなかったのかもしれない。僕は彼女の私生活をのぞいている感覚を覚えた。そんな状況も手伝ったのであろう、僕は彼女から目が離せなかったし、今までにないほど興奮していた。天羽はゆっくりと向きを変えようとしていた。どうやら壁に背中をつけたいようだ。

 まずい。それでは向き合ってしまう。僕は隠れようとしたが、目も体も金縛りにあったかのように動かないままだった。借金取りのノックのように鼓動が暴走する。

 天羽は回転を終えた。しかし、僕は見つからなかった。

 天羽はずっとうつむき加減に地面を見ており、彼女の頭から二十センチメートルばかり高いところにある物置の窓は、その存在すら気づかれていないようだった。

 転校生である天羽はまだ一人だけ違う制服を着ていた。薄い水色のセーラー服は、この小道でとても異質に感じられた。思いがけず天羽と面向かうこととなった僕は、どういうわけか制服の上から彼女のくびれをしっかり意識し、想像していた。ろくろで作られる器のように滑らかな曲線だった。

 僕は彼女の腰を見てみたくなった。それはすぐさま触ってみたい欲望にとってかわられた。

 今すぐ窓を割りたくなった。手に汗がしみこんでいくような気がした。徐々に薄暗くなっていく路地は、別の世界のようにも見えた。そこでは全ての道徳観念も吹き飛ぶ常識があるような気がした。二メートル離れたところで立ち尽くす天羽は神聖にも邪悪にも見えた。

 僕は大きく、しかし静かに深呼吸をした。自分を暴力的に襲った気持ちが静まっていく。肺がわさわさと鳴った。僕は何を考えているのだろう! 罪悪感が沸きあがり、自分の衝動を恥じた。

 彼女の足元では、側溝を流れる排水がちゃぽちゃぽと不気味な音を立てている。僕の体は、ようやく指先を動かすことができるようになった。ゆっくりと太ももを動かし、腹筋に力を入れた。目も自由だ。僕はドアの方に向き、静かに立ち去ろうとした。最後に天羽を一瞥しようと思い、窓に視線を戻した。

 そこには、鋭い目つきでこっちを見ている天羽がいた。

 僕の体はもう何年も冷凍庫に入っている魚のように、再びがちがちに固まった。目も背けられない。驚くほどねばい汗が鼻の頭から噴出し、鼻先に流れた。天羽はぴくりとも動かない。粉塵で薄汚れた窓ガラスが、彼女の存在を幻のように映し出している。

 数十秒、永遠のような時が流れた。僕は多少落ち着いてきた。美由紀の目に敵意がないことを感じたからだ。

 その上、天羽は確かにこちらを向いているが、目の焦点は僕に合っていない。彼女は無限遠のかなたを見ているようだった。その表情はまるで、無くしてしまった大切なものが二度と手に入らないことを悟ったかのようだった。人が希望を捨てた瞬間を写し取り、のっぺらぼうに貼り付けたらこうなるのかもしれない。天羽の心はいったいどこにあるのだろう? どこにいってしまったのだろう? なんて悲しい顔をしているのだろう?

 ぼんやりと開いた口からは八重歯がのぞき、はっとするほどの幼さを感じさせる。僕は天羽美由紀が同級生であることを久しぶりに意識した。

 彼女はいつの間にか泣いていた。涙が目頭から溢れ、控えめな高さの鼻横を通り、蠱惑的な唇を湿らせた。僕は足元が崩れ落ちるのに似た感覚にとらわれた。それは前日転校してきたばかりのアーバンな女の子が、誰にも気づかれずにこんな路地で泣いているという状況を目の当たりにしたものでないと分からない感情だった。僕の中でとてつもなくわがままな感情が首をもたげてきた。彼女のことが知りたい。

 小道はやはり薄暗いのだが、次第に赤みが強まり茜色に染まりつつあった。太陽は勤めを終えようとしている。右手はノブを握ったままだった。汗は額から流れ落ち、眉毛を難なく通過し、僕の目に滑り込んできた。思わず視界が遮られた。塩のシャープな感覚に耐え、もう一度目を明ける。その瞬間、風が古びた窓を揺らした。

 天羽はゆっくりとしゃがみこんだ。壁と背中との摩擦で、美由紀のセーラー服は一瞬彼女のみぞおちの下までめくれあがった。下にシャツは着ていたものの、そこに現れたくびれのラインは僕が思い描いていたものと寸分たりとも違わなかった。天羽はさらに落ちていく。とうとうしりもちをつき、地べたに体育座りをした。スカートは太ももの付け根でぐしゃぐしゃになり、鼠蹊部からは白い下着がぼんやりと浮かび上がっていた。天羽は放心しているように見えた。

 僕は全ての神経が倍増したかのように敏感になっていた。誘惑にさらされた可哀想な目は美由紀の腹部と股間を交互に追っていた。ズボンは性的な圧力を渾身の力で抑えていた。天羽は相変わらず物置の窓の奥にある何かを見ている。

 また風が吹いた。彼女の前髪がふわりと舞った。その瞬間、天羽の瞳に魂が宿り、僕の金縛りも解けた。百分の一秒程、目が合った気がした。僕は罪悪感と羞恥心に支配され、あわてて物置から飛び出し、全力で校舎を走り続けた。振り返ると天羽が立ってこっちを見ていそうだった。足を止めると天羽が迫ってきそうだった。

 僕はサッカーの練習に十分遅れた。


(続く)

随分昔(高校生の時だったかな?)に書いた小説をリライトしています。

せっかくなので、投稿して日の目を見させてあげようと思います。

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