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1.終わりは始まり

どうやら戸籍の上では夫であるあの人が、90歳を目前にして、死の淵にいるらしい。「らしい」というのも、私と夫は夫婦であるにもかかわらず50年近く別居しているからだ。死期が近いとの知らせを受けたが、私は特に何も思わなかった。それくらい他人なのだ。

名ばかりの夫婦。最期に見たい、話したい相手は私ではないだろうと思っていたから呼び出された時は純粋に驚いた。


どうして私と?


疎遠とはいえ、この状況では会わないわけにはいかない。夫の代理人を名乗る弁護士から何度も懇願とも言える訪問があったこともあり、指定された日に渋々行くことになった。


この家に入るのはいつ以来になるのか。久しぶりに見る夫は痩せ衰えていたが穏やかな顔をしていた。最後に会ったのは親戚の葬式だったか、10年近く前のことだ。そうした行事がないと私たちは会うことがなくなっていた。


「呼び出してすまないね。もう動けないものだから」

「いえ」

「君が元気そうでよかった。相変わらず美しいね」

「用件は?」

「手紙に書いたとおり、残された時間が少ないようだから最後に話しておきたくて」

「…私たちに話しておくことなんてないでしょう」

「……あの子のこと、すまなかった。君につらい思いをさせたのに、私の方が先に会うことになってしまった。申し訳ない」

「あの子の話はしないで」

「すまない。私が翔太郎を本当に大切に思っていたのは最後に伝えておきたかった」

「……名前を呼ぶ資格なんて、あなたにはない」


私を夫はなんともいえない顔で見ていた。やっぱり会いたくなかった。


「あなたがどうなろうが私にはもう興味はないの。私たち、最後の最後まで合わなかったわね。さようなら」


夫はなぜか微笑んでいて、ひらひらと細い手を私に向けた。私は部屋を出た。

同席した弁護士が私を追いかけ、睨んでいた。いや、涙を流していた。


「奥様、あなたという人は…」

「あなたもこんなことのために何度もご苦労様でした」


どうやって帰ったのか分からないほど、怒りに満ちていた。私は長年一人で暮らした家に戻って、あの子を思って泣いた。この50年間、ずっとこうして生きてきた。遺影を飾るだけでも何年もかかった。


「翔太郎…翔太郎…」


もうあの子の声も思い出せない。


夫はそれから1週間後に亡くなった。


葬式は滞りなく済んだ。夫は自分の葬式や死後のもろもろの段取りも全て済ませていた。そのおかげで私はほとんど何もせず、残された妻として参列者に挨拶をするだけでよかった。私たちのことは皆さんご存知だったので、形式的な挨拶をするとそそくさと帰っていった。


「君にとってこの結末でよかったのかな」


声をかけてきたのは、夫の親友だ。私はこの人が好きではない。いや、夫が好きだったものや夫を慕う人、夫にまつわるすべて嫌いなんだ。夫の親友だったこの男は杖をついてすっかり爺さんになっていた、爺さんになっても憎たらしさは少しも変わってはいない。


私は話す気持ちにもなれなくて、小さくおじぎをした。帰ろうとする私の背中に言葉を続けた。


「お前たちはバカだ。最後までな。何度も別れろと言ったんだ、どこがいいんだこんなババア」

「その通りね、別れてくれたらよかったのに」

「お前のこと愛してたんだよ、分かってんだろう」

「やめて」


思わず振り返った。


「愛とかなんとか、そんな次元の話じゃないの。私は憎んでた。あんたも同じ。きれいなストーリーになんかさせないからね」


彼は怒りに唇を振るわせると、杖をバンと半ば叩き落として私の腕を掴んだ。


「これを読んで、せいぜい残された人生を後悔するんだな。初めて会った時から俺はお前のことが大嫌いだったよ」


渡された紙袋に入っていたのは夫の日記だった。この日記が私の運命を変えたのだ。


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