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月と炎の伝説  作者: 蒼井七海
第三幕 暁光は希望の道を指し示す
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第一章 雲と雷の修行場 4

『灰の泉』はさほど大きくなく、かたわらには狭い道がのびている。泉の前に馬を止めてすぐ、ルーは左を指さして、小首をかしげながら何事かを呟いた。先ほど見かけた標識の確認でもしているのだろう。

 一方、イゼットとアーラシュは手早く水を水筒に汲み、隣で馬たちに泉の水を飲ませた。危険だらけの山の中、休憩は必要といえど、長居は無用である。人馬の水分補給が済むと、山の珍客たちは泉を視界に入れたまま、ゆっくりと動きはじめた。

「灰の泉を左に回れ……って、あの道に行けってことでいいんだよな?」

「そういうことだと思う」

「です」

 先ほどのルーと同じように指さし確認をするアーラシュに、イゼットは曖昧にうなずいた。その横で、ルーは力強くうなずく。

 律儀にも泉の左側へ馬と足を進める三人は、泉の青色が背後へ消えるまで無言だった。言葉を発してはいけない、あるいは、注意を怠ってはならないという奇妙な緊張感が、彼らの中にあったのだ。

 そうして、人ひとり通るのがやっとの道へ踏み入ったとき、ルーがまた声を上げた。

「あ! 見つけました」

「今度は……岩に彫ってある?」

 泉のそばに佇む岩を白い指が示す。それに気づいたイゼットも、ヘラールを止めて頭を軽く傾けた。壁画のように彫られているも(・)の(・)をまっさきに把握したのは、今度はアーラシュである。

 地上からそれを見た青年は、乱暴に頭をかいた。

「こりゃ……これも、矢印か?」

 彼が妙にうわずった声で呟いた、その内容をよく見ようと、イゼットたちは身を乗り出していた。彼らに向けて、アーラシュは手振りも交えて内容を伝える。

「上向きの矢印しかないぜ」

 荒れてかさついた人差し指が、真上を示した。つられて、イゼットとルーは上を向く。しかし上には空しかなく、またかかりはじめた鉛色の雲ばかりが見えた。それ以外、変わったところはなにもない。

 三人は、無言で首をかしげあう。しかし、直後に馬たちがそわそわしだしたので、我に返った。ルーの顔つきが一瞬で険しくなる。耳をそばだてた少女は、潜めた鋭い声を放った。

「まずい――なにか落ちてきます!」

 突然の警告とその内容に、アーラシュが「はあっ!?」と戸惑いの声を上げる。彼を横目に無言で手綱をにぎったイゼットは、あいた方の手で古い友人の腕を強引につかんだ。アーラシュはつかのま顔をこわばらせたが、すぐに両腕をイゼットの胴体に回し、軽快な身ごなしで雌馬に飛び乗る。一連の出来事は、数を二つ数える間に起きた。

 馬たちが走り出す。それと、背後から低い音が響いたのは、ほぼ同時のことであった。ずずず、と重いなにかが滑るような音、それは次第に、地鳴りへと変わっていった。

 なにかが崩れた。それは雷鳴のような音からも、風に乗って吹き付けてくる砂塵からも知れる。

 馬たちは、なおも落ち着かない。しかし、一応災いのもとから離れているおかげか、かろうじて人間たちの指示を呑んでくれていた。

 互いの声も聞き取れないほどの音に覆われて、ぎりぎり馬で動けるかどうかの不安定な地面を走る。山はかすかに揺れていて、ときどきルーが体勢を崩すこともあった。

 すべてがおさまった後、イゼットたちはようやく背後を顧みて、無言になった。自分たちが来たばかりの道を、ごろごろと丸い落石がふさいでいる。石の大きさはさまざまだが、小さなものでも人の頭ひとつぶんはあった。

「おっかねえや」

 アーラシュが、かろうじて、という様子で呟いた。それは、ほとんどうめき声のようなものだったが、ぶきみに静まり返った山中にはよく響く。

 イゼットは、ため息をのみこんでかぶりを振った。

「……とりあえず、来た道は戻れなくなった」

「まあ、引き返すつもりはないので大丈夫だと思います。けど、こういうことが頻繁に起きるとすごく疲れそうですね」

「勘弁してくれ。こっちの身がもたねえわ」

 心細げな顔で豪胆なことを言うルーを見やり、アーラシュが首をすくめる。一人のときじゃなくてよかった、と彼が呟いたのをイゼットは聞いたが、それについて言葉を挟むことはしなかった。そのかわり、無意識のうちに頭を抱えていたが。

「にしても、さっきの矢印のことはもう少し考えたかった」

「上、上ですよね……」

 ラヴィをなだめながら、ルーが神妙に考えこんでいる。イゼットは、アーラシュに馬から下りてもらった後、彼女が頭から湯気を出しそうなほど悩んでいるのに気がついて、また上を見た。

 落石があったばかりの岩壁は、そうとは思えないほど重く沈黙している。軽く見上げただけでは、縞模様のできた壁がえんえん続いていることしかわからない。しかし、さらに頭を上げたところで、イゼットは違和感をおぼえた。

 崖になっている岩壁。その上に、何やら影が見えた。木ではない。人工物のような、四角いものだ。彼はとっさに頭を戻す。ヘラールが一瞬、こちらを見た気がした。

「ねえ、ルー」

「ひゃい?」

「あれ、なんだろう」

 よほど集中していたのか、変な声を上げたルーは、イゼットの指さした方を見て、目玉がこぼれ落ちそうなほどに瞠目した。

「あれ……たぶん石板です」

「石板って」

「『まっすぐ進んで、灰の泉を左に回れ』って書いてあったのと同じものです」

 つまり、次の行き先を示す標識ということだ。それを聞いたアーラシュが、胡乱な目で崖の上をにらみつける。

「こんなところに、遊びみたいな細工しやがって。昔のクルク族ってのはどういう神経をしてるんだ?」

 まったく同感であったが、イゼットは唇を笑みの形にしただけで、なにも言わなかった。

「ご先祖ですからしかたないですね。ちょっと確認してきます」

 微妙な空気を共有する男たちの横で、ルーがマグナエを外している。表情はすでに、気合満点のときのそれだ。イゼットはむろん、止めようとはしない。今さら止める気はなかった。

「気を付けて。一応下で見てるから」

「ありがとうございます! ラヴィも、ちゃんと待っててくださいね」

 ルーはラヴィから意気揚々と飛び降りる。岩壁に駆け寄ると、しばし表面を観察し、出っ張りを見つけ出してそこに足をかけた。

「では、行ってきます!」

 振り向いて、拳をにぎりながらそう言い残した彼女は、そして軽々と壁をのぼっていく。以前の修行場で似たような経験をしたからか、今度のイゼットは落ち着いて少女を見送ることができた。

 どんどん小さくなる姿。それを、目に焼き付ける。見えなくなっても道筋を追う。万が一なにかあったときに、すぐ動けるように。

「なあ、イゼット」

 横合いから声がかかる。アーラシュだ。

「今さらだけど、止めなくてよかったのか? クルク族とはいえ、落石があったばかりの壁をのぼるとか……」

「ルーだから大丈夫なんだよ。それに、止めて聞く子じゃないからな」

 イゼットは笑う。そこには屈託もなにもない。アーラシュはもの言いたげな表情で、けれどひとつうなずいて、岩壁を見上げた。冷たい風が髪をなでる。

 イゼットはふと、自分がまったく気まずさを感じていないのを自覚して、首をひねった。どういう心境の変化なのか、逆に、どうしてあのときはあれほど心が乱されたのか。自分のことなのにわからない。

 それぞれが無言で思い悩んでいるうちに、ルーが戻ってきた。彼女もまた、困った顔をしていた。何を見つけたのか、慎重にイゼットが尋ねると、ルーはしょぼくれた子犬のようにうなだれたまま、ささやいた。

「この山を越えるんじゃなくて……もっと上に登らないといけないみたいなんです……」

 イゼットとアーラシュは、思わず顔を見合わせる。少女にかける言葉は、とっさには出てこなかった。

 時は、おそらく昼を過ぎかけた頃。黒い雲が西方より湧き出して、また蒼を覆い隠そうとしている。

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