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月と炎の伝説  作者: 蒼井七海
第一幕 陽光は若き命の糧となる
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第四章 狂信者の歌 1

 分厚い雲が空を覆い、月の見えない夜だった。

 鳥すらも寄り付かない荒野に、異様な人の列がしずしずとやってくる。彼らは厚手の外套をまとい、顔も別の布で覆っている。北よりいくらかましとは言え、ペルグの夜は冷える。このくらいの厚着でなければたちまち凍えてしまうのだ。彼らの異様さを示しているのは、服装ではなくむしろ、彼ら自身から醸し出される空気である。雰囲気、といってもよいだろう。彼らにまといつく空気は重く、暗く、それでいて熱かった。近寄った者を圧し、ひるませる狂ったような熱がある。

 彼らはある場所で立ち止まった。なにもない道。しかし遠くには、連なる山々の影をのぞめる。山の方角に体を向け、曇天を仰ぐ。そして彼らは口々に祈りの歌をうたいはじめた。聖女と精霊を賛美する歌に似たそれはしかし、まったく別のものを讃えている。

「天より来たりし智者たちよ」

 一人が歌えば、全員が唱和した。

「我らは今日ここにその志を継ぐことを誓う」

 どす黒い熱が、雲の下に渦を巻く。

「汝らに遠く及ばぬ愚者たちが、その叡智を地上に残し、広めるときなり」

 阻むもののない夜を、人々の低い声が走り抜けてゆく。

「ああ、叡智を持ちし者よ。我らを見守り給え」

 叫ぶような歌声の後、歓喜の声が天地を揺さぶった。



 ※



 イゼットとルーは、ひとけのない山道を進んでいた。岩ばかりの地面はかたく、凹凸が激しい。それでも馬が進めぬほどではないが、いっそうこまめに休憩をしなければいけなかった。先の休憩から半刻ほど歩いたところで、二人はまた地に足をつける。ごつごつとした足元をものともせず、軽やかに飛び跳ねたルーが、道の端で背伸びした。

「わあ、遠くがよく見えますね」

 黒に限りなく近い茶色の瞳が、無邪気に光る。あと半歩も進めば崖下に転げ落ちるところだが、それを怖がるそぶりもない。イゼットは笑顔でその背を見守りつつ「落ちないようにね」と釘を刺した。物見遊山気分であちこちをながめる少女をよそに、馬のそばに腰を下ろす。水筒から一口だけ水を飲み、馬にも水をやった。鼻を鳴らす彼女の毛並みをなでながら、無味乾燥な風景に目を向ける。

 茶色いばかりの景色も、遠くに映る険しい山の影も、イゼットにとっては懐かしいものだ。傭兵の男にどつかれながら山越えをしたときのことを思い出すと、自然に笑みがひきつる。

「もう少し楽しいことを考えようか」

 イゼットはそう思いなおし、しかし直後に考えることじたいを放棄した。

 何気なく見た風景。その中に、確かな違和感を抱く。目を見開いて青い空をにらみ、彼はそれを探した。ややして、違和感の正体を見つけたのは、彼ではなく連れの少女だった。

「イゼット、イゼット!」

 崖っぷちから景色を楽しんでいたはずのルーが、あせった様子で駆け戻ってくる。

「どうしたの、ルー」

「あれ、見てください。空が変なんです」

 白い指が示した方を目で追って、イゼットは絶句した。

 青い空。その中の、ある一帯だけが黒いのだ。いや、よく見たら赤紫のようでもある。ともかく毒々しい色だった。しかも、不自然に色が変わっている。そこにだけ異なる絵の具を落としたかのようだ。

「なんだあれ……」

「雲です。あそこの雲だけ色が違うんです」

 さすがに狩猟を生業としているだけある。ルーは、イゼットではとらえきれないものを見ていた。感心してうなずいた若者は、しかしすぐさま厳しい顔つきになる。色の違う雲。なにか、妙な感じがする。顔をしかめたそのとき、感覚が開かれた。鮮やかな色と、明瞭な音が急に押し寄せて、イゼットはよろめく。だが、すぐに我を取り戻した。

 自然の音にまぎれこむさざめきに気づく。精霊たちが警告の声を上げているのだ。危ない、行くな、そういうようなことを、精霊たちはしきりに繰り返していた。勝手に感覚が開いたのはおそらく、精霊たちがイゼット一人に呼びかけてきたからだろう。めったにないことだ。妙な感じは、嫌な予感に変わりつつあった。

「あっちには近づかない方がいいかも」

 イゼットは言った。無意識のことだった。真剣な、というより深刻そうな若者の言葉に、ルーはうなずく。

「ボクもそう思います。でも……」

 太い眉を寄せた少女は、雲をにらみ、再び指さす。そして、同行者に現実を突きつけた。

「あっち、たぶん、通り道ですよ」

 イゼットは唖然とする。少しして、彼女の指摘をのみこむと、黙って頭を抱えた。


 予定していた方角へ進むほど、怪しい色の雲へ近づいていく。ルーの指摘は正しく、先へ進むには「危険」な一帯を突っ切らなければいけないらしい。

 馬たちの動きが怪しくなっている。たいてい、人間よりその他の動物の方が、目に見えぬものには敏感だ。無理に彼らを連れていけば、錯乱して逃げ出すかもしれない。とはいえ、まさか置き去りにしていくわけにもいかない。どうしようかとイゼットが悩んでいる横で、ルーが小さく身震いした。

「なんだか、ざわざわしています」

「ざわざわ?」

「胸のあたりがもぞもぞして、落ち着かないっていうか……」

「ああ」

 イゼットは、深い同意をこめてうなずいた。その感覚は、なんとなくわかる。危ないものや空気の悪いところへ近づくと、彼はいつもそうなるのだ。もちろん、今も。

 暗紫色の雲は、渦を巻いたりゆったり流れたりしている。しかし、大きくは動かない。透明な檻に閉じ込められているかのように、決まった場所でうごめいているだけだ。ぶきみな光景を改めて目にとめ、イゼットは眉をひそめた。自分もなにか感じているのだろうか。喉のあたりに不快なものがこびりついている気がする。

「通りたくないですね……。別の道はないんでしょうか」

「わからない。誰かに訊ければいいんだけど――誰がいるってわけでもないしね」

 下手に道をそれて、迷ってもいけない。しかし、あの場所に近づくのはもっとだめな気がする。ぐるぐると悩んでいる間に、視界が開けて、あたりが暗くなってきた。

 馬たちがいよいよ怯えはじめた。

「これは、まずいな」

 彼らがこれ以上怖がる前に、二人は一度その背を下りた。近くの細い木に馬をつなぎ、一度歩いて進んでみることにした。

 一歩進むごとに不快感が広がってゆく。本能の警告を理性で黙らせ、イゼットは足を前に出した。

 草の一本すら生えていない荒野が広がる。さえぎるものなど何もない。なのに、あたりは夜と勘違いするほどに暗かった。それもこれも、ぶきみな雲のせいだ。雲のすきまでなにかが光って、雷鳴のような音が響く。

 イゼットは深く呼吸する。五十歩も進むころには、息苦しさをおぼえていた。黙っていても、立ち止まっていても、危険な感覚は強まった。懸命に息をして、自分を確かめなければ、どうにかなってしまいそうだ。自分のことで手いっぱいだったイゼットはしかし、腕をつかまれた感触で我に返る。

 ルーがイゼットの右腕にしがみついていた。かすかに震える肩を見て、イゼットは表情を曇らせる。

「大丈夫?」

「へ、へいきです」

 気丈に振る舞っているが、顔面は蒼白だ。

「平気だけど……怖いです」

「……だね」

 イゼットは同調した。それ以外になにも思いつかず、考える余裕もなかった。

 二人はそこで立ち止まる。そろそろ進退を決めた方がいいと思ったのだ。示し合わせたわけでもないのに、同じ時に。

 だが――相談が始まるより早く、ルーが瞠目した。

「あれって」

「ルー、何かあったの」

「人がいます」

「――え?」

 飛び出た言葉をにわかに信じられず、若者は素っ頓狂な声を上げる。だが、少女は強い口調で繰り返した。

「あっち、人がいます!」

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