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月と炎の伝説  作者: 蒼井七海
第一幕 陽光は若き命の糧となる
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第三章 狩人たちの誇り 3

 少年は、相変わらずイゼットに背を向けて立っている。クルク族であるという彼は、年齢不相応の冷たさをまとってルーと対峙していた。ルーはルーで刺々しく応戦している。イゼットの知らない彼女がそこにいた。

「おれがどこにいようとおれの勝手だ」

「それはそうですね。では、追及しないでおきましょう。ですが、いきなりこんなことをした理由くらいは説明してください。関係のない他人を危険にさらしたんです。勝手だとは言わせませんよ」

 怒っている。かなり怒っている。アハルの食堂で荒くれ者を言い負かしたとき以上だ。少年はすぐには答えなかった。代わりに小さく舌打ちをしたようだった。イゼットが驚く間もなく、彼はうなる。

「おまえがどうするか、見ようと思ったからだ」

 少年の背中があるのでルーの表情は見えない。しかし、眉をひそめているであろうことはわかる。

「どういう意味です」

「説明しなきゃだめか」

 ルーは、言葉に詰まったようだった。その間に、少年がはじめて少し身じろぎをする。

「まあ、アグニヤのできそこないの割には動けるんだな、って思った」

「――知ってるんですか? 他の氏族のことなのに」

「ヒルカニアやペルグの同族には知られた話だ。ジャワーフの子どもの『白い娘』。『十(とお)の奉納』に失敗した落ちこぼれ。それがよくも、こんなところをうろついてられるな」

 またしても答えはない。ただ、イゼットにはわかった。なにかに耐えるように呼吸する彼女の気配が。とはいえ口を挟むどころでもない。それを許さぬ空気が、小道に充満している。なんの意味もなく馬たちの方を見ると、いななくこともなく、おびえていた。

「そのとおりです」

 ようやっと、泣くようにルーが答えた。

「『十の奉納』は確かに失敗しました。両親や兄弟にたくさん迷惑をかけてしまいました。でも、昔のことを引きずっててもしょうがないですから。そのためにここにいるんです。ここにいるのは通過儀礼の一環で、意味もなく放浪してるわけじゃないですよ」

 無理に笑っているのだろう。空気が伝わってきた。

 イゼットは間に入る隙をうかがっていた。だが、その目に突然、見慣れぬ顔が映りこむ。少年が振り向いて、イゼットの方を見たのだ。

「おれは、そういうの、大っきらいなんだ」

 イゼットは一瞬反応して、槍をにぎりしめてしまった。

「あの儀式がどういう意味を持つものか、知らないわけじゃないだろ? それなのに、前向きなふりして自分がしでかしたことから目をそらす。にこにこして表面ばっかり良い格好をする――」

 そこまで聞いて初めて、彼はルーに言ったのだと気がつく。

 だが、気がついたとき、少年の姿はそこになかった。

 かすかな気配を拾った若者は、転がるように後退した。身を守るために槍を構えようとしたが、その前に、胸のあたりに重いものが叩きつけられた。息が詰まった。苦痛をおぼえたときには、体は後方に吹っ飛んでいる。

 とっさに受け身を取った。空気とかすれた音が吐き出された。喉はひりひり痛んで、心臓が脈打つたびに胸が痛みを訴える。それでもイゼットは、自分が自分の身を守ったのだとわかっていた。あと少し動くのが遅かったら、あと数歩距離が足りなかったら、頭をかち割られていたはずだ。

 動こうとしたイゼットは、しかしそれができなかった。

「――その上、生ぬるい町の人間に尻尾を振るのか。反吐が出る」

 少年の声がすぐそばで響いた。

 少女の悲鳴が聞こえると同時、喉を強く圧迫されて、イゼットはあえいだ。少年の一見細い腕が首に押し当てられているのだ。

 腕が痛い。息ができない。――このままだと、死ぬ。

 直感したイゼットはもがこうとするが、上手くいかない。少年が上にいるからだ。華奢な外見からは想像もつかない力で、彼はイゼットをおさえつけていた。

「やめろ! その人は関係ないだろ!!」

「悔しいなら来てみればいい。おまえが来るより、おれがこいつの首折る方が早いと思うけど」

 少年は恐ろしいことを淡々と言う。少し力が強くなった。

 体じゅうが悲鳴を上げて、頭の中がかすんでくる。いくら口を開けても空気が入ってこない。

 まともな言葉にならない思考を、頭の中で何度も弾けさせる。

 そのとき、イゼットの中に浮かんだのは、燃える柱と、涙にぬれた夜色の瞳と、忘れもしない声。


『約束、忘れたら許しませんから』

 まだ、果たしていない約束。

『力を貸してください』

 果たさなくてはいけない。


「……ざけるな」

 少年が、連れによく似た目を見開くのを、彼は見た。そこになんの感慨も抱かず、イゼットは腕を持ちあげる。褐色の腕をつかむ。動揺したのだろうか、今までびくともしなかったそれが、わずかにずれた。

「ふざけるな。誰が、おまえなんかに、殺されてやるかよ」

 少年が厚い唇を震わせる。なにか言おうとして、結局言えずに、ただうめいた。

「おまえ……」

「だいたい、さっきから黙って聞いていれば、勝手なことばかり……。そりゃ俺だって、ルーのことをそんなにたくさん、知ってるわけじゃないよ。それでも一緒に旅をして、いろんな面を見てきてる。でも、君はそうじゃないだろ」

 力が、せめぎ合う。幼くも端正な顔が、初めて歪んだ。

 イゼットは頑固な少年をにらみつけ、歯を食いしばる。

「同族だからって、なんでも知ってると思うな。知る努力もしないで、言葉を振りかざすな!」

 せめぎ合いが終わる。若者の手が少年の腕を払いのけた。

 頭に血が昇ったのだろうか。少年は、太い眉を吊り上げ、顔をまっ赤にして、彼らの言語でなにかを叫んだ。

 イゼットに飛びつこうとした彼を、しかし流暢なペルグ語が止めた。

「いー加減にしろ、アンダ」

 緊迫の現場にそぐわないのほほんとした制止の言葉に、少年の動きが止まる。その隙にイゼットは体を引きずってその場を離れた。追いすがろうとする少年を、後ろから伸びてきた手がとどめる。肉刺と傷とで岩のようになっている手は、少年の襟首をむんずとつかんで持ち上げた。

「今のおまえは、菓子が欲しくて駄々こねる七歳児以下だ。すっこみやがれ」

「うるさい! 離せデミル!」

「嫌でーす。俺、殺人犯と一緒に行動したくねえもん」

 少年はばたばた暴れるが、彼をつかんだ手――もとい男は、まったく動じない。口笛でも吹きはじめそうな表情だったが、ルーとイゼットを順繰りにみると、少しだけ目もとをひきしめた。

「うちの連れが騒がせたな。代わってお詫び申しあげる」

 男は真剣に謝罪し――ているのだが、誠実さに欠けているように思えるのは、なぜなのか。

 ともかくイゼットは、そしてルーも、突然の闖入者に対してすぐに返事ができなかった。

 それでも男は気にした様子がない。子猫の襟首をつまんでいるかのような態度で、少年――アンダが落ちつくのを待っているようだった。

 その様子を見ているうちに、イゼットは少しずつ落ちつきを取り戻した。とりあえず、立ちあがろうとするが、景色が歪んでふらついた。

「おいおい。大丈夫か?」

「す、すみませ……」

「声もまともに出てねえじゃんよ。無理すんな。も少し寝てろ」

 結局、イゼットは中途半端にしゃがみこんで息を整える。そこへルーが駆けつけた。彼女はイゼットに少し声をかけてから、剣呑な目で男と少年を見上げた。

 男は、もともと細めの眼をさらに細くしてから、ぶら下げている少年をにらみつける。

「ったく。やりすぎだぜー、アンダくん」

「おまえにだけは言われたくない」

「俺は仕事以外で人殺さねえもーん。ましてや、こんな善良そうな坊ちゃんを手にかけるなんてとんでもない」

 少年はむっつりと黙りこんでしまった。そうしていると、よくしゃべる男とは対照的だ。

 ルーも彼らの間の抜けたやり取りで怒りを削がれたのか、不満げな表情ながら初めて男に話しかける。

「あの……あなたは何者で、彼とはどういう関係なんですか?」

「ん? ああ、そうさな。素性明かさねえのは不公平さな」

 男はなおも、少年を持ちあげたまま、どこか不敵に口の端を持ちあげた。

「俺はデミル。戦争屋やったり用心棒やったりしてる。で、こっちはアンダってんだ。俺も詳しくは知らねえが、ヒルカニアとペルグの南部国境あたりで拾って以降、旅の連れさ。――氏族うんぬんは、嬢ちゃんの方が詳しいだろ?」

「ええ、まあ。そうかもしれません」ルーはぶすっとした様子で、それでも丁寧に答える。その頃になってようやくアンダは暴れるのをやめたが、デミルは彼から手を離さなかった。

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