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月と炎の伝説  作者: 蒼井七海
第三幕 暁光は希望の道を指し示す
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第三章 火の民の詩(うた) 6

 詩文を詠(よ)み上げた少女の声は、少しずつ尾を引きながら消えていく。族長と向かい合って座していたイゼットは、音の余韻を噛みしめる余裕もなく体をこわばらせていた。母語で紡がれた一語一語が、頭の中を延々と回り続ける。

 詩を詠んだルーは、うやうやしく石板をヤグンに返した。しかしヤグンは、軽くかぶりを振る。

「それはイゼット殿に持っていてもらいなさい。十五か所の詩文すべてが刻まれた貴重な記録だ。きっと役に立つ」

「……じゃあ、やっぱり、この詩文は『月輪の石』とかかわりがあるんですか?」

「私はそう考えている」

 ルーは石板を腰の袋にしまって、イゼットの隣に座る。それを見て、ヤグンは静かに切り出した。

「我らクルク族の間で『天上の人(スヴァル・カ・ディフター)』と呼ばれている人々がいる。彼らは遥か昔、この地がヒルカニアと呼ばれるよりさらに前に、この地を出て天に渡った人間だという。その天上の人(スヴァル・カ・ディフター)の歩みを記録したのがこの詩文というわけだよ。クルク族は、おそらく彼らの存在を語り継いでいる唯一の民族だ」

 イゼットとルーは顔を見合わせる。イゼットの困惑を表情から読み取ったのか、ルーが少し考えこむそぶりを見せた。

「スヴァル・カ・ディフター……空の上の人、みたいな意味ですね」

「空の上……」

 かみ砕いたルーの言葉を反芻し、イゼットは目をみはった。

「じゃあ、ヒルカニア語だと天上人(アセマーニー)?」

「あっ……!」

 ルーも、今になって気づいたらしい。息をのんで族長を振り返る。彼はなにも言わなかったが、おそらくそれは無言の肯定であった。

 沈黙の中で、ルーの表情がさらにこわばった。

「もしかして、アグニヤ氏族(ジャーナ)の修行は、この詩文を若い人たちに読ませて、受け継がせるためのものなんですか」

「その通りだ。もちろん、旅の中で体を鍛え、外の世界を知る、という意味合いもあるがね」

 ヤグンの言葉の終わりに、からかうような響きが混じる。ルーは照れくさそうに黒髪をいじくった。族長は少しの間、孫を見るような目つきでその光景をながめていた。しかし、ふいに表情を落ち着かせて、イゼットの方へ向き直る。

「あなたが先ほど直感なさった通り――ヒルカニアにも彼らのことは伝わっているはず。聖教の伝播(でんぱ)によって忘れ去られてしまったことも多いことだろうが、古くからの伝承はそう簡単に消えるものではない。石板とその記録は必ず道しるべとなる」

 ヤグンは少し眉を上げ、それでも穏やかに礼を取った。喧騒を遠くに聞く小さな空間の中では、静寂と、赤い明かりだけが揺れている。

「『やっている』ことの証明より『やっていない』ことの証明の方が困難だとも申す。厳しい戦いになることは必至。しかし……決して負けぬように。勝たなくても、負けぬようになさい。我々も必要なときは力をお貸ししよう」

「……はい。ありがとうございます」

 イゼットは軽く頭を下げた。右半身が強く痛んで、そのくらいのことしかできなかった。じんわりと温かい思いは、行き場を失って熱量を増していく。それでもそれを上手く表現するすべを思いつかず、イゼットはしばし瞑目していた。

 沈黙が訪れる。そして聞こえてきていた宴会のざわめきも、じょじょに落ち着いてきていた。騒がしいことには変わりない。しかし、聞こえてくる笑い声はまばらだ。

「族長」

 感傷に似た沈黙を打ち破ったのは、ルーだった。褐色の顔をわずかに動かした老人を大きな黒い瞳が見つめる。

「ひとつ、お願いがあります」

「……言ってみなさい。想像はつくがね」

「ボクにもう一度旅をさせてください。イゼットの旅に、同行したいんです。最後まで」

 イゼットは顔を上げ、軽く目をみはった。真剣な表情の二人を思わず見比べる。無礼な行為だということはこのとき頭の中から飛んでいた。

 ヤグンが目を細める。今でこそ毛が白くなり、しわがあり、表情は穏やかだ。しかしそうしていると、若い頃はさぞ勇猛で精悍な顔つきの戦士だったのだろう、ということが容易に想像できる。

「成人の儀を終えた者は、集落に残り狩猟や家事に従事する。それがこの里の習わしだということは、知っているな?」

「はい。それを承知の上で、もう一度集落を出ることを許していただきたいのです」

 そんな話は初めて聞いた。イゼットは声を上げそうになるのをかろうじてこらえた。二人の間に充満する凍てついた空気をかち割れるほどの度胸は、彼にはない。そうすべきでもないだろう。

「ボクは、約束したんです。イゼットの味方でいるって」

 ルーの言葉は淡々として、けれど隠し切れぬ熱をもって響く。

「彼の厳しい状況は、族長にはもうおわかりでしょう。この状況でボクは旅をやめたくない。中途半端にしたくないんです。最後の最後まで、イゼットを支えたいんです。たとえどんな結果になっても」

 だから、お願いします――そう言って、ルーは礼を取った。深く上体を曲げて拳を胸に当てるしぐさ。それをヤグンは無言で見つめていた。

 空白の時。その中では、誰も動かない。身じろぎどころか、呼吸の音さえも漏らすのがはばかられる沈黙の中で、イゼットはただ事の推移を見守る傍観者であった。しかし、沈思した後、イゼットはヤグンを正面から見つめる。傍観者であり当事者である彼の、この場においては精いっぱいの意思表示だった。

「クルク族は元来、ここより南の地で狩猟採集を営む民族であったという」

 老いてなお力強さを持った声が、空白をじわりと火の色に染めていく。イゼットとルーは顔を見合わせたが、なにも言わなかった。

 光と影が、不安定に揺れる。語る声は、闇の合間を縫っていた。

「それがしだいに北上し、勢力圏を多少ではあるが広げた。古来より高い身体能力を持っていたクルク族は、本来の営みのみならず、戦闘行為でも力を発揮し、農耕民から注目されるようになった。そして今や、各地に集落を作る氏族がほとんどだ」

 ヤグンの瞳がわずかな光を反射する。鋭さは消えていた。

「民族や国家の形は、一定ではありえない。我らの命ですら、永久不滅ではないのだからな。移り変わり、そしていずれ滅びるものならば、世に合わせて形を変えることも、必要やもしれん」

「……それじゃあ」

 息をのみ、身を乗り出したルーに、ヤグンはほほ笑みかける。

「ルシャーティよ。おまえが集落を出ることを、族長の名の下に許可する」

「ありがとうございます!」

「大事な方なのだろう。しっかり支えてさしあげなさい」

「はい!」

 顔を輝かせるルーに、ヤグンは言葉をかけた。しかしその目は、イゼットの方を見つめている。若者は大きく呼吸をして、胸の前で両手を組み、円環をつくった。

 それは、聖教式の最大級の礼である。


 シュナ少年は大きな目をさらに見開いて、馬の姿を見つめている。見つめられた側のヘラールはといえば、特に警戒するでもなく、扁桃の形をした瞳をくりくりさせて、その面を少年へ向けていた。一人と一頭が互いにどう思っているのか、イゼットには測れない。それでも、両者の間でなにか特別な会話がなされている気がする――というのは、考えすぎだろうか。

 イゼットは、無言で見つめあう子どもと馬から距離を取って、岩の家の壁際に腰を下ろした。後ろ手に壁を触ってみると、ごつごつとして時に鋭い、自然のままの岩の感触がそのまま伝わってくる。

「おっ、シュナの奴、楽しそうだな」

 笑い含みのヒルカニア語が降ってくる。イゼットが顔を上げた先に、何やら籠を抱えたジャワーフがいた。彼は客人の視線に気づくと歯を見せて笑ってから、その隣に腰を下ろす。

「兄弟の相手までしてくれてありがとうなあ」

「いえ。あ(・)れ(・)は俺が言い出したことですから」

 二人揃って、少年の方をうかがう。それまで雌馬と距離を保っていたシュナが、鼻の少し上に手を触れていた。その動作に恐れがあまりないのは、狩人として様々な動物と触れ合っているからだろうか。

「……そういえば、お話は終わったんですね」

「まあな」

 肩をすくめる大男を見て、イゼットは曖昧に頭をかく。その内心に気づいたのか、ジャワーフは左手でイゼットの頭を乱暴にかき混ぜた。

「うわっ」

「別に驚きはしなかったさ。俺もターシャも兄弟もな。もともと、ルーは一つどころにとどまっていられる性分じゃない。確固たる目的があるなら、なおさらだ。そういうところは俺によく似ているからな」


 ――成人の儀と宴から、一夜が明けて。イゼットはシュナとの約束通り、彼をヘラールに会わせることとなった。そして、ルーはその間に、旅に出ることを家族に話すと言ったのだ。しゃんと背筋を伸ばして家に入っていく少女の背中を、短い時間で幾度も思い出す。そのたびに嬉しさと、一抹の罪悪感がこみ上げる。


「なあ、イゼット。俺たちはおまえさんに感謝してるぞ」

 ふいに声をかけられて、イゼットは顔を上げる。ジャワーフは顔を末の息子の方へ向けたまま、籠を抱えていた。

「ルーはクルク族の中じゃ異端者だ。俺たちは俺たちなりに、あいつにそれを感じさせないようにと色々やってきた。けど、閉鎖的な集落の中じゃ限界があった。肌が白いとか、十の奉納に失敗したとか、そういうことはどうしたって付きまとう」

「ジャワーフさん……」

「アグニヤの修行があろうがなかろうが、あいつは集落を飛び出してただろうさ。んで、その方が得るものも大きかったってことだ。あいつに必要なのは、外の世界の多様な価値観に触れることと、クルク族であることを抜きに向き合ってくれる人だ。――そ、おまえさんのような、ね」

 大きな手が、またイゼットの頭をかき混ぜる。今度は本人も驚かなかった。すっかり乱れた髪をいじりながら、苦笑する。

「これから、迷惑かけることもあるだろうが……娘をよろしく頼むよ」

「迷惑だなんてとんでもない」

 集落屈指の戦士と旅の若者は、顔を見合わせて笑う。そこへ、足音が割って入った。足もとが砂まみれになるのも気にせず、シュナ少年がやってくる。

「イゼットさん」

「どうしたの、シュナくん」

「あの、ヘラールに乗ってみたいんだ。いい?」

 たどたどしく問うてくる少年に、若者はやわらかくほほ笑んだ。

「いいよ。それじゃあ、やってみようか」

 シュナは目を輝かせて、首を縦に振った。イゼットはおもむろに立ち上がる。一瞬、ジャワーフを振り返ると、妙に爽やかな笑顔が返ってきた。イゼットは、肩をすくめてから、少年の手を取った。

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