3-3 あこがれ
月明かりで周りが見渡せる夜はきれいだが、その分手元を照らして犯罪の手助けにもなる。そういう日は夜警が多めに巡回するから、いずれはこの一帯にも来るはずだ。まだ遅い時間でもないから外を出歩いている人はいるし、退屈しのぎにうろついている倉庫番がここまで足を運んでくれるかもしれない。希望はいくらでも思いつくけれど悠長に待ってはいられないし、それらを呼び寄せるには猿ぐつわが邪魔で焦りだけが募っていく。
蹴られた腹の痛みがなくなったわけではないが、痛みを思い出すより度を超えた不安で頭が働かなくなっていた。どんなにもがいても、縄は緩むどころか逆に締まっていく。やすやすと解けるような縛り方でないことは知っているけれど、じっとしているわけにもいかず、腕を引き抜こうと思い切り体を前傾にする。
声さえ届けばと叫びつづけたが口が塞がれている状態では吸気が足らず、暴れれば暴れるほど呼吸が苦しくなっていく。気持ちだけが急いて指がつりそうになりながら腕を揺らしていると地面に影が落ちた。人が近づく気配など一切なかったのに、いつのまにか目の前に人の足がある。
はっとして足から徐々にその人物の姿を視線でたどっていく。街灯の明かりも十分に届かないこんな場所にきたその青年は、はじめて見る顔をしていた。
「こんばんは。セオドアさんですか?」
青年はこんな姿の自分に丁寧な口調で話しかけてきて名前を呼ぶ。はじめて対面した人だというのに、なぜか彼がリゼの兄だとわかった。それと同時に、こんな緊急事態だというのに、妹たちと同様にいかに妄想を膨らませすぎていたかを知って驚く。
口を塞いでいた布を取ってもらっているあいだ、呆けたように彼を眺めた。詰めものが取れて空洞になった口を必死に動かす。
「あっ、あの、リゼのお兄さんですよね?!」
彼の返事を待たず急いでことの顛末を伝え、恐る恐る彼の目を見た。覚悟していたのに彼は怒りを向けるでも咎めるでもなく、まるで聞こえていなかったかのように表情も変わらず、視線は縛られた縄をたどっている。そのまま屈み込んで柱の裏をのぞきこみ、船乗りでなければ知らない複雑な縄掛けを、こんな暗がりのなかでいとも簡単に解いてしまった。
「申し訳ありません。なんの役にも立てなくて」
「大変な目にあいましたね」
時間稼ぎにもならなかったことが悔しくて声が震えた。けれども本来なら一番動転すべき彼の声はすこしも慌てず静かに響く。
佇まいや雰囲気、静かなしゃべり方もどことなく似ているから兄妹と言われたらうなずけなくもないが、気になってしまうのはその見た目だ。事前に兄の存在について話を聞かされていなければ疑ってしまうほど、リゼの容姿からは絶対に予想できない、血のつながりを見つけられない顔をしている。
リゼといると自然と背筋をただされ、あの瞳で見つめられると固まってしまうが、兄のほうは親しみやすそうだ。海の男たちがこれみよがしに見せつけてくるわかりやすい男くささは欠片もなく、かといって見てくれだけの貴族の気障男というふうでもない。見るからに人畜無害、立ち姿は川べりでそよかぜに揺れる風見草のようで息を飲む。妹が連れ去られたことを知っても崩れない表情からは、落ち着きを通り越して感情が微塵も読み取れない。
「怪我は?」
声をかけられて自分が彼を見つめすぎていたことに気づき慌てて下を向く。蹴られて痛かったはずの腹の具合を一瞬忘れてしまっていた。
「ありません。腹を蹴られたくらいで気絶しかけて、本当に情けない」
「相手は喧嘩が本業なのだから、仕方ないですよ」
開放されてもまだしびれが走る両手を振って、無理やりひねられていた肩をまわす。縛られて擦り傷のついた手首を撫でて、自分の貧弱さをあらためて噛み締める。言われた通り、海賊も蹴散らすゲイルはそこら辺のごろつきとは違う。酔ったまま一瞬で決められたあの回し蹴りだって、相当加減していたに違いない。そうでなければセオドアのあばらなど粉々になっていただろう。調節された蹴りで十分だと思われていて、その通りだったのだから本当に情けない。
解いた縄を投げ飛ばすリゼの兄の横顔を見ると、左頬の色がうっすら違う。昼間ならもっとはっきり見えるだろうが、それは模様のように思えた。
船乗りたちは幸運の象徴や、航海の無事を願う模様の刺青を当たり前のように入れるが、貴族の子息が顔に刺青を入れるわけがないから傷痕かなにかだろうか。母の情報によるとまだ独り身らしいが、いくら貴族出身でもよほど資産がなければ顔にこんな大きな痕が残る人など、女性も怖がって近寄ってこないのかもしれない。
彼に支えられながらゲイルが消えた方角へ歩き出す。急いだところでゲイルの目的地まではわからないが必死に頭を働かせる。縛り上げたリゼを担いだまま町をうろつくわけはないし、かなり酔っていたからすぐに故郷に向けて出発したとも考えにくい。誰の邪魔も入らずふたりきりになれる場所なら何カ所か思い当たるがすぐに見つけられる保証もない。そんなことをしているあいだにリゼは──、そう思考が働いたとき冷や汗が背筋を流れた。
「いますぐ商会の留め役に連絡して応援を呼んできます!」
非力な商人でも人脈なら誰よりもあって横のつながりが強い分、声をかければ人海戦術でリゼを探し出すことができるかもしれない。
説明をするとき船乗りのように身振り手振りが大袈裟になって舌も絡まりそうになったが、リゼの兄は橋のたもとで立ち止まり、夜空を見上げている。まねて彼が見ている空を仰ぎ見るが、ただ建物に切り取られた闇夜が広がっているだけだった。
「どこに連れていかれたかはわかるから、あとは僕に任せてください」
「そんな簡単に探し出せるほどちいさな町じゃないですよ」
「うん、でもなんとかなります。耳と夜目が利く先導がいるのでね」
「はい?」
さきほどまで心臓が早鐘を打ちすぎて寿命が縮む思いだったのに、彼と話をしているうちに呼吸が落ち着いてくる。冷静さを保つためわざとそうしているのか、彼は人の調子まで整わせる妙な人だ。
「このことは誰にも言わなくていいですよ。できればその先のことも、深く考えないでいただけるとありがたい」
「……わ、かりました。僕はとにかくリゼさえ無事ならなにも構いません」
そう言うと彼ははじめて表情を崩し目を細めた。実際はなにも理解できていなかったが、この先なにが起こっても黙秘せよ、という意図だけは汲み取った。声も態度も高圧的では決してないのに、彼の目から視線を外すことができず黙ってうなずく。
それでは、と軽く手をあげながら言って、橋のうえを後ろ向きに彼は走り出す。また空を見上げたかと思うと、突然ふらっと横に移動し欄干を飛び越えていった。下にも通路はあるが大きめの船がくぐり抜けるほどの水路にかけられた橋だから、人が飛び降りて平気な高さではない。
予想外の行動にセオドアは間抜けな叫び声をあげ、慌てて欄干に駆け寄り身を乗り出し下をのぞいた。真下を見てもなにもなく視線を彷徨わせていると、いったいどんな奇術を使ったのか、何事もなかったように走り去る彼の姿はすでにちいさく、暗闇に影が溶けるかのように消えていった。
人通りのすくなくなった家路を歩き、誰とも顔を合わせず自室に引きこもった。寝台に寝転び今夜の出来事を思い出して何度もため息をつく。痛みよりも虚しさと情けなさで胸が詰まり、ため息の回数分だけ寝返りを打つ。あの剣を引っ張り出す気力すらなく、こんな落ち込んだ気持ちで眠れるわけないと思っていたのに、緊張と疲れが限界に達したのか気絶するように眠ってしまった。
◇
朝日が目蓋を透かして差込み、いつものように自然と目を覚ます。時間的にはしっかりと寝ていたことになるが質の良い眠りではない。父親とすこし話をしたがいつもと変わった様子はなく、朝食を済ませたら朦朧とする頭を揺らし、おぼつかない足取りで港へ向う。
この町に生まれた者は郷土愛が強くそれぞれに誇りを持っていて、町の評判を落とすような行動や旅人が町なかで危険な目にあうことをことさら嫌う。ゲイルはこの町の生まれではないが別の海町出身で、これまで幾度となく商船を守ってきた護衛としては尊敬に値する。それなのに、個人間での不和はあったが同じ海で仕事をする仲間だと思っていたからこそ、なおさら彼の行為は許せない。本来なら商会と護衛団にゲイルの所業を報告し、リゼたちのことを捜索すべきだったのにリゼの兄からの要望をなぜか無視できなかった。
朝靄のなかを進み、日当たりの悪い裏路地でかびの匂いにくしゃみをする。まだ誰もいない、湿った石畳の上を歩いていると、脇の路地から馬を連れた旅支度のリゼたちがひょいと顔をあらわした。
「おはようございます、セオドアさん」
丁寧なリゼのあいさつと、それに添えられた微笑みは、まるで昨夜のことは夢だったのではないかと思わせるほどに普通だった。セオドアはその場で飛び跳ねるほど喜んで、駆け寄り思わずリゼの手を取ってしまった。いつも通りの彼女も、嬉しそうに手を握り返してくれる。
「よかった無事で! 怪我はない?」
「ご心配おかけしました。この通り、私はなんともありません」リゼは腕を広げてくるりと回り、「セオドアさんこそ、お体痛みませんか?」と心配そうな顔をしてつづけた。
「全然、大したことないよ、こんなの」
まだ痛みに背中を丸めて歩いていたほどなのに、リゼの兄の前でそんなみっともない姿を晒したくなくて背筋を伸ばした。あの後すぐ兄に救出され何事もなかったと聞かされ、ほっとしたあまり自然と涙が滲んでしまう。ふたりはそんなセオドアを笑うことなく何度も感謝だけを伝えてきた。そして「例の王子様です」と、笑いを堪えている彼女に紹介され、改めてリゼの兄とあいさつを交わす。
ゲイルとのことを訊くとイリヤは「さあ」、と言ってとぼけた。ゲイルはいくら説得したところで到底素直に従うような男ではない。力づくで奪い返すほかに手立てはないはずなのに、彼の姿を上から下まで見回してもあの大男と争った形跡はすこしも見あたらない。それにどうやってすんなりと妹を見つけ出せたのか、好奇心が頭をもたげあれこれ知りたかったが、彼はなにも教えてくれないだろうと諦めた。ところが彼女はそんなセオドアの気持ちを汲んだように、「内緒ですよ」と言ってあの首飾りを摘み唇に軽く当て、いたずらめいた笑みを見せた。
リゼと目を合わせたイリヤはおもむろに袖をまくり左腕を伸ばす。なにをしているのかわからずじっと見つめていると、手首まで覆っている手甲の上に突然大きなミミズクが飛び寄った。想像もしていなかった出来事に呆然としていると、きれいな縞模様のミミズクは琥珀色の目を細めてセオドアを見た。よくある信心用具だと思っていたリゼの首飾りは、本当に守り神の加護を呼ぶ笛だった。
あのとき彼女にちっとも怯えた様子がなかったのは、助けが来ると知っていたからだ。このミミズクがリゼの位置を把握していて呼べば兄が必ずたどり着く。あの場で下手な勇気を振り絞り抵抗していたらセオドアはどうなっていたかわからない。ゲイルが危険な男だとすぐに認識して、セオドアを守るためにもリゼは大人しく捕まっていったのだろう。
あまりに立派な猛禽を間近で見られたことに興奮して羽を触ろうと指先を伸ばすと、ミミズクは短く喉を鳴らした。それがなにを意味をするのか、機嫌がいいのか損ねたのかわからず質問してみた。しかし、懐かれてしまって勝手についてくるだけでよくわからないと彼は言う。放鷹はこの地方でも一般的だが、野生の、しかも夜行性のフクロウが餌付けもなしに懐き、さらに人のために行動するなど聞いたことがない。
イリヤがどこを触っても大人しくしている野生の猛禽は、彼の指に喉をくすぐられてうっとりと目を閉じている。すっかり人慣れしていそうに見えるけれど、セオドアが手を出せば容赦無く噛むだろう。そんな気質や感情が読み取りづらいところ、目を細める瞬間など、どことなくイリヤに似ている気がした。
イリヤは数歩離れミミズクを乗せた腕を押し出すように振ると、ミミズクはその加速に合わせて空に飛び立っていった。空を見上げるイリヤはいま無防備にも背中を見せているが、誰でも触れるわけではないあのミミズクのように、この人に触れるのはきっとリゼだけなのだと、セオドアは伸ばしかけた手を引っ込めた。
「次はどちらのほうに向かわれるんですか?」
「聖都に寄ろうかと思っています」
イリヤともっと話をしたかったが、彼はいま二頭の馬に群がられている。催促されるまま交互に首を撫でたり構うのに忙しそうで、リゼも面白そうにその様子を見ていた。
「そうですか、僕も何度か行ったことはありますが良いところですよ。この町ほどじゃありませんけどね。道中お気をつけて、よい旅を」
ふたりの秘密をひとつ共有できたことは気持ちを満たし、昨夜の悪夢をすべて晴らしてあり余る。セオドアはその場で別れを告げ、町を出て行くふたりのうしろ姿をいつまでも見送った。
港につくと作業員たちがゲイルの話をしていた。早朝の出航に便乗して故郷へ帰る予定だったらしい。時間になってもあらわれず、町のどこかで酔いつぶれているのか、きまぐれに陸路を選んですでにたったのかとあれこれ話し合っている。酔っていても喧嘩には負けない男だから、誰も彼の身を案じたりはしていない。
納品書を届けるついでに父親にそれとなくゲイルについて訊ねた。父親ははじめは渋っていたが、セオドアの真剣さになにかを感じ取ったのか警告を含めて話してくれた。あるとき商会にゲイルが海賊と繋がりを持っているという情報が舞い込んだ。護衛団にも同じ情報が流されていて、限られた人間だけで協力し、ひそかに調べを進めていたという。
この一件をおおやけにできない理由がある。万が一、護衛団員が海賊と結託し商船の情報を流していたという噂が王国の耳にでも届いてしまったら、調査団が派遣される。海賊との関係を調査されているあいだ商船は欠航させられ、町そのものが閉鎖に近い状態になって町全体が被害を被る。護衛団もすこしでも疑いがかかれば解体を余儀なくされるが、解体だけで済むならいいほうだ。そうなる前に急いで事態を内々で収拾してしまいたい。ゲイルはそのことをすでに察知していて、早々に逃げ出す算段だったのかもしれない。
しかし彼らがいまどれだけ必死になって探そうとも、誰かの逆鱗に触れてしまったゲイルは今後二度と、すくなくとも生きている姿では見ることはないのではないかと、セオドアはなんとなく悟っていた。ゲイルが消えてしまったいま、真相はすべて闇のなかだ。
仕事を終えて家に帰ると早速妹たちが飛びついてきた。リゼたちが町を出たということを伝言しておいたから、それを聞き出したくてたまらないのだろう。かしましい妹に母親まで加わって全員一斉に好き勝手しゃべるから、なにを言っているか聞き取れない。
「ねえねえ、リゼのお兄さまってどんな方だった?」
「どんなって……なんだろう、動物に懐かれる人? ひとことでは言いあらわせないや」
「まあ、ひとことでは語り尽くせないほど魅力的な方だったのね。やっぱり無理やりにでもお招きするべきだったわ」
母の悔しがる声に父が呆れるような声をあげた。妹たちはまだ彼への妄想を膨らませて止まらない。リゼと瓜二つの美形で、歩くたびに花びら舞い散る王子様像を妄想している。実際のイリヤの顔立ちは説明しづらく、目立つほどでもないが左頬に痕があるくらいで、存在そのものは例えるなら「無色」という表現が一番適している気がした。
セオドアにとっても想像上のリゼの兄像とは似ても似つかない人だったが、外見はどうあれリゼのそばにいる人物としてはなぜか府に落ちて、あれ以上に納得がいく人はいないと思えた。彼の存在を安易に王子や騎士と呼ぶには得体が知れなさすぎる。しかしあの人がいる限り、何人たりともリゼには近づけないということだけは間違いない。
「セオ兄さまだって頭はいいし、お顔立ちもきれいだわ。もうすこししたらリゼとお似合いになる気がするのに」
「でもねえ、完璧な人が間近にいたらねえ。セオにぴったりだと思ったんだけど、リゼを射止めるのは難しすぎたかしら」
「ええ? いや、僕はそんな……最初から相手にすらならないよ。でもそうだなあ、顔に刺青でも入れてみたらなにか変わるかも」
その言葉に母親が椅子から転げ落ちそうになるのを見て、「うそうそ、まずは体から鍛えなきゃ」と慌ててすぐ付け加え、両腕を掲げて力こぶを作った。ちっともたくましくない自分の細腕を下ろし、自嘲気味に自室へと戻る。
ふたりが町を去っていくとき、そのうしろ姿から目を離せずしばらくながめていた。リゼは妹たちのようにはしゃいで兄の腕にまとわりついたり、取り止めのない話を一方的に浴びせることもない。ふたりが互いに向けあう眼差しを見るたび、胸の奥でなにかが砕ける感覚がした。大切な人を守れる人間になりたい。セオドアはふたりを見ながら憧れにすこしでも近づけるよう強くなろうと心に誓った。それが叶うころにはきっと、この胸の痛みも消えているだろう。